アキへ贈る“時”
無為憂
引きこもりの弟だった。
兄は、クズだった。家族の贔屓目があるにせよ、同情するにせよ、兄はクズだった。
兄は中学の頃に不登校になり、なんとか高校に進学したもののやはり満足に通えず、中退した。
失恋だとかいじめだとか、引きこもりの原因は他の人間にもある遜色のない、些細なものだったと思う。しかし、兄は縋ったインターネットの場所でさえ、人間関係に失敗し、居場所を失った。兄には行き場がなかった。兄には、兄の存在を認めてくれる場所がなかった。
しかし、僕は違った。社会に認められる適正があった。もし、兄と立場を交換するなら僕はこの立場を譲るだろう。しかし兄はそれに耐えられないと思う。
不幸にも、僕の適正は宇宙にあったから。
十五歳の夏、今から三年ほど前、日本の少年少女を対象としたあるテストがあった。「ワープ航法」に耐えられる体質──WNR耐性──を確認するためのものだった。
宇宙でのワープに加え、長距離航行に耐えうる人間が世界規模で必要とされていた。
このテスト自体、実施するのが十年ぶりとなるらしく(一回の航行がおよそ十年かかるからだとか)、政府は新たな人材を欲していた。
兄はもちろんこのテストを受けていないし、受けても兄弟だからといってこの耐性があるわけではない。
兄は引きこもりのままだった。
*
六月下旬のある日、僕は種子島にいた。三年の月日を訓練に充て、高校卒業と同時に任務についた。航宙士という職業はだいぶ一般的になり、父と母は初仕事の僕を喜んで見送ってくれた。兄とは会っていない。
地球の衛星軌道を離れるまで、宇宙船は無事に進んだ。それから地球、ひいては太陽系を離れるまで通常の航行をする。ワープ航法は便利だが、その反面周囲の宇宙に多大なる影響を及ぼしてしまう。宇宙空間を引き裂き、穴を開けるのだから。だから、宇宙船は地球から何光年と離れた場所でようやく真価を発揮する。
「前回の航行で安定した空間を見つけたんだよ」
先輩が言った。彼は前回の航行を経験した航宙士の一人で、顎髭を丁寧に整えた顔をニッと綻ばせた。無重力空間を易々と移動する。
「今回はそう時間もかかんないかもな」
腕を組んで鼻を伸ばして自慢げに言う先輩に、船長(キャップ)は制した。
「気を緩めるなよ智則」
「その名前で呼ばないでくださいよ、雰囲気台無しじゃないですか!」
「そう簡単に前回と同じ座標でワープなんてできるか。宇宙は常に膨張してるんだぞ」
「わかってますけど!」
日本人グループは総勢十五人。外国チームと合わせると船内は百人ほどになる。緊迫した空気に萎縮していた僕は、能天気な先輩の性格に助けられる。
「で、キャップはまた奥さんに別れを告げてきたんですか」
緩んでいた空気が一瞬にして殺伐とする。
「あれ、もしかして航宙士条項二十三条使って、記憶を消してきたとか?」
他の航宙士の刺すような視線が一気に先輩に注がれる。
「今回は今までのと比べてとりわけ安全な任務だ。さすがに記憶まで消しちゃいねえよ。だが、次はあるかもな。俺たちゃそういう運命を背負っているから、しょうがねえんだ。逃れられねえ運命をよ」
キャップが冷たい声でつぶやいた。
「お前こそ、ちょっと前に出来た彼女置いてきたんだろ」
別の先輩が、顎髭先輩を揶揄った。別の先輩は、綺麗なまでに髪を剃っている。坊主頭が船内の照明に照らされていた。
「別れたよ。……いや、実際には別れることになるってところか? いいんだよ、俺のはまだ遊びだから。今回もどうせ帰った頃には音信不通になってるだろうよ」
戯けて言うが、本気で戯けていたからこそ、そこには虚しい空気が漂っていた。
ウラシマ効果。それはこの職業に就いている限り、逃れられない問題だ。
僕は地球に残してきた家族を、兄を想う。兄はいつ死ぬんだろうか。
