二人だけの秘密にしよう

yudofu

二人だけの秘密にしよう

 家族が寝静まった深夜2時過ぎ、僕はこっそり家を抜け出す。

 人の気配が全くない、静寂につつまれた夜道を一人で歩くのは心地いい。

 時々こうやって、真夜中に外を歩きたくなることがある。

 そんな時、知らず知らずのうちに「あの場所」へ足が向かってしまう。

 家から15分ほど歩いたところにある、母校の小学校だ。



 5年たった今でも、あの事件のことを忘れたことはない。


 4年生の時、同じクラスの小川さんという女の子と仲良くなった。

 小川さんはおとなしくて存在感が薄い子だったので、最初は同じクラスにいても存在を忘れてしまうくらいだった。

 ある時にゲームの話をしたのがきっかけで仲良くなって、気が付くといつも一緒にいるようになっていた。


 学校が終わると毎日小川さんの家に遊びに行った。

 彼女の両親は二人とも働いていて、家には僕たち二人しかいなかった。

 誰にも邪魔されることなく、暗くなるまで一緒にゲームをしたり、映画を見たりして過ごした。


 僕と小川さんは互いに好意を抱くようになっていた。

 言葉ではっきり伝えることはなかったけど、目と目でお互いの気持ちを理解していた。


 いつの間にか僕は、小川さんに会うために学校に行くようになっていた。

 毎朝目が覚めた瞬間に、今日も彼女に会えると思うと幸せな気持ちで満たされた。

 家の方向が逆なので一緒に登校することはなかったけど、僕が教室に入るといつも小川さんは先に来ていて、背中まで伸びた髪をこちらに向けて座っていた。

 「おはよう」と声をかけると、彼女は少し照れたような笑顔を僕に向けた。


 朝から夕方まで、僕たちはいつも一緒だった。

 キスをしたことはなかったし、手をつないだことさえなかった。

 それでも、ただ一緒にいられるだけで幸せだった。


 もうすぐ5年生になる時、父親の教育方針で私立中学を受験することになった。

 週に3日塾に通うだけでなく、塾がない日にも遊びに行かずに家で勉強するように言われた。

 放課後に小川さんの家に行って二人きりで過ごすのが何よりも楽しみだった僕は、これから彼女と遊べなくなってしまうなんて絶対に嫌だった。

 でも僕が勉強や塾に行くのを拒否すると、両親がグルになって「お前の将来のためだ」と説得してきた。時には暴力を振るわれることもあった。


 今になって考えれば、親の勝手な都合で押し付けられた受験勉強のせいで彼女と過ごす時間を奪われるなんてあり得ないことだ。

 当時の僕は今と比べてもずっと子供で、自分の置かれている状況の理不尽さが理解できていなかった気がする。

 親からの暴力に対抗できるような体力もなかった。

 そして結局、僕は気付いていなかったのだ。

 彼女と過ごす時間以上の幸せが、今後の人生で訪れることはないかもしれないということに。

 時として、幸せは突然奪われてしまうということに。


 受験勉強するから遊べなくなったと伝えた時、小川さんは


「頑張って。受験が終わったらまた遊ぼう」


 と言ってくれたけど、寂しさを隠しきれない彼女の表情を今でも忘れられない。



 あの事件が起きたのは、僕が受験勉強を始めてから1ヶ月ほどたった時だった。

 あの日の夕方、ちょうど僕が塾に行くころ、一人で外にいた小川さんが行方不明になった。

 その時間に彼女が一人で家の近所を歩いているところを、同じ小学校の生徒たちが目撃していた。

 次の日の朝になっても彼女は家に帰らず、警察の捜査が始まった。


 僕は学校に登校した時にその知らせを聞いた。

 みんなすごく心配していて、教室は今までにない不安なムードに包まれていた。

 僕ももちろん心配ではあったけど、その時はあまり深刻に考えてはいなかった。

 小川さんは両親ともに帰宅が遅くて、いつも一人で家にいるのが寂しいと言っていた。

 多分、両親への抗議として家出したんだろうと思った。

 僕が今までのように毎日一緒にいれば、こんなことにはならなかったと思うと責任を感じた。

 でも、きっと夜までに彼女は帰ってくるだろうと思った。


 ところが、2日たち、3日たっても小川さんは帰ってこなかった。

 学校の掲示板に彼女の写真が貼られた。

 テレビのニュースで「小4女児が行方不明」と放送された。


 その時になって初めて、自分が取り返しのつかないことをしたかもしれないことに気付いた。

 体に力が入らなかった。

 死ぬことよりももっとずっと恐ろしい、得体のしれない恐怖を感じた。

 その恐怖感の正体を直視することができなかった。

 彼女が無事に帰ってくることを祈り続けることしかできなかった。


 1ヶ月たち、2ヶ月たっても彼女が発見されることはなかった。

 僕は受験勉強なんて全く手につかなくなっていた。

 受験さえなければあの日も小川さんと一緒にいたし、彼女が行方不明になることはなかった、と僕は両親を責めた。


「お前のせいじゃないよ。その子の親の責任なんだから、お前が責任を感じることはない」


