沈黙と言葉

「……自分を自分で傷つける言葉を口にする必要性はない。必要なのは血だろう? 飲めばいい」


 エストは熟考の末にシルヴィへ腕を差し出した。虚を突かれたように呆然とそれを見据え、遅れて動揺するように大きく目を見開いた。


「――――……ッ!」


 釘付けになった。乾いた喉が鮮血を求める。空いた胃が締め付け唸る。


 シルヴィは必死にぶんぶんと首を横に振ろうとした。目を瞑ろうとした。……動かせない。


 ――血を寄越せるほどエストに余裕があると思ってるの? エストは私が傷つかないようにしてくれてるのに。私だけが傷つけるの?


「…………」


 沈黙のなか、何度も自分を責め立てるみたいに自問自答した。……それでも、拒絶できなかった。パパやそのお友達が欲情を曝け出したみたいに。醜悪な衝動が渦を巻いている。


「なんで、そんな提案するの? 私がぁ欲しくて欲しくて堪らなくて、おねだりしたいぐらいで……。それでも我慢したいのを知っててやってるぅ……?」


 間延びする痺れた声。今すぐにでも皮膚に牙を食い込ませたくて、舌がどうしようもなく伸びようとする。


 シルヴィはエストの腕を掴んだ。開いた口を退けようとなんとか俯いて、縋るように額を乗せる。ぐりぐりと、誤魔化すように頭を押し付けた。


「放っておいても仕事に支障が出る」


「アハ♡ ……それだけが理由だったらエストはもっと優しくないよ。うわぁ、私すごい面倒くさいこと言ってるね? ……でも」


 言葉を交わす間はなんとか理性が生き残った。それでも抑えきれない艶やかな笑みを向けながら、エストにやり返されたように指で彼の口元を撫でた。


「……私がした事、理由も分かってないくせにやり返して、……黙ってればいいって言ったのをバカ正直に実行してくれて。ただ効率主義なだけなら、間違ってもエストはこんなことしなかったよ。思い出と感傷がーって言ってさ」


 言葉を口にするほど声は上擦っていく。酷い羞恥に眉間に皺を寄せた。


「会った時から優しかったけど……ここまでじゃなかったよ」


「知ったかぶりだな。俺の何が分かる。ゴタゴタ言わずに飲めばいい。それでキミが損をするわけじゃないだろう」


「……やだ♡ メスガキがぁ、大人しく男の人の言うこと聞くと思う? 嘘は付かないけど本当の事ははぐらかすの言うことなんて聞いてやんない。エストが本当は嫌なのに仕方なく血を飲ませる気なら、私は牙食い縛ってでも断る」


「何故だ」


 エストは威圧的に尋ねた。刺すような眼差しで見下ろす。シルヴィは口元を濡らす唾液を拭い、凛とした表情をなんとか取り繕った。すぐに蕩けるように口角は緩まったが。


「……えへ? 傷つけたくないからに決まってるじゃん」


「いつも平気で人の心にズケズケと入り込んで古傷を抉るのにか?」


「へぇ? いつも? いつもねぇ。でもエストもそうやって痛いとこ突くじゃん。……えっち」


 ――エストは黙り込んだ。苛立ちとも怒りとも違う。静寂の訴え。不服の物言い。シルヴィは気づかないフリをして言葉を続けた。


「またエストを抉らせて? そしたら飲むから。もっと……エストのこと理解(わ)からせて?」


 沈黙のなか、視線は口より物を言う。図々しい奴だと、言われた気がした。呆れ混じりのため息が水音に掻き消える。


「……出来ることをしたがために後悔をしたことがあった。こんな厄介な拾い物をしたのもそうだろう。……だが、出来ることをせずに後悔は可能な限りもうしたくない。同じ過ちを繰り返さないようにしたかった。それだけだ」


「同じ過ちって?」


 シルヴィは踏み込んだ。一瞬で限界近くにまで達する緊張のなか、エストは深く長く息を吐いた。掠れるような、震えるような一呼吸。


「同じ過ちは同じ過ちだ。できるはずのことをしなかった。悪いことばかりが重なるうちにルドヴィコと殺し合うまでに至った。原因を作ったのは俺だ。だというのに……この手であいつの腕と顔を焼き斬った」


「師匠……ルドヴィコと、何があったんですか?」


 レーヴェの問いかけにエストは俯いたまま答えられなかった。ガスマスクの奥から、息を呑むような小さな音がたしかに響く。


「……すまないとは思っている。レーヴェ、キミはルドヴィコとも親しかったから、尚更言うべきなのだろう。理解している。だが、理解していても出来ないことだ。……できないんだ。…………すまない」


 エストが沈黙以外の手段で弱みを露わにした。いままでそんな様子を見せたこともなかったのだろう。レーヴェは驚いたように目を見開いて、そのまま言葉を失った。


「……ありがと。教えてくれて。言えないって、言ってくれて。エストがこーんなにぃ、雑魚雑魚になってくれるの。……本当に嬉しい」


  シルヴィはそっとエストの手を握った。エストはその手を振り払うこともなく、怪訝そうに彼女を見下ろす。


「……何故手を握る。わかっただろう。キミに血を飲ませようとするのは俺の自己満足だ。醜い代替行為に過ぎない」


「その醜さを曝け出すことは全然、醜いことなんかじゃない。……仮面に隠したことを表に出すのは苦痛だって私はよく知ってる。……エストほどじゃないかもしれないけどさ。……だから、話してくれてありがとう」


 数瞬の間を置いて、エストは素っ気なく顔を背けた。伸ばしていた腕へ視線を向け直させるように、シルヴィへ再び腕を伸ばした。


「話はもういいだろう。……恥もいいとこだ。約束通りさっさと飲め」


「はーい♡ 私も味わうからぁ……エストも味わってね?」


「何をだ」


「私のディープキス?」


 エストは再び黙り込んだ。

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