一瞬にして過ぎる十年は、あまりにも重い。
「でもよ、最近じゃ降時機なるもんが開発されたんじゃなかったか?」
坊主頭の先輩が言う。閃いたとでも言うように、彼の口調には明るさが含まれていた。
「片道のタイムマシンってやつ?」
「そう、それ。倫理的な問題がある冷凍睡眠(コールドスリープ)とは違って、時間軸圧縮理論で『未来輸送』するからオッケー的な。それならキャップの奥──」
「降時機は外からの解錠を必要とする。宇宙事故でいつ死ぬかわからん俺たちにそんな大役務まるわけないだろうよ。何より妻が望まなかった」
キャップの年季の入った渋い声によって場は一旦静まった。
時間軸圧縮理論は、一秒をおよそ八万五千倍に引き伸ばす。つまり、機械の中で一秒を過ごすと、八万五千秒後の未来に飛ばされる、ということだ。
「そりゃあそうすよね……」
顎髭先輩が添えた。直ぐに他の航宙士によってワープ航法が使える地点まで移動したと船内アナウンスがあった。
「気を引き締めろ、全員席につけ」
シートベルトに加え体を固定させる器具を全身にとりつける。
それから、僕の体も、時間も、思い出も、何もかも引き剥がされる──。
目的は有人観測星との接触と交信。
*
地球の時間で十年。僕は無事に帰ってくる事ができた。十年、僕にとっては二年とちょっとだが、やはり乖離は存在する。
父が死んでいた。帰宅早々、家の仏壇で僕は手を合わせる。心労で老けた母の顔を見るなり、僕は泣きかけた。兄はまだ引きこもりだった。兄は、三十一歳になっていた。
「母さん、アイツは? 最近何してる?」
「さあ……。最近はとても静かよ。ご飯もちゃんと食べているし」
「そうか。母さん、考えていた事があるんだ」
宇宙の中で考えていた事、それは兄を紛れもなく殺す事だった。安楽死。それをするには本人が望む必要がある。きっかけがあれば、兄はそれに縋ると僕は思っている。
母の作ってくれた夕飯を手につけながら、僕は改めて思考を整理した。
それは僕の仕事上、必要な話し合いだった。
「母さんも歳だ。正直、僕が次帰ってくるまでにいつ亡くなるかわからない。そうすれば、アイツは生きる術を失う。だから、安楽死。最後の手段として僕が考えている事を知っておいてほしい。それは職を最後まで就けなかったアイツの助けになるはずだから」
残念ながら、生活保護は何年も前に廃れている。安楽死カプセルが実用化、導入されてそして普及した現在、一般的に進む道はそう“決まって”いる。
「明日、ちょっと話を聞きに行こうと思う。いいよね?」
僕は肉じゃがの器に盛られた最後のじゃがいもを箸で摘んで、そう言った。母は、顔を曇らせて、何か言いたげな表情を滲ませていたが、今や一家の大黒柱となってしまった僕に対しては、何も言えないみたいだった。顔の年輪を刻んだ小皺がわずかに震える。
「ごちそうさま」
僕は久しぶりの母の手料理に感慨深くなりかけたところで、食器を片付けた。
「おやすみ」
「おやすみ」
少し敵意を孕ませた声が、また母としての愛情が残った声が、その日最後に聞いた声だった。
*
厚生労働省認可の病院に赴く。曇りにぎりぎりならないくらいの雲が空を覆っていた。
病院の受付で事情を話すと、「それなら」という理由で、ある人を紹介された。
簡単に説明すると、その人はカウンセラーのようなものだと言う事だった。
正しくは監視官で対話者で分析官だった。要は、「安楽死」に関わる仕事をしている、ということだった。
紹介された部屋に、二回ノックをすると、中からゆっくりと優しさに満ちた声が聞こえた。来るものに安心感を抱かせるその声は、それまでに聞いた人間の声が全てノイズに聞こえるほど、美しい響きを放った。
「失礼します」
ドアを開け、その人と目を合わせる。クリーム色の室内の中に一人の女性が座っていた。
──一目惚れだった。