 両親は他人事のように言った。

 僕は気が狂いそうになるほど親を恨んだ。今でも許していない。一生許さない。


 事件から5年たった今も、小川さんは行方不明のままだ。

 僕の両親はもう、事件のことなんて自分に関わりのない出来事として忘れてしまっているだろう。

 僕は一日も忘れたことはない。あの日、それまでと同じように僕が一緒にいれば…



 母校の小学校に着くと、僕は校門の前でしばらくたたずんでいた。

 そうやって小川さんとの思い出に浸ってから帰るのが、いつの間にか習慣になっていた。

 満月が明るく輝いている。

 満月を見上げていると、教室で彼女と交わした会話を思い出した。


 その時、教室には僕たち二人しかいなかった。

 小川さんはポケットから星のカービィの消しゴムを出して、


「可愛いでしょ」


 と言って見せてくれた。

 カービィの形に切り抜かれた平らな消しゴムで、細かいところまで着色されていた。


「ねえ、あの上に置いておかない?」


 と言って彼女は窓の上を指差した。

 窓の上の部分に、何ていうのか分からないけど…カーテンを収めるための木の枠が付いていた。

 二人で机の上に乗って、カービィの消しゴムを枠の上に置いた。


「ここなら誰にも気付かれないね」


 と僕は言った。

 そこが掃除されているのを見たことがないし、奥に置かれた消しゴムは下からは全く見えないだろう。


「二人だけの秘密にしよう」


 と彼女は言った。僕たちは顔を見合わせて笑った。


 その後一度だけ、誰もいない時に二人で消しゴムの安否を確認したことがある。

 カービィの消しゴムは相変わらず無機質な笑顔を浮かべてそこに置かれていた。

 その直後に小川さんは行方不明になった。

 僕は消しゴムのことなんてすっかり忘れたまま5年生になり、6年生になり、小学校を卒業してしまった。



 今からあの教室に行って、小川さんの消しゴムがあるか確かめたいという強い衝動に駆られた。

 考えてみれば、僕は彼女からまだ何ももらったことがなかった。

 小川さんが大事にしていたカービィの消しゴム。二人の秘密の消しゴム。

 今となっては、僕が小川さんから受け取れるものはその消しゴムしかない。

 学校に入れるか分からないし、人に見つかったら警察に通報されるかもしれない。

 どう考えてもまともな行動ではないと分かっていても、衝動を抑えることができなかった。


 校門に足を踏み入れて、学校の敷地内に入る。

 心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、正面の入り口へと向かう。

 扉に手をかけると、やっぱり鍵がかけられていた。


 次に校舎の横に回って、鍵が開いている窓がないか一つ一つ確認していく。

 3つ目の教室まで来た時、手をかけた窓が思いがけずに開いた。

 ここから中に入れそうだ。

 ここまで来ておいて、本当に侵入できるとは思っていなかった僕は躊躇した。

 でも、こんなチャンスは二度と巡ってこないだろう。

 ここで引き返すわけにはいかない。


 窓を開けて窓枠によじ登り、土足のまま教室の中に入る。

 これでもう引き返せない。

 緊張感とともに、なぜか心が高揚するのを感じた。

 音をたてないように教室の扉を開けて、足音を殺して廊下を進む。

 人の気配は感じられない。


 正面の昇降口まで来た。

 6年間見慣れたはずの昇降口は、記憶の中のイメージとは少し違っている。

 思い出に浸っている暇はない。一刻も早く目的を達成して、ここから立ち去らなければならない。

 僕はまっすぐに北側の階段へと向かった。

 4年生の時の教室は忘れもしない。北側の校舎の最上階だ。


 足音を殺して2階分の階段を上り、あっけなくあの時の教室に着いてしまった。

 そっと扉を開けて、教室の中に入る。

 小川さんとたくさんの時間を過ごした思い出の教室。

 机の横に生徒たちの私物がかけられていない。

 どの机も中身が空っぽだった。

 どうやら、この教室は現在空き部屋になっているようだ。


 音をたてないように机を持ち上げて、そっと窓際に寄せる。

 小川さんがどのあたりに消しゴムを置いたのか、今でもはっきり覚えている。

 注意深く机の上に上がる。

 ポケットからスマホを取り出してライトを付け、窓の上を照らす。


 小川さんが置いたカービィの消しゴムは、5年前と何も変わらずにそこにあった。

 僕は驚きと嬉しさで声をあげそうになるのをこらえながら、消しゴムを手にとってほこりを落とし、ポケットの中に入れた。



 教室を出た後、僕は何となく、廊下の窓から向かい側の校舎を眺めた。

 廊下の隅を人の影が横切るのが見えた気がして、僕は凍りついた。

 ほんの一瞬なので確信はない。勘違いかもしれない。そうであってほしい。

 でも、確かに人影が見えたという感覚を無視できなかった。


 人影は子供のように見えた。

 こんな真夜中に学校にいて、電気もつけないで何をしてるんだろう?

