隠すことのできない牙を、仮面で覆うことはできず

 エストはその様子を沈黙したまま見つめ、押し付けるようにレーションをシルヴィの手に握らせた。


「食べろ」


「ッ……」


 エストは余計なことは何も言わなかった。言わないでくれた。――ガスマスクの分厚いレンズの奥、見透かすような視線が恥ずかしいぐらいずっとこちらを見ているだけだった。


「エストも食べたら? 少なくとも今日、ガスマスクを外すとこなんて見てないんだけど」


「俺も食べればいいんだろう。ただしお互い背を向けろ。それが条件だ」


 エストはそそくさと背を向けた。貯水場のカビのついたタイル壁と向かい合いながら、ガスマスクを僅かに脱いだ。


 警戒心を研ぎ澄まし、シルヴィとレーヴェが足音を殺して顔を覗こうとするのを制止するように腕を伸ばす。


「……レーヴェ、キミもだ。過ぎた好奇心は毒になるぞ」


「アハ♡ もったいぶらずにぃ、見せてくれたら好奇心も無くなるんじゃないの?」


 色めいた声で囁きながらもシルヴィは大人しくエストに背を向けた。ちょこんと座り込んで携帯食料の包装紙を不器用に剥がしていく。


「……もしかしてすっごいブサイクとか、見ただけで魅了するイケメン? それとも実は男じゃないとか?」


「くだらない妄想を止めるつもりはない。だが、いちいち口に出すな」


「えー……ヤダ♡ やめなーい。代わりにエストは私の口になーんでも出していいよ?」


「…………黙って食べたらどうだ」


 会話が途切れても静寂に満たされることはなかった。ザァザァと大量の水音が残響を残し反響を繰り返して轟く。咀嚼音をかき消して、包装紙をくしゃりと握り締める雑音が一瞬聞こえただけだった。


 ぼそぼそと口のなかに穀物の味と水気の無い甘みが広がる。素朴で、特別美味しいわけでもない味。


 シルヴィは何度も咀嚼した。味がわからなくなってくる。食感がなくなっていく。擦り潰れて、あとは飲み込むだけ。――ほんの少し前までなら……平気で食べることができたのに。


 喉が拒む。嗚咽が異物を押し出そうとする。涙が滲む。口元を手で覆った。呼気と共に強引に舌の奥へ、今度こそ喉の奥にまで呑み込む。


「ッんグ…………ッ!!」


 涙が溢れた。頭が真っ白になって咄嗟に立ち上がり、壁に寄りかかる。見ないでほしかった。背で隠すみたいに、耐えきれないまま口に含んだ物を全て、


「んンッ、ぐ……ォェエ……!! ガホっ、げほッ、ッんブ……ッ!!」


 吐き出した。血の気が引いた。シルヴィは顔を引き攣らせ、胃液混じりの声を絞り出す。視界が熱くぼやけた。


「嫌……イヤ。見ないで……ゲホっ、……んッグ」


 人間と同じ食べ物が食べられない。二人と同じ物が食べられない。エストがくれたものが食べられない。……【緋刃】が、見せないとはいえガスマスクを外してくれたのに。


「ッんぐ……ッーー……ご、めん。……私は最低だ」


 口を閉じることもできなかった。唾液の糸がみっともなく地面にまで垂れた。繰り返す嗚咽を押し殺そうと肩が細く震えて、泣いているところを、人間ではないところを誰にも見られたくなくて必死に俯いた。


 誤魔化すようにしゃがみ込んで。地面に吐き出したそれを口に戻そうと手を伸ばした。触れる直前、腕を強く掴まれた。


 ……見上げる気にもなれないままシルヴィはジッと足元を見続けた。瞬きもできなくて、焦点が定まらない。


「私……、力があるって分かって。少しだけ嬉しかったよ……? だって、エストの足を引っ張らなくて済むと思ったし。色々想像して、楽しかったし。けど、けどさァ……、こんなことなら――」


 自己の否定。振り絞った言葉がどうしようもなく震え続ける。涙の痕が乾き張り付いたまま取れそうにない。


「……思い出さないほうが、案外生きやすかったかも。だって、……だってさッ――――ん、ッぐ……。それか、本当に愛玩用の缶人(つくりもの)なら良かったのに」


「缶人の方がマシだなんて言うべきではない」


 淡々としたエストの声。僅かに苛立ちが滲んでいるような気がした。掴まれていた腕を引っ張られるみたいにシルヴィは立ち上がった。感情的にフラついて、ぽてんと、半ば倒れるみたいにエストに寄りかかった。


「…………」


 沈黙。レーヴェも何も言わないでくれた。聞かないでくれた。ドクン、ドクンと。苦しいぐらいに締め付け強く打ち付ける心音が落ち着くまで。誰も何もしないでいてくれた。


 エストはずっとシルヴィを見下ろした。華奢で、脆く思える柔らかな体躯。長く伸びた桃色の髪が段々と光を失っていたのには気づいていた。致命的になったのは【緋の糸】を行使したときだろう。


「……」


 嗚咽が乾いていく。永遠に泣き続けることはできなかった。頬に残る涙の感触がヒリつく。みっともないことに、しゃっくりみたいに僅かな嗚咽がこみ上げると鼻水が滲んだ。


「フーー…………。スーーーー……」


 深く、深呼吸をした。喉に粘液が絡まる。強く噛み締めていた牙からジンと痺れを伴う痛みと熱が広がっていった。


 シルヴィはゆっくりと、エストの顔を見上げた。頭のなかをぐるぐると言葉が巡る。


 ――何を言えばいい? ごめんなさい? 違う。エストは謝罪を求めてなんかいない。求めていない謝罪なんて自己満足だ。自分が許されたいだけだ。


「えへ……へ。こんな、可愛い女の子が……ワンワン泣いちゃうの、どうだったぁ? 興奮して……困っちゃった?」


 ヘラっと。頬が引き攣る。なんとか、蠱惑的に仮面を被り、いつものシルヴィを取り繕うのが精一杯だった。


「そ、そもそも。私がほんとうにィ――――」


 言葉の途中、唇を手袋越しに無骨な指が触れた。シルヴィは息を呑んで、仮面に覆った言葉を一度途切れさせた。……なんて言おうとしたか、すぐに思い出せなくなった。

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