スズキ依河
無為憂
七月四日。アメリカ独立記念日。ニューヨーク市で開かれるネイサンズのホットドッグ早食い選手権。父が転勤してからはじめての休暇で、私はホットドッグの早大食いを見るためだけに連れ出された。父は「この大会歴史があるんだぞ。毎年観客は五千人を超えるし」と自慢げに言ったが、私は異国でこれだけ多くの人に囲まれることに疲弊していた。私は英語が喋れないから。
ヒャッハーなアメリカ人たちが、ホットドッグの被り物を被っている。加えて、テレビ局のクルーたちが熱狂的な雰囲気を焚き付けていた。
周りを見ても大人の男ばかりで、中学生の私は萎縮する。はぐれるなよ、と父に言われてまた辺りを見回した。言語を介さない情報だけが私の分かる情報だから。
目の前のステージには上から吊り上げている大きなホットドックのモニュメントがある。パンからはみ出たソーセージはそのハリボテ感のせいで、一向に食欲を掻き立てない。そのホットドックの下にはシルクハットを被った司会者がスタッフと話しているのが見えた。
ややあって、選手の入場が始まった。父がスマホを掲げて動画を撮る。司会者のマイクを通した声が、雑音とは別の音声として聞こえる。ぞわぞわ、と私の肌が総毛だった。会場の熱気がぐんぐんと膨張していく。
「SUZUKIーー!!!」
日本人だった。金髪の三十くらいの男がタオルをぶん回しながら登壇する。
「スズキー! ガンバァー!!」
父が叫ぶ。
「なに、知ってるの」
「有名だぞ。日本では」
父のしたり顔にいらついて、私は「あっそ」と適当に返した。「ここアメリカだし」
父は気にすることなく、スズキを応援することに躍起になっている。
私は吐きだこを気にしながら、スマホをいじった。父はステージに夢中になっていて私の方を見ようともしない。『スズキ 大食い』で検索すると、ステージにいるスズキの解像度がくっきりとした
ステージの大半を占めるテーブルに、無数のホットドックと水の入ったコップが並べられる。
「水多くない?」
「パンに水つけて食べるんだよ。トーキョースタイルって呼ばれてる」
「ダサいね」
私がそのままの感想を言うと、父は語り出す。
「昔のチャンピオンがやり出した方法で、今ではそれを使わない人間はいない」
「へえ、凄いじゃん」
「だろ?」
私はびちゃびちゃになった水味のパンを想像する。麦の香ばしい匂いをかき消されたそれは、食べることへの冒涜に感じる。今の私みたいな。
じきにカウントダウンが始まる。
「ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン」
ホットドッグモニュメントの横にあるタイマーが時間を削っていく。選手はブザーで一斉に食べ始める。
パンは二つに引きちぎられ、左手に置いてあるコップにじゃぶじゃぶと浸し、そして口に押し込んでいく。詰まらせないよう、選手はパンを押し込んだ後、体を前後に揺らす。
「あれは、」
「解説はいいから」
揃っていた動きにだんだんとばらつきが出てくる。ソーセージを食うもの、咀嚼がうまくいかないもの、二本目にいくもの、どれだけ無駄がないかで、記録はたやすく変わってしまう。
選手が口にものを詰め込んでいく様を見ていると、その前後の揺れもあいまって吐きそうなのかな、と思ってしまう。吐くこと、それは私ととても関わりがある。
日本を離れてから、もう三ヶ月が経っていた。父は単身赴任を予定していたけれど、母の勧めもあって、私たちは連れてこられた。父と母と、私。三人。十四歳の私はそれがきっかけで、日本との縁を切った。
詰め込まれ、押し込まれたパンとソーセージは跡形もなく、テーブルの上からも選手の口からも消えている。不思議だ。
スズキの記録は四十本を超えた。他の選手は四十後半に達しており、差が出始めている。彼の横揺れも感覚が長くなってきている。
一瞬、一瞬でホットドックを食らう世界で、その遅れは致命的だった。残り二分。
観衆のコールは「フィフティ! フィフティ!」と一番食べている選手を讃えた。
そして、テン、ナイン、とカウントされ、大会は幕を閉じる。
審査員たちがホットドッグを何分の一まで食べたか検分する。選手たちは口をもごもごと動かし咀嚼して、その間を待った。
