存在しないラベルの薬

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 思わずステップを踏みたくなった。臭気に充ちてゴミの散在する路地に靴音と鼻歌を鳴らす。


 外に行くのは新鮮で、忘れがたくて、誰かと買い物に行くのは初めてで、事あるごとにペットのように頭を撫でられることがないのは不思議な気分になってくる。


 エストは終始無言だった。時折、戒めるようにシルヴィへ視線を向ける。トレーラーハウスまで戻ると、車の扉に手をかけたシルヴィをエストは引き留めた。


「すぐに練習するならこっちに来い」


 ガスマスクの奥から威圧的な声が響く。シルヴィはすぐに振り返り、ぴこりと髪を跳ねさせた。


「会話へたくそなのに優しいんだね♪ ――――私のほうが下手!!」


 零れ出た糞生意気な言葉を誤魔化すように叫び、扉に頭を擦り付ける。冷ややかな視線が小さな背に突き刺さった。


「……貴様に何がわかる」


「えー? それぐらいなら見てたらすぐに分かるけど? 何か隠したまま、本性を出さないように、出さないようにって取り繕ってる」


 全部自分のことだ。シルヴィは吊り上がった頬をヒクつかせながら平静を取り繕う。無力な自分に力があるような錯覚をするために、なにもかも嘲るみたいに鼻息を鳴らした。


「…………それで。訓練をしたいのか? したいならこっちだ。車内では無理だ」


 トレーラーハウスを一瞥してから、廃れたビルの裏手、ゴミ袋の山が形成された空き地を見据える。広さは充分だった。


「少し待って、そろそろ薬を飲まないといけないの。パパが、そう言ってたから」


 シルヴィは当然のように、首にかけていた薬瓶を手に取って開ける。小さな錠剤を口に放り込む直前、エストは咄嗟に薬を取り上げた。


「ちょ、何するわけ!? 小さな女の子がぁ、ゴックンしてるもの欲しくなっちゃったぁ?」


「これは幸福剤か?」


 怪訝で、軽蔑混じりの声。エストとしてはただ心配だったから聞いたに過ぎなかったが。ガスマスクで表情は伝わらない。


 ――エスコエンドルフィア製薬の愛玩動物だったから、疑われてる?


 ムカっとした。すぐに首を横に振って否定する。


「パパはエンドルフィア製薬のこと嫌ってた。薬に依存して幸福だけを得るなんて間違っているって言ってぇ、私から快楽を得てた。試すぅ?」


「試さん」


 つい漏れ出た蠱惑的な囁きを、エストは一蹴してくれる。


「幸福剤って別の世界から来た技術だから。そういう方法とか、非科学的なものとか、違う世界の生き物とか。パパは大嫌いだったんだ」


『だというのに【緋刃】に依頼するとは。よほど余裕が無かったのでしょう』


 鞘からくぐもった声が響いた。エストが無言のまま睥睨を刀へ向ける。シルヴィは小さく笑った。


「とにかく、そういうわけだから幸福剤とかじゃないよ? 私、身体が弱いらしいから。そのための薬。それともぉ、幸福剤であってほしかったぁ? 罪悪感とか不幸な想いが何も分からなくなって幸せになるの」


「……そうか」


 短い返答だけを返したが。嫌な疑問がエストの脳裏に過ぎる。


 ――愛玩用の、そうした行為のために造られた缶人の身体が弱い? 普通は逆だ。粗悪な環境、暴力的な行動を受けても死ににくく頑丈に生み出される。


「…………」


 エストは訝しんで薬のラベルを確かめたが何も記載がない。市販の薬ではなかった。それから不意に、底冷えた思考が振り戻る。


 深くかかわるべきではない。今更のようにも思えたが、知れば知るほど、その人がいなくなってしまったときに後悔するはずだ。傷つくはずだ。


 不可抗力で招き入れたのはもうどうしようもない。だが、一線を引くことはまだできるだろう。


「薬を飲んだらついてこい。水は無くても平気か?」


「ダメって言ったら飲ませてくれる? 口移しで♡」


「どうしても必要なら行うが、見た限りそうではないな」


 破れた金網の隙間を潜り、ゴミ山の空き地へ向かった。ぴちゃぴちゃと、厚底の靴がパイプから滴る薄汚れた水を踏み締める。


「最初は銃を教える。キミはまず武器に慣れる必要がある。まずは距離を保てる武器からだ。自衛の範囲で短刀の使い方も教えるが。それで便利屋としての仕事をできると思うな」


 レーヴェから購入したライフルを慣れた手つきで組み立てていく。銃口を下に向け、シルヴィに手渡した。


「誤射をしたくないなら撃つときまで引き金に指を触れるな。持ち歩くときは銃口を絶対に前に向けるな。守れるか?」


「わ、わかった……」


 気圧されながら何度も頷く。


「自衛のときなら気にしなくていいが、もし暗殺をしたいと思うなら周囲より目立たない服にしろ。スコープの蓋はギリギリまで開けるな」


「……服、これしかないよ。あ! もしかして、私の色んな服が見たいのぉ?」


エストは沈黙したまま、シルヴィの腕を掴んで銃を構えさせる。


「消音機はついている。安全装置はここで外す。撃ってみろ。……狙いを定めて。息を吸って、止めろ」


 銃器の重さ。金属の冷たさを身体に押し付ける。緊張が伝い、心臓は強く脈打つ。……【緋刃】が敵を殺す瞬間を思い出していた。


 ギラギラと力が漲って、目を見開く。冷静に引き金を引いた。


 プスン、プスンと。小さな銃声。重い反動。数発撃って、シルヴィは誇らしげにエストを見上げる。


「……集中力はあるらしい。度胸も」


 的代わりのゴミ袋が破裂してひらひらとビニールを漂わせていた。

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