誰もいない血の痕

 可能性がある場所を絞るしかない。連行された人間の末路は処理か、薬の奴隷になってハートの一員になるか。後者なら……手遅れ。全員姿恰好を衣服で覆うから見分けなんてつかない。


「……ッ、フー……! フー!」


 もう息が果てそうだった。シルヴィは薄桃色の髪を雨と汗に濡れ乱しながら走る。日頃の高温多湿は一転して白い吐息を纏う。雨に晒された肌が凍えるように冷たい。水を吸った衣服も、タイツも、なにもかもが重い。


 ――レーヴェが処理されるとしたら。この付近でエスコエンドルフィア製薬と連携が取れている個人店、下部組織は限られている。


シルヴィは躊躇うことなく狭い路地へ入った。破けた金網を潜って、積もるゴミの山を登りながら、何の保証も確証もなく地図を睨み足を動かす。


 処理の方法で助けられる可能性があるのは最良はまだ仲介組織にいること。その次にマシなのが娼館。……死んでいる可能性もあるのが解体屋。


 最初に行くべきはマスプロド人身直売店だ。そこにいなくても取引の有無さえ確認できれば娼館にいるかどうかも絞れる。いなかったら……周辺の解体屋を確かめるしかない。


 地図の示す最短ルートを突っ切って仲介屋の前に着いた。何も仰々しく商品が並んでる訳ではない。半開きのシャッターを潜ると、狭苦しいカウンターに痩せた男が一人いるだけだった。


「……リストを見せて。最近入荷した奴だけでいい。売却済みも」


 恐怖を殺して表情を取り繕う。男は珍獣でも見るようにベタついた眼差しでシルヴィの脚から、肩を舐め回すように視姦していく。


「閲覧料を払ってから言え」


「私はエスコエンドルフィア製薬幸福科学部門シルヴィ・ラヴィソンだ。聞こえなかったならもう一度通達する。リストを、見せろ。末端の貴様にはいちいち業務手続をしないとわからないか?」


 毅然とした態度で、気迫を帯びた声を響かせる。蛍光する髪を仰々しく靡かせて、首に下げた薬瓶を揺らした。緋色の双眸が男を見据える。


 彼の首に無数に存在する注射痕と禁断症状による自傷の痣。街を支配する企業の名前を聞いても視姦をやめるだけ。


 末期の中毒者に全うな士気はない。男は数瞬、シルヴィを見下ろしていたがすぐに端末を手渡した。面倒事を避ける方を選んだらしい。


「…………ッ」


 名前と写真。日付をスクロールしていく。レーヴェはいない。二度、三度見返して、確信すると同時、悪寒が背筋を撫でる。


「……ありがと。貴方がいい対応をしたことを褒めておくね?」


 正体を怪しまれる前に足早に店を出た。あと、私にできることは……近辺にある解体屋のなかでも企業と連携のある場所を見ていくこと。


「…………私、何やってんだろ」


 無謀だ。無意味だ。エストがすぐに見切りをつけた理由も漠然と理解できた。けど脚は勝手に動く。諦めかけた自分を戒めるみたいに、シルヴィは頬を叩いた。


「お嬢ちゃん。雨のなかどうしたんだい? 迷子になっちゃったのかな?」


 端末を確認していると、ニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべながらガタイの良い男たちが道を塞ぐ。……見慣れた笑顔だ。小さくてか弱そうな愛玩動物(ヴィヴィ)を見下ろす目だ。


 あの緋色の軌跡を見るまでは、きっと私は何もできずに動けなくなっていただろう。――今は違う。ぼんやりと瞳に光を灯しながら、シルヴィは拳銃を躊躇いなく突き向けた。


 警告より先に一発。銃声を轟かせる。飛び散る血飛沫と肉片。脚の筋を断ち骨が皮膚を突き出る。撃たれた男よりも先に周囲の奴らが悲鳴にも近い声を漏らした。


「この女ッ……!」


 動揺と怒りに敵がどよめく中央を、シルヴィは躊躇うことなく突っ切っていく。すぐ背後で怒号と共にいくつもの足音が重なった。


 バクバクと心臓が強く脈打つ。恐怖よりも興奮が勝った。ギラギラと輝く双眸が限界まで見開いて、無自覚なまま笑みを浮かべる。


 距離が近づいてくる。奴らの荒く怒りに揺れる気配が背を突き刺す。シルヴィは一瞬、振り返ると二発。即座に狙いをつけて追跡者の脚を貫く。


「ざぁこ♡ 私をどうしたかったのかなぁ!? 残念ッ! 私はもうヴィヴィなんかに戻るつもりはないの! この口調は……っ、まだ消えないけど」


 大企業の愛玩動物だったシルヴィの才能は【緋刃】を目撃したその日から、とっくのとうに開花していた。小さな歩幅ながらごろつきを撒くと、そのまま目的地の一つである解体屋へ足を踏み入れる。


 扉に鍵は掛かっていなかった。シャッターも上がっている。しかし店内は暗く、割れたショーウィンドウには肉塊の一つとして置いていなかった。解体者の気配もない。


「…………静かね。臨時休業とも、思えないけど」


 アドレナリンが引いていくと、不意に不安が込み上げた。冷静さが戻ってきて、恐怖を誤魔化すように独り言を零し、袖を握り締める。


「……レーヴェ? いないの?」


 囁くように彼女の名前を呼んだ。返事はなく、電灯の切れた店内を進んでいく。冷凍室、乾燥室、解体作業場。加工途中の肉塊がフックに吊るされているばかり。


 作業場は途中で仕事を放置したような状態だった。古くない赤黒い血の跡が荷台と床を覆い、肉片のこびりついたチェーンソーが無造作に転がっていた。


 解体者、被害者の姿形はどこにもなく、不自然な焦げ跡と血を吸った灰の山があるだけだ。


 ――――誰もいなかった。殺された? 誰に? ろくな痕跡さえない。


 無機質で重い静寂が雨音とシルヴィの気配を酷く響かせる。途方もない不安が込み上げて、シルヴィは押し殺すようにシャツを握り締め、胸に手を当てる。


「……ボケっとしてる暇なんてない」


 強く打ち付ける心臓が落ち付く様子はない。――できることはする。それでも、どうにもならないなら。


 ……エストに縋りついてでも謝るしかない。

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