歓声が一気に湧き上がる。チャンピオンが三冠を果たした、と父は言った。
私はそれどころではなかった。涙目になり、吐き気を堪え、酸味を感じる。苦痛でしかなかった。
私にとって、その状況はただただ異様だった。私のルールの中ではありえないことで、それが吐き気となって現れていた。早食いに大食い、さらにそれを喜びのなかで行っている。優勝トロフィーを掲げるチャンピオンの嬉しそうな顔が、周りの選手が拍手で讃えていることが、食うという行為の恐怖を感じない異教徒どもの集まりに感じた。
なんとか吐き気を堪え、涙を拭うことが出来たのは、選手たちが降壇したあとだった。
「依河?」
父が私の名前を呼ぶ。私は涙でぐちょぐちょになっているせいで、父の顔を見ることが出来ない。見せることも。
「人混みで無理させちゃったか」
父が一人で納得したように言った。はあ、と息を溢したのは、ため息だったのか自責だったのか。
口を抑えることに必死で、唾液のついた右手をどこにも触れないようぷらぷらさせながら、私たちは集団の中から抜けた。
父はまだ気づいていない。普通の人は、吐きだこを見ても気づかないのだと思う。
食べることがなによりのストレスだった。
家に帰ってから、不貞寝をして遅くまで寝た。母が夕飯を用意してくれていたけれど、食べなくても何も言われなかった。
父は食べない私を見て、「どうしたんだ? 食べないのか?」と言う。
深夜二時。なかなか寝付けなかった。空腹による疲れとか、昼寝をしたからとか、そういう些細な理由で、寝られなかった。
枕の位置を何度か直しながら、ぼーっと天井を見つめる。暗い部屋のなかで、いくつかのシミを動物として幻視しながら、時間を潰していた。
ふと、スズキのことが頭を過った。彼は負けて、今何をしているのだろう。はるばるアメリカまで来て。そこからはもう好奇心だった。昼間、彼のことを検索した時に、ユーチューブをやっていることは知っていた。暗闇に眩く光スマホを、目を細めながら操作していった。直近の検索履歴に、吐き方を調べているのが残っていた。
彼のチャンネル登録者は十万人ほどだった。ラーメンの大食い動画や寿司の大食い動画、コラボであげていた唐揚げの大食い動画。そして、選手権の予選の映像。私は予選の動画をタップした。本選で惨めに散った彼の勇姿を見てやろうと、嘲笑うつもりで視聴し始める。
軽快な音楽をBGMに、過去に彼の食べた食材たちがオープニング映像として流れている。
お腹が鳴った。何も入っていない胃が、器に大盛りにされた唐揚げやラーメンに反応する。そしてそのカロリーを想像して、気持ち悪くなった。食欲など起きない。アメリカの食べ物もそうだ。全部、全部、脂っこくて、量が多くて、何一つ健康のことを考えていない。胃液が逆流しかける。
私は目を瞑って、スマホを適当にベッドに放り投げた。ごつん、と壁に当たる音がした。
目を閉じると、瞼の裏に焼きついたラーメンが見える。そして、予選会場でのビデオ。
彼はどのようにしてホットドッグを食べたんだろう。彼への興味か、フードファイトへの興味か、私は気になってしまう。息を吸って、吐いて、三回ぐらいそれを繰り返した後に、私はスマホを探って手を伸ばした。
目を細めながら、私はそれを再生する。全体で二十分ほどの動画。最初はアメリカの観光の様子が挿入されており、旅情を唆られた。私もそうでありたかった。義務化されたくはなかった。
スマホ画面が眩しすぎて、私はベッドランプをつける。動画内で照りつける西日が弱まっていく。
やっていることは本選と変わらない。ただ食べるだけ。それだけ食べているのに彼はなぜ痩せているのか、気を遣っているのに私はなぜ痩せないのか。
がつがつと獣のように貪り、体を揺らして、そして水を飲んで。水を飲まずに寝て口の中は乾いているはずなのに涎が出てくる。あんなまずそうなホットドックなのに、ソーセージにかぶりついてみたいと思う。どうせ、まずいのだろう。
昼間、目の前で見た景色と同じく、十分のカウントが終わると、選手は食べるのをやめる。プレイ中の揺れとは違って、嗚咽を堪える為に揺れている選手もいる。スズキもその一人だった。本当に馬鹿みたいだった。彼らは試合中、数も知らずに十分もの間食べ続けている。