 いや、本当に人なのだろうか?…


 今すぐにここから抜け出したい。

 でも、今下に降りていくとあの人影と鉢合わせるかもしれない。

 来るべきじゃなかった。

 僕はここに来たことを強く後悔した。


 僕は階段から下の階を見下ろした。

 最上階につながる階段は一つだけだ。

 人影の行き先がどこなのかは分からないけど、よりによってここへ向かってくることはないだろう。


 下の階の様子をうかがいながら、暗闇の中で耳を澄ました。

 遠くの車の音がかすかに聞こえてくる。

 学校の中は、耳鳴りがするほどの静寂に包まれていた。


 その静寂の中に、かすかな音が混じった気がして僕はさらに耳を立てた。

 気のせいかもしれない。

 でも、時々聞こえる「カツン」という音は少しずつ近くなっているように感じる。


 それが足音であると確信した直後、階段の下に人の影が現れた。

 僕は反射的に、足音を殺して走り出していた。

 廊下の突き当たりにあるトイレへと向かう。

 男子トイレの個室に入って、なるべく音をたてないように鍵を閉めた。


 足音は階段を上がって、廊下を歩いてくる。

 そしてまっすぐに僕がいる男子トイレに入ってきた。

 やっぱり、あれは人間ではない何かだったのだ。

 僕は狙われてしまった。

 全身がガタガタ震えるのを必死で抑えながら、僕はトイレの床にうずくまって息を殺した。


 僕はここで死ぬのかもしれない。

 死んだら、小川さんに会えるかもしれない。

 そんな考えがふと頭に浮かんだ。



 足音の主はついに、扉の前に来て立ち止まった。

 トイレの窓から差し込んでいた月の光が、何かにさえぎられる。


「坂本くん?」


 名前を呼ばれて心臓が凍りつきそうになりながら、その声になつかしさを感じた。


「小川さん?」


 おそるおそる僕は言った。


「怖がらせてごめんなさい。もう一度だけ坂本くんと会いたかったの」


 小川さんの声だ。体から緊張が抜けていく。

 僕は立ち上がって、扉に近づいた。


「小川さん…やっぱり死んじゃったんだね」


 小川さんは黙っていた。


「小川さん、ごめん!あの日、おれが一緒にいれば、こんなことには…」


「坂本くんのせいじゃないよ。お願い。そんなふうに思うのはもうやめて。私こそ、さよならも言わずにいなくなっちゃってごめんね」


 もう恐怖感は全くなくなっていた。

 また小川さんに会えた嬉しさで涙が流れた。


 扉を開けて彼女の姿を見たい。

 たとえ彼女がこの世のものじゃなくても構わない。

 そう思った時、僕の心を見透かしたように


「開けないで!」


 と小川さんは言った。


「小川さん、おれをそっちの世界に連れていって!そっちの世界でずっと一緒にいよう!」


「そう言ってくれて嬉しい。でも、それはだめ。坂本くんはそっちの世界で生きて」


「どうして?小川さんもおれと一緒にいたいでしょ?お願いだから連れていってよ!」


 彼女はしばらく黙っていた。


「私だって坂本くんと一緒にいたいよ。でも、坂本くんはこれからいろんなことができるし、出会いだってたくさんあるんだよ?

 死んだら何もできなくなるんだよ。分かってるの?

 私よりも素敵な子だってたくさんいるのに、どうして私のためにそこまでしようとするの?」


「違うよ小川さん!おれ、何となく分かるんだよ。これから先何年生きたって、小川さんと過ごしたあの頃以上の幸せなんてやってこない。

 何もできなくていい。一緒にいられるだけでいい。小川さんがいない世界で、これからもずっと生きていくなんて耐えられないよ!」


 僕は扉に手を伸ばした。


「開けちゃだめ!」



 扉の前にいた小川さんの姿は、5年前のあの頃と何も変わっていなかった。

 ほとんど同じ身長だったはずなのに、僕だけが大きくなってしまっていた。


「小川さん…」


 涙があふれるのをこらえられなかった。


「しょうがないな」


 と言って、小川さんはなつかしい微笑みを浮かべた。


「おいで」


 と言って彼女は左手を差し出す。


 僕はその上に右手を重ねた。

 小川さんの手は冷たかった。

 彼女の手を握るのはこれが初めてだった。


 小川さんは今、あの頃にも見たことがないような幸せそうな顔をしている。

 彼女の目から涙がこぼれ落ちるのが見えた。


 彼女は僕の手を引いて、トイレの突き当たりの壁まで歩いた。

 黄金色のまぶしい光が壁に広がった。

 小川さんの顔が明るく照らし出される。


「行こう」


 と彼女は言った。


 僕たちは光の中に足を踏み入れた。

 もう彼女の手から冷たさを感じることはなかった。


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