あまりにも場がよくない一目惚れだった。
印象的に後ろに結われた茶色の髪が、彼女の着る白衣を淡い翳を伴って引き立てている。特徴的な青色の瞳は、種族の垣根を越える昨今の在り方の象徴だった。薄い化粧で赤く染まった唇、ふんわりと丸みを帯びた耳の貌(かたち)。何から何まで僕の理想となる人だった。
気を休めるために、彼女の仕事机に置かれている観葉植物に目をやった。
「お話は聞いております。あなたはどうやら安楽死希望者ではないみたいで」
迂遠な言い方であるのに、職務上悪意を持たざるを得ない来訪者に対して、棘が出ていた。しかし声が耳に馴染むため、彼女は意図していないが、いつまでも声の貌を記憶してしまう。あなた──、と。
促されて椅子に座る。僕は腰の落ち着け所を一回で探し当てるのに必死だった。
「なんでも、お兄さんをカプセルに入れたいのだとか」
「ええ、その通りです」
その女性は若々しかったが、幼さの残る若さではなかった。僕よりは数個年上なのは明白だった。発達しきった体に乗る声が、妖艶とはまた違う淡さの魅力を放っていた。
「殺したいんですか?」
「それは聞き方としてあまりよろしくないのでは?」
「どうなんですか?」
威圧的で、有無を言わさぬ力強さがあった。決して睨みつけているわけではない。マスク越しの絶やさない笑顔に、影は宿ったが、それでも対話を求めていた。
僕はその話をしに来たのだと、「はい」と応じた。
「兄は引きこもりなんです」
彼女はコク、と頷く。顎から顔、首、体全体に伝播するような頷き方だった。だからといって大袈裟な動作でもなかった。
「兄は引きこもりで、碌でもないやつで、しかし面倒を見るのも限界があるというものです。僕は職業柄、特殊な家庭環境になってしまうので、余計」
「なるほど」
なるほど、と言えば目の前にいる人間は黙ってしまうのを彼女は知っていた。僕は彼女が二の句を継ぐのを待ってしまう。それがただの相槌であることは頭から抜けている。
「お兄さん、今何歳なんですか」
「……三十一です。おそらく」
「必要条件として安楽死カプセルが使えるのは、四十一歳からです。そして、この年齢で安楽死を遂行するには一年間の保護期間という時間が必要になります。つまり本当に安楽死を求めるのか、その対話をするんです」彼女は首にまとわりついていた髪を振り払って「そして、その機会を一度使って安楽死を行わなかった場合、その人から権利は失効します」
彼女の言を聞き終えて、僕は少し考えた。思っていたより条件が厳しそうだったからだ。一年。たった一回の「死」に縋るのに対して、一年も。その時間を兄は使うだろうか。
計画は暗礁に乗りかけていた。
「そして、十年。あなたがお兄さんに安楽死を求めるには、早かったですね」
彼女は笑った。微笑ではなく、ふっ、と息を漏らした、紛れもない笑いだった。失笑か? 嘲りか? 顔に貼り付けたのはそよかぜのような笑みだった。
「将来に可能性を賭けるなら、不可能ではないかもしれません。今議論されている法律の改正が行われれば」
「じゃあ……」
僕がそう言うと、しかしその人はいい顔をしなかった。
彼女が言うには、「考え直したほうがいいですよ」という事だった。
僕は最後に、その人の胸につけられている名札を盗み見た。『アキ』と書かれていた。
「お名前を伺っていいですか? 本当は最初に聞くべきなんですけど」
「宮下です」
「ありがとうございます。今日の来院者名簿に書かないといけなくて。私はアキ、と申します。覚えてもらわなくても構いませんけど」
彼女は今度、自嘲気味に笑った。
「珍しいですけど、これが苗字なんです」
僕はへえ、と相槌を打つ。
「また来ます」
彼女の顔が一瞬、ピクと不自然に動いた。予知していなかったのだろう。はじめて彼女の動じたところを見て、面白かった。
