音楽教室の先生を始めたら、天使に出会ってしまいました。

だずん

音楽教室の先生を始めたら、天使に出会ってしまいました。

「こーんにーちはー!」


 教室に入ってきた小さな女の子は木下きのした日菜ひなちゃん。小学3年生。

 私がピアノの先生になってから初めてできた教え子でもある。


「はーい、こんにちは。すわってすわってー」


 そう言って、私が座っているピアノ用長椅子の空いたスペースをポンポンと叩いて呼び寄せる。


 ぽすっ。

 日菜ちゃんが右隣に座ってこっちを向く。


「せんせー、きょうは何するのー?」

「今日はね、『ねこふんじゃった』をやろうと思いまーす」

「ひな、それしってる!」

「そうでしょー。有名だよねー。でも知ってるのと弾いてみるのとじゃ全然違うんだよー」

「そうなの?」

「そうだよー。それじゃあ一回弾いてみるねー」


 タラ、タッタッタ♪

 タラ、タッタッタ♪

 タラ、タッタ、タッタ、タッタッタ――






 私――川本かわもと沙織さおりがこの音楽教室で働く前。私は正社員として別の会社で働いていた。けれど、あまりの残業時間の長さに耐えられず、2年ほどで辞めてしまった。


 その後いくつか就職先を探したものの、うまくいかなかった。当時は景気が悪かったからしょうがないことだったかもしれない。


 とはいえ仕事をしないわけにもいかないから、学生時代に音楽をやっていたという理由で、とりあえず今の仕事を見つけて働かせてもらっている。ただ、アルバイトとしての採用だからそれほど収入があるわけでもない。


 実家で暮らしているからお金の方は何とかなってるけど、いつかは結婚して家を出ていかないといけないんだろうな、という予感だけはしている。ただ、男性と結婚すると言われてもしっくりこなくて、そんな時は来るのだろうかと疑問にも思う。


 だけども、ここでの仕事はすごく楽しくて、もしかしたら私の天職なんじゃないかって思うほどだったりする。


 日菜ちゃんと出会ってからは、私自身も元気になってるのを感じてるしね。小学生の元気パワーってすごい。


 だから、私は日菜ちゃんとのこの時間が生きがいになっている。

 普通はこういうの働きがいって言うんだろうけど、私にとっては生きがいって感じ。日菜ちゃんかわいいし元気だしちっちゃいし。


 もしかして天使……?






 ――タッタッタ♪


「はい、こんな感じ」

「すごい! せんせーうまーい!」

「ありがとー。日菜ちゃんも練習したらこんな感じに弾けるようになるかもよ? やってみたくない?」

「やるやるー!」


 元気いっぱい、素直でかわいい日菜ちゃんと一緒に手を並べて練習をする。


 タ、ラ、タッ、タッ、タ。


 ひとつずつ、音階を確認するように鍵盤を押していく。

 それを繰り返していくうちに、日菜ちゃんの小さな手がスラスラっと動くようになっていく。


 成長してるのが目に見えて、嬉しくなる。


 タラタッタッタ♪


「どう? どう? ひな、うまくなった?」

「うん! うまくなってるよ! じょうずー!」

「やったぁ!」


 日菜ちゃんの可愛い笑顔に、私はただただ幸せな気持ちになるばかり。


 やっぱり天使だ……。











 そんな楽しい日々ばかりが過ぎていき……とはならず。ある日、日菜ちゃんが私に不満を呈してきた。


「ねえ、せんせー。ひなって下手くそなのかな」

「え、どうして?」

「だってふーちゃんがもう『ねこふんじゃった』なんてとっくに終わらせて次の曲やってるって言ってて、ひな、全然進んでないのかなって……」


 ふーちゃんは確か日菜ちゃんのお友達で、同じこの音楽教室に通っている子だ。同時期に入ってきたから確かに進捗の差は認めざるを得ない。日菜ちゃんはちゃんとやってくれてるから、日菜ちゃんが悪いというよりかは、私がまだまだ新人で教えるのが下手だからかもしれない……。


