大人になるという事

 いぶきは小さいころの事を思い出していた。


 マヤくらいの年のころ、たぶん彼と同じように、マウンテンバイクに乗る事がただただ楽しかった。

 思いっきりスピードを出したり、カーブの連続れんぞくやコブの連続を速く走ったり、岩だらけの所を走ったり、ジャンプしたり。何も考える事はなかった。

 1日中マウンテンバイクに乗って遊んでいてもあきなかった。

 

 レースに出れば勝てたけど、負けた選手が泣いたり怒られたりしてるのを見るのがイヤだったから勝たせてあげた。他の人を喜ばせてあげれるならその方が良かった。

 

 だけど本当に勝ちたい、自分が世界一になりたいって思った時、優しさは捨てなきゃいけないって思った。

 自分の事だけを考えて、レースでは誰よりも速く走れたし、みんなが喜び、ほめてくれた。やりたいようにやらせてもらえたし、わがままもゆるされた。

 天才少女と言われて、さわがれて、それが心地良くなっていって、これでいいんだって思うようになった。

 何でも思うようになる。どんどん勝って、私は世界一になれると思っていた。

 こわいものなど何もなく、調子に乗っていた。


 調子に乗りすぎていた。

 そして痛い目にあった。



 もしもあの時、鈴香がよけて私に進路をゆずり、私が優勝してたとしたら、私はどうなっていたかな?


 強いだけの人間。優しくない人間。東先生にとってになっていただろう。


 いや、強くもなれなかったかもしれない。自分勝手にやり続けて、誰にも応援されなくなって、1人ぼっちになって、イヤになってやめてしまったかもしれない。

 失ったものは大きいけれど、神様はマイナスだけを与える事はない。

 私は失ったもの以上に大切なものをあたえてもらった。



 小さい頃、好きな事をやる事は、ただただ楽しい事だった。

 早く大人になって大きな大会に出たかった。オリンピックに出たかった。あと何年がまんすればいいの? って。


 好きな事をやり続ける事は、ただただ楽しい事だけではなくなった。

 少しずつ大人に近づいていくと、色んな事を知っていく。

 好きな事は自分ひとりじゃ出来ない事も。うまくいかない事もあるし、思うようにならない事もたくさんある。


 ミツバチと違って、役割やくわりは自分で選ぶ事ができるけれど、その分、責任せきにんも持たされる。

 好きな事をやり続けていいの? 

 それがだれかの役に立つの?

 もっと他に人の役に立つ事をやった方がいいんじゃないの?

 そんな声が邪魔じゃまをする事もある。



 莉子と出会って、好きな事をやり続けられる事は当たり前の事ではないと知った。


 マヤと出会って、純粋じゅんすいな気持ちを思い出した。

 小さい頃にはもどれない。あの頃知らなかった事を知り、知らないふりなんてできはしない。

 それでも、あの時の純粋な気持ちは自分の原点げんてんで、忘れちゃいけないもののような気がする。


 小さい頃の心のままに、何も知らずに大人になる事はできない。

 色々知って、それでもやりたい事、本当にやりたい事があるならば‥‥‥

 強い意志いしを持った時、ミーヤやハニーのように、その場から飛び立つ事ができるんだと思う。


 私は東先生の優しくて強い手を忘れない。

 優しいから強くなれる。

 強いから優しくできる。

 その手は私を救ってくれた。

 私もそんな手を持って、誰かを救ってあげられるようになりたい。

 そんな大人になりたい。


🐝


 天才の面影おもかげを失ったかつての天才少女は、いつの間にかと呼ばれるようになっていた。

 そしてその努力が、かつての天才少女の感覚をよみがえらせた。



「いぶきのレースをたい」

 多くの人々が再びレース会場に足を運び始めた。

 もちろん、いぶきの調子が悪かった時にもずっとレース会場で応援し続けた人々もいる。いぶきはそんな人達にどれほど勇気づけられた事だろう。


 うれしい時、楽しい時、それ以上につらい時も苦しい時も、いつもマウンテンバイクがそばにあった。

 マウンテンバイクに乗っている時、私はになれる。

の自分でいられる。

 一番好きな自分でいられる。

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