「では、またお待ちしております」
*
二度目の来訪が翌日であることを知った彼女の顔は、正直傑作だった。安らぎや癒しの代名詞ともいうべき彼女の雰囲気が、一転してお茶目な様子に転じたのは、後にも先にもこの時だろう、と僕は思う。
「暇なんですか?」
「休暇中です。航宙士なもので」
「はあ……なるほど」
「……」
「どうかしましたか?」
「いや、一つ言おうか迷っていることがあって」
僕が言葉に迷いを見せて、焦らしていると彼女は「お茶を用意しますね」と席を立った。
辞令を貰ったのは昨夜のことだった。
『翌年七月の航行より、貴殿を辺境地区星域巡回航宙の任に任命する』
要は、より地球に帰ってきづらくなった、ということだった。この任を満期まで全うすれば地球に戻ってきて宇宙省の高官につけるが、失敗すればそれまでの苦労も水の泡だ。
それでも、やるしかない。兄のようにはなりたくないから。
言うべきことを逡巡していたが、やるべきことを見通すと、話す事は意外とすんなりまとまった。
「アキさん、」
僕側の机にお茶が置かれる。それを一瞥して、言った。
「あなたに一目惚れしました」
彼女の瞳を真っ直ぐに見据えて、告白をした。一目惚れ、という言葉の語感になぜか懐かしさを感じた。
僕は、彼女は動揺か、困惑を浮かべると思っていた。会って二日目の人間に、まさか告白をするなんて。軽い人間と思われかねない。いや、軽いか。
しかし、僕が受け取った彼女の印象は、喜び──に近かった。盲目の贔屓目があったとしても。それに近い感情を表に出していた。
「急にこんなこと言ってすみません。ですが、どうしても伝えたくて」
僕は緊張から、彼女に淹れてもらったお茶をずずずと啜る。
「二十三条」
彼女の返答は、告白の返答に対する答えとして奇抜なものだった。
「それを知っていますか?」
「もちろん……それが僕の知っている二十三条であれば」
「紛れもなく、そうです。『航宙士条項二十三条、航宙士は任務遂行のために一定の記憶処置を受ける権利を有する。』あなたは、前回の航行でそれを受けているんです。宮下くん(、、、、)」
そう言われて、百八十度視点が変わったような、いや殴られたような感覚を覚える。
「まだピンと来てないかな?」
彼女は、自分に恋をしているものを殺すような目をしていた。睫毛が長い。
「あなたは一度、私の記憶を消しているの、過去にあなたの恋人であった私を」
嬉しい事実なのか、よくわからない告白だった。彼女は淹れてきた紅茶を含んで、一息ついてから、
「しかしあなたは戻ってきてしまった。どうしてか。それも定めというなら、もう一度私は従うわ」
「ちょっと待って」僕は言う。「それはOKということ?」
「今の話の流れで返す言葉が結局それなの?」
彼女は笑った。えくぼができていた。面白い人だと思った。
「驚きより喜びのほうが勝ったんだ」
*
僕とアキはそれから、次の任務まで交際を重ねた。次は記憶を消さない、と約束して。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、僕はアキから逃げないことを誓った。一般人である彼女には記憶を消す治療は行えないから。
その日、宇宙省のある施設に僕とアキはいた。僕が任務で旅立つ前の最後の休暇だった。
本当にいいの? という言葉を飲み込んで、僕はアキに微笑んだ。
僕たちは降時機の前にいた。大きな施設の中で二メートルほどのカプセルがいくつも隣立している。そのカプセルの中には、人が入っているものもあった。
「『サルコ』みたい」
彼女がそう零す。今から自分が入るそれを眺めながら。
「それって、安楽死カプセルの?」
「そう。サルコは正式名称」
天井にぶらさがっている大きな扇風機が回っている。バスローブ姿のアキがベンチに座るのを見て、僕もそれに連れて座った。