審査員が検分をしている間、スズキのナレーションが始まる。
『どんだけ汚くたって最終的にスコアを伸ばせばいいんですよ、アメリカって。文化的な違いもあると思うんですけど、とりあえずスコアを伸ばすことが第一で』
後日談的に語られた大会の様子に、私は聞き入ってしまう。
『で、これ、ここで気づくんですよ、一位取ったって』
スズキが口をウェットティッシュで拭いていると司会者がトロフィーを彼に与える。彼の顔がぱっと明るくなり、満面の笑みで予選を勝ち抜いたことの喜びを顔に出す。天高くガッツポーズをし、吼える。彼が着ている公式のホットドッグTシャツは汗と飲んだ水でぐちゃぐちゃに汚れている。
『嬉しかったな〜〜。嬉しかった』
彼のその言葉を聞いた時、私は静かに泣いた。暗いところで明るいものを見ていたせいで、目が疲れていたんだと思う。めちゃくちゃに泣いて、夕飯を食べようと思った。
用意されていたのはサラダと豚テキとコーンスープだった、レンジでそれらを温め、一人でテーブルについた。
日本人好みの豚テキのソースが鼻を突く。アメリカ人のスズキに対する盛大な賛辞がいつまでも耳に残っている。頭は騒がしかったが、心は凪いでいた。
付け合わせのパンで豚テキを食し、コーンスープを飲み干す。私が動画で感じていた喧騒もいつしか消えている。あの動画の冒頭を思い出す。行動もループする。
冷蔵庫にあったスパムを取り出し、温め、食べる。その後、ウィンナーを適当にレンチンして食べる。ハムをパッケージから出して食べる。バゲットをトースターで焼き、蜂蜜をつけて食べる。それが一時間ぐらい続いて、ついに限界が来た。自分でもなんで食べ続けているのかわからなかった。
トイレに駆け込んで、今まで詰め込んできたものを吐いた。
父がトイレをしに、起きてくる。
「どうした? 依河? 大丈夫か?」
父はトイレの中から私が嗚咽を漏らしたのを返事として受け取る。トイレから出てきた私を見た、青ざめた表情の父は、「キッチンの見たけど。さすがに食べ過ぎだろ。冷蔵庫にあるもの全部食べてるし、明日の朝食の分まで」
枯れたと思っていた涙がまた出てくる。
「無理してまで食べる必要ないんだぞ」
制御が出来ない、と言うのが正直な感想だった。一枚のポテトチップでさえ、普段は食べる気が起きないのに。
「ねえ……」
心配と娘の異常でおかしくなってしまった父に、ホットドックの味ってどんなだっけ、と訊く。怪訝な顔をした父を見ながら、私は我が儘を言う。
「日本に戻りたい」
「それは出来ないよ、依河。この前出てきたばっかじゃないか」
病院、という言葉ははじめから出なかった。私に最適な場所は日本だと決めつけていた。
彼の動画を基点として、私の食生活は変わった。過食と拒食を繰り返して、精神的にも体力的にも疲弊していった。
八月一日。彼は一本の動画を投稿した。『報告があります(雑談)』というタイトルで、サムネイルも料理は一切載っていなかった。彼のチャンネルを見るとすぐに気付くくらい、彼のサムネは盛りに盛られた大盛りの料理たちが登場する。それがない、ということは……。
私はオニオンスープを飲みながらその動画を再生した。深夜の一時だった。閑寂なリビングに、スズキの朗らかだが不安を帯びている声が流れる。
『本日はみなさんに、ご報告させていただきたいことがありまして、この動画を撮らせて頂いております』
Tシャツ一枚というラフな格好に、私は僅かばかりの安堵を覚えていた。
『私は本日をもちまして引退させて頂きます。理由は私自身の年齢によるものです。競技含む大食いは健康上控えるべきだと判断しました』
その一言で、私の何かが決壊した。私の信じていたものが壊れるような、いや、私の見ていたものが元から間違っていたのかもしれない。いつから彼をこっち側だと思っていたのだろう。
いつも三杯は飲むオニオンスープが、今日は一杯だけで済んだ。いつまでもスープの後味が残っている。
スズキ依河 無為憂 @Pman
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