 そう思うと日菜ちゃんに悪いことしてるのかなって思っちゃって、少し、ううん、結構、辛くなっちゃう。


「日菜ちゃんは悪くないよ! いつもすごく頑張ってくれてるし、ちゃんとうまくなっていってるから、大丈夫」

「そうかなぁ……」


 日菜ちゃんは納得いかないような、不満げな顔で私を見る。私に対して何か隠してない? と言いたげな表情。


 そう見透かされて、日菜ちゃんの信用を落としてるんだって気付いた時、私はどうにも本当のことを言わないと自分の心が許してくれないらしい、ということにも気が付いた。


 変なプライドなんて日菜ちゃんの前じゃカカシにしかならない。

 そんなものは捨て去って、日菜ちゃんと、ちゃんと向き合ってあげないと。


「えっと、ごめんね。ほんとは先生も教えるの初めてで、ちょっとうまく教えられてないかもしれないの。できるだけ頑張ってるんだけどね……」


 小学生相手に何言ってるんだろう、なんて思っちゃうけどそれはナシ。さっきそんなの捨てるって決めたんだから。


「……それで、他の先生よりかは教えるの下手かもしれないけど、よかったら一緒に上手くなっていけたらいいなって思うんだ。日菜ちゃんもこうしたほうがやりやすいとかあったら言って欲しいし、先生も他の先生から勉強したり頑張るから……」


 しばしの間があってから日菜ちゃんが口を開く。


「そっかー。いいよー! せんせーも何でもできるわけじゃないんだねー。なんか逆に安心しちゃった」


 そう言って日菜ちゃんがあははって笑う。


「いっしょにがんばろー!」


 その時、私の心の奥にわだかまっていたものが全て消されて綺麗になる。その心の扉をガチャと開いて、心の奥の部屋にやってきたのは日菜ちゃん。明るく元気な日菜ちゃんに私の心が占領されちゃった。











 私が日菜ちゃんに心奪われてからというものの、日に日に日菜ちゃんの弾くピアノは上手くなっていった。一方の私も方々ほうぼうに聞いて回って教え方を伝授してもらったり、日菜ちゃん含む教え子たちの意見も聞きながら少しずつ先生としての役割を果たせるようになってきた、と思う。


 半年経った今では日菜ちゃんの進捗はふーちゃんと同じくらいになって、日菜ちゃんもご満悦の様子。今思うとあれは、ふーちゃんに対する劣等感じゃなくて、一緒がいいって気持ちから生まれた不満だったのかもしれない。


 とにかくそんなこんなで発表会の時期が近づいてきた。

 発表会と言っても親御さんたちに見せるだけで、公に観客を招いてやるわけじゃない。とはいえ日菜ちゃんにとっては初めての発表会。「がんばる!」って言って張り切ってる。


 発表会で演奏するのは『「カルメン」前奏曲』。

 難易度の高い曲だけども、毎日ピアノにたくさん向き合った日菜ちゃんにとっては、あと一歩頑張れば手が届くくらいの難易度だ。


 今日の練習でもほとんど弾けたけど、やっぱり何度か音階を外してしまっている。発表会までに教室で練習できるのは今日が最後だから、いくら家でも簡易的な練習ができるとはいえ、流石に不安だ。