「本当にお兄さんのことを信じるの?」
「信じてはいないさ、信じてはいないからこそのおまじないみたいなもんだよ」
僕はアキの降時機を開ける人間を、僕と兄で設定していた。生きているだけが取り柄の兄を、僕は最後まで利用してやるつもりだった。
「あなたの安楽死計画の進捗は芳しくないものね」
「難しい世の中だよ」
僕たちはそれから、次の任務の抱負だとかこないだのデートの話とか、取り留めのない話をした。そしてそれから、兄の話をした。
「兄はね」と僕が切り出すと、アキは僕の目を慈しむように見た。じっ、と。焦がれるように。
「兄は、僕より優秀だったんだ。何よりも。僕の面倒もよく見てくれてね。三歳差の兄だった。けど、今の兄は見るに耐えない。もう何年も話していないけれど、根っこの部分はまだ変わっていないと思う」
「そうなんだ。それを聞いて安心した。私の時を動かしてくれる人の一人だもの。知っておいて損はないからね」
「君と別れたら、僕は兄と話してみるよ。君のおかげで勇気がもらえた」
「それはよかった。じゃあ……」
彼女は降時機のカプセルにまたがった。これを閉めて、開けるのは僕か兄かのどちらかになる。十中八九、僕だろうけど。
彼女がカプセルの中のベッドで、姿勢を整える。彼女の時が再び流れるまで、出来るだけ美しい姿でいてほしかった。彼女もそうだったと思う。
「綺麗だよ」
「ありがと」
カプセルにつけられた名札の「アキ依河」の文字を僕は撫でた。入院中の患者の名札みたいな無機質な文字だった。
カプセルに取り付けられたシールドを下ろして施設の人を呼んだ。
「それじゃあ、機械を作動させますんで、離れといてください」
カプセルの頭部、アキの頭がある方をその人はいじり始めた。頭部が散らかり始めたそのおじさんは、妙に手慣れていた。それはここにいて寝ている人たちの先行事例のおかげだった。
「起きたらどこに行きたい?」
「んー? 映画館?」
「わかった。じゃあ、またね」
そう言って、僕は彼女を覗き込んだ。目が合う。僕はなんども彼女の瞳を間近で見てきたけれど、今が一番美しいと思った。僕を焦がれる青の瞳。
ありがとうございます、とおじさんに会釈した。
一歩後退るとアキとはもう目が合わなくなった。アキはいつまでもさっきの僕の位置、今では空を切った場所を見つめている。
*
ゆうどきになると、母はスーパーへ買い出しに家を開ける。その頃に僕は家へ帰った。図らずも、母に顛末を知られずに事を終えられる。
二階の、階段から一番遠い部屋。そこが兄の部屋で、一生の住処だった。
「兄さん」
ノックしてから、そう呼びかけた。しかし返答はない。ドア越しに、ゲームの効果音とBGMだけが聞こえる。
「兄さん!」
「……」
無視だった。それもわかりやすい。これまでに何度か対話を試みたことがあった。兄が引きこもり始めた時、僕がテストを受ける時、テストの結果が通知された時。しかしここ数年は、いや兄にとってはここ十数年は話しかけていなかった。兄は僕のことをどれくらい知っているのだろうか。
「兄さん。答えてくれなくもいい。答えなくていいから聞いてほしい。ダメな兄貴をもった弟の、最後のお願いだ。僕が死んだら、僕の恋人を助けてあげてほしい」
僕が今何をしているのか、僕の恋人は今どういう状況にいるのか、そして兄に何をしてほしいのか。僕は語った。気のせいか、ゲームの音声も少し小さくなっているような気がした。
「兄さん! 僕は正直、兄さんのこと嫌いだよ。クズで、どうしようもなくて、父さんにも母さんにも迷惑をかけた。正直、殺してやりたい。けど、残念ながら、兄さんの弟であるということは一生消えないから、せめて最後くらいは兄としての役目を、一回くらいは果たしてほしい」
