血と緋色

「ッ――――!」


 息を呑む刹那、ゴードンが容赦なく肉包丁を振り下ろす。咄嗟に短刀で刃を受け止めると重い金属音が響いた。膂力に物を言わせた一撃が脚を震わせ、包丁の動きを止めるので精いっぱいだった。


「お、俺も手伝ウよ。お兄ちゃァん」


 紙袋頭の弟がにちゃりと唾液音を鳴らして壁に掛けられていた解体用のチェーンソーと無数の杭を手に取ってエンジンを喧しく鳴り響かせる。


 ――こいつらはチェーンソーで斬っても死なない部位を知っている。悲鳴を録音するために、血を味見するために手の一部を切り落とす。


「ッ食人趣味のサディストがこ、こんな子供に本気出して涎垂らして恥ずかしくない訳ぇ? 変態♡」


 気丈に振る舞おうと舌だけが器用に回る。解体屋がそんな言葉に反応するわけもなく、チェーンソーが焦らすように眼前に迫っていく。一瞬で血の気が引いていく感覚がした。


 シルヴィは牙を震わせて表情を引き攣らせる。


「変態ッ。ごめんなさ、やめ……!」


 情けなく猫撫で声を伸ばしながらも、鍔ぜり合う短刀を引いて条件反射的に肉包丁を回避する。頬が僅かに切れた。みっともなく前髪がバッサリと舞う。


 よろけ、手を突きながらも血とカビの臭いがするタイルを蹴って二人から逃げるように解体部屋を出る。無数のフックを掻き分けて乾燥室を駆けた。


「どこに行く? 追いかけっこをするなら少し痛いよ?」


 背後から響く声がシルヴィの足を止める。――逃げて、どうする? 逃げてもレーヴェを取り戻せない。


「なら、これはどう!? 効くとも思えないけどッ!」


 殺すことに躊躇いはなかった。拳銃を構え即座に発砲。弾丸が二人のこめかみを貫く。が、よろけすらしない。


「人間じゃァないんだからこんなことで死ぬわけナいよォ」


 紙袋から滴る黒い粘液性の体液。弟がそのまま肉薄しチェーンソーを横薙ぐ。シルヴィは屈んで避けると大男たちの股下を潜ってそのまま距離を取った。


「パパが言ってた……街にいる異界の怪物ってこいつらのことだったの?」


 嫌悪混じりにシルヴィはぼやく。あの二体の化け物をどうにかしないとレーヴェを助けられない。……けど方法がない。


「どこまで逃げる? 大丈夫、キミの肉は売らない。最期の悲鳴、痛み、表情全てを記録する。我々は一度見たものは忘れない。忘れ去られることは二度目の死だと言うが、我々がキミを食べるなら、それも一生訪れないだろう?」


 ゴードンは訳の分からないこと囁きながらじりじりと距離を詰めていく。ゆったりと持ち上がる腕。――何かを投げてくる。


 咄嗟に顔を腕で覆った。熱と、遅れて痛みが皮膚を貫く。庇った腕に無数の杭が突き刺さっていた。


「痛ッたぁ…………ぐ、んにこれ」


 牙を軋ませながら引き抜いて、すぐに投げ返す。奴らは避けようとすらしない。杭が喉元を突き刺したところで嗜虐心を煽るだけだった。


「あれ? 動けるのかい? 刺さったのに。やっぱり、この毒は人間にしか効かないからかなぁ」


 ゴードンは自分に刺さった杭を引き抜いて、シルヴィと自身の血をべろりと舐め取る。


「やはり美味だ。人間のものよりずっと濃厚な味がするよ。おいしい。おいしければ材料が何でも気にすることは無いんだよ」


 べろりと赤い粘液の糸を引く舌。シルヴィは嫌悪して顔を歪める一方で、無自覚のまま口角を吊り上げた。


「……気持ち悪い」


 傷を押さえながら出口まで後ずさっていく。小さな背が扉を押したが、開くことはなかった。


「忘れたかい? その扉は外から押すんだ。内側からは引かなきゃいけない」


 太い腕が伸びた。シルヴィの小さな頭を死体の臭いの染み付いた手が鷲掴む。足は一瞬で着かなくなった。


「この……!」


 抵抗しようと短刀を腕へ突き刺したが、微動だにしないうえに引き抜けない。華奢な手足でゴードンの身体を殴り、蹴ろうとも。意味を成さなかった。


「こ、こんな小さな女の子に寄ってたかって動物みたいに♡ は、ひゃずかしくないわけ……ッ?」


「命は等しく存在しているんだよ。人間も動物さんなんだ。キミも我々も。けど、この街のルールは人間が人間を捕食することしか禁止していないんだ。異界の存在も解体屋も黙認されて、正当な行為なんだ。恥じる理由がないんだよね?」


「早ク。お兄ちゃ、ン。早く調理、ィしないと。待テない」


 ギリギリと頭部を締め付ける怪力。弟がか細いカッターをゴードンへ手渡すと、刃の切っ先がシルヴィの肌を撫でた。


「痛ッ……なにするわけ!? ほ、本当に……私を、調理して…………食べるの?」


 うんうんと。二人は元気よく頷いた。爛々と煌めく捕食者の眼。肉の方さを確かめるようにゴツゴツとした手がシルヴィの身体を撫で触る。


「ン……! こ、こんな身体に――」


 肉を切り分ける部分に印をつけるためらしい。カッターが細く、浅く、熱を帯びながら柔肌に血の線を描き始める。腕を伝う震える痛み。震えて、みっともなく歯を鳴らした。


「っん。食欲満々で盛っちゃうとか……♪ きっしょぉ…………んぐ」


 不快感と恐怖をメスガキの中に押し込める。開き直ったみたいに乾いた笑い声が零れた。


「私は……ヴィヴィじゃない、のッ……! 誰が好き勝手に、されるか。誰がお前らなんか、喜ばせるか……ざまあみろ」


 傷つけようがないからと取られることもなかった拳銃を自分の顎下へ突き付ける。


「あ! そんなことしたら一番おいしい部分が――」


 引き金に指が触れる寸前、解体屋が拳銃を奪取するよりも早く、眩い炎が瞬いた。熱で空気が歪み店の窓が一斉に砕け散る。


 業火の中心、緋色の軌跡が煌めいた。


「帰ったんじゃ……なかったの」


 安堵と半信半疑の声を漏らし、シルヴィはその光景を目に焼き付ける。鋭い斬撃の影が宙を裂き、燃え盛る炎と壁を両断してエストが姿を見せた。


「帰るつもりだったが。最初に買おうとしていた赤色甘味料を買い忘れて店を尋ねた。それだけだ」


 人肉の店に置かれているはずのない品物を言い訳にしながら、エストは二体の怪物とメスガキを一瞥した。


「……怪物に加減する理由はないな」


 【緋色の剣】が呼応するように紅蓮の炎を静かに揺らした。

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