「うーん、またちょっとズレちゃったね……」

「大丈夫! ひなは絶対成功させるもん! だから何回も何回も練習して、ミスなく弾けるようにするの!」


 日菜ちゃんは強いなぁ。

 不安なんてもろともせず、前に進もうとしている。

 そんな日菜ちゃんの手助けを、私はしてあげたい。


「いい心意気だねー。でも本当にミスなく弾こうと思ったらもう一度基本を見直すことも大事なんだよ」

「そうなの?」

「うん。一度間違えたところを一緒に見直してみよっか」

「うん!」


 笑顔の返事。

 その笑顔があればきっとうまくいくよ。


 ふたりで見直す。

 指の動かし方からもう一度。

 日菜ちゃんと出会ってから今までの軌跡を辿るように、覚えたことを再確認していく。


 そうして見直しが終わり、日菜ちゃんがもう一度全体を通して弾き始める――











 発表会当日。


 各種演目が終わっていき、日菜ちゃんの番になる。

 私は観客席でドキドキしながら舞台を見つめる。


 日菜ちゃんが幕外から現れる。舞台の真ん中に立つと、たどたどしくお辞儀をして、ピアノに向かう。


 私は心の中で「日菜ちゃんがんばれー!」と祈る。

 こんなにも誰かを応援したくなったのは初めてかもしれない。日菜ちゃんに頑張ってほしいって心からそう思える。もし失敗したら失敗したで、たくさん励ましてあげたいけども、やっぱり成功してほしい。そしたら何かが変わるような、そんな予感がしたから。


 日菜ちゃんがピアノに指を置く。


 私は固唾を飲んで見守る。




 タッタラタラタラ、タッタラタラタラ、タッタラタラタラタ~♪

 タッタラタラタラ、タッタラタラタラ、タッタラタッタラタ~――


 軽快なピアノ捌きをする日菜ちゃんにうっとりしながら聞き入る。




 ――ター、ターラ、ターラターラ、ターラターラター――


 中盤に差し掛かり、落ち着いた曲調の部分もしっかり再現していて、「よしよし、いいよいいよ!」って思いながら、日菜ちゃんがピアノに込めた音や想いを入念に聞き取る。




 ――ダダダダダダ、ダダダダダダ、ダ、ダン、ダン。


 最後は完璧な締め方で演奏を終え、日菜ちゃんがピアノから離れて一礼する。


 すごい! 日菜ちゃんすごいよ!

 そう思うと同時に、自然とぱちぱち拍手していた。会場も拍手喝采で、観客から日菜ちゃんへの「すごい!」という気持ちが伝わってくる。


 不思議と涙まで出てきてしまった。

 これが嬉し涙ってやつなのかな。嬉しくて、とっても笑顔なのに泣いちゃうなんて不思議だよね。でも、なかなか止まらないもんだから、よっぽど日菜ちゃんに思い入れがあったんだなって気付かされる。




 発表会が終わり、ホールを出たところで日菜ちゃんが私のもとへやってくる。


「せんせー! 見てくれた!?」

「もちろん! すごかったよー! もうほんとにすごくて言葉になんないくらい……」

「えへへー。そんなに喜んでくれたんだー。ひな嬉しい」

「先生もー!」

「ねえせんせー?」

「ん? どうしたの?」


 日菜ちゃんが私に近づいて、手を広げる。

 抱きしめてって体で示されたから、ちょっとしゃがんで抱きしめてあげる。途端に日菜ちゃんにも抱きしめられる。とっても心が温かくなる。


「せんせー、だいすき!」


 嬉しい。すごく嬉しいけど、どこかおかしくなってしまいそうなくらいだから、冷静になってせんせーの役割を果たすことに意識を戻す。


「先生も、日菜ちゃんのことだいすきだよー」


 先生として日菜ちゃんのことが好きだと伝える。


 本当は日菜ちゃんへの気持ちが私の心の大半を占めてしまっていて、そんな言葉に収まるような想いじゃないことはわかっていた。行き過ぎたらいけない気持ちだなとも思う。


 けど、こうやって日菜ちゃんからの純粋な好きの気持ちを受け取ってしまうと、これでもいいんだって思えてしまう。


 これからどこまで一緒に歩めるのかわからなくて少し不安もあるけれども、日菜ちゃんとならきっと。




 だけども、少しだけ。少しだけは近づきたい。

 先生から一歩抜け出して、私としての好きを少しでもいいから伝えたい。


 隠しきれなかったその気持ちに駆られ、私は日菜ちゃんのほっぺに軽くキスをした。

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