言い終えると、兄は枕かクッションを投げつけた。ドア越しに衝撃が伝わり、僕はびくっとなった後ろへ飛び退いた。
別れの挨拶は言わなかった。言う必要もない。どちらかが死ぬまで、僕たちは会うことはないのだから。
*
星間飛行、アルデバラン星系への航行途中。それは辺境地区星域巡回に任務を始めてから数ヶ月目のことだった。この任務では各地点での補給物資の調達が僕の主な仕事で、巡回二周目に入っていた。この星系にはきな臭い匂いがあるとのことで、一周目に武器や軍糧調達を依頼されていたのだ。
──こちらβ、α班の航行ルートの変更を申請する。K地点を迂回して来られたし
「なんでですか! この後経由してたら尋常な遅れが出てしまいすよ!」
珍しく通信に砂嵐が入る。
──敵対勢力が武装蜂起した、航路に武装勢力が待ち伏せされている恐れがある、気をつ────
そこで通信は途切れた。
「おい、あれ見てみろ船だ」
顎髭の先輩に背中を叩かれて、気づく。操縦席で運転をオートモードに変更して、フロントガラスから覗く。先ほどまで進んでいた航路に船体から発せられた光源が見えた。
ついで、赤く警戒サイレンが鳴った。高波熱線によって船体の背中を攻撃された。
「まずい、こんな小型船じゃ、すぐに狙撃されて死ぬぞ!」
先輩に言われて、はっとなった。赤く点滅を繰り返す船内に、アキの顔が思い浮かぶ。
死にたくない。死ねない。
先輩は操縦をオートからマニュアルに切り替えて、必死に逃げるが、光源は複数に増え、群体となった敵から逃げるのは不可能だった。
ピーピーピーピー、と非常アラームが鳴り響く……。
*
「やっぱり……」
アキは十二年ぶりに目覚めた。降時機内の時間に照らして言えば、一時間半にも満たないが、外の世界の空気で一瞬にしてその時の流れを理解した。理解させられた。
「はじめまして」
アキは密かに、全てを悟る。
「来てくれてありがとう」
その人は、アキに二通の文書を渡した。一通は、恋人の話が、事細かに、しかしたった数行で記されていた。二通目は、遺書だった。
「あなたは、これからどうするの?」
アキは問うた。二通の手紙を胸に近づけながら。その言葉を投げかけたのは、単純に心配の感情があったからだ。
次に彼は、自分のことを少し語った。自分が今どんな状況にいるのか、そして何を望むのか。たどたどしい口調で、人との話し方を知らない喋り方で、懸命に。
「母……死んだ……、俺………………ひとり」
「あなたが望むこと、私なら出来る。仕事としてやり遂げられる」
アキには、一つのアテがあった。眠る前、議論されていた安楽死新法のことが頭の隅にあった。家族もおらず働くことも出来ない人間が死ねる法律。
アキが調べてみると、確かにそれは施行されていた。彼もそれを知って、アキを助けたのかもしれない、そう信じた。
官能的でかつ実用的な美しさを誇るサルコを前に、二人は佇んでいた。青くカラーリングされたこの機械は役目を終えると、棺として代用できた。
アキは彼がサルコの中に入るのを手伝う。サルコは、使用者が中に入り、AIのいくつかの質問に答えると永い眠りを施してくれる。
アキの仕事は、患者の安楽死の最初から最後までをサポートすることだった。
サルコに保存された質問の答弁の音声データは、通常遺族が受け取ることが出来た。しかし彼の場合は、アキにそのデータが行くよう手配してあった。
質問の後に、ボイスはこう始まっていた。「どうしようもない兄だった。」
アキは映画館にいた。それを見たら降時機の中へ入るつもりだった。彼女には、もうそこしか居場所はなかった。また誰かが開けてくれるまで。
アキの恋人の遺書はこう始まっていた。
「引きこもりの弟だった」
アキへ贈る“時” 無為憂 @Pman
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