ブラック・ロッカー

武燈ラテ

ブラック・ロッカー

 まずは書類の整理からお願いするわねとオフィスの隅にある古いロッカーの前に連れて行かれた。今日から私の上司となる中年の女性はにこやかだったし、私も最初の仕事としては特に何の不満も疑問もない。


 就職氷河期真っ只中に社会に出た私はどこにも就職が決まらず、派遣社員としてあちこちの企業をふらふらと移動してもう長い年月が経つ。


 派遣社員なんてフリーターみたいなものだ。どこにも定地点などなく、企業から簡単に契約終了を言い渡され、社員じゃないからと重要な仕事は回ってこないのでスキルも身に付かず、浮き草のように現代社会を漂っている。私の市場価値は底辺だ。だから前任者の退職の仕方については不穏な話を聞いてもいたが、仕事にありつけるだけでありがたかった。


 ロッカーの中にはA4サイズのコピー用紙がどっさりと積まれていた。

「ファイルに綴じる時間もなくて」

 申し訳なさそうに眉を下げる女性は、やはり笑っている。とても愛想が良い。


 内容をチェックして分類したいけれどこれだと目を通すのも一苦労、だからひとまず書類のヘッダーの日付順に、えいやとリングファイルに綴じてほしい。


「わかりました」

 簡単な仕事だ。

「悪いわね、こんな仕事で」

 と女性は、リングファイルやパンチなどの備品を渡してくれた後に立ち去った。


 さて古いスチール製のロッカーは上から下まで五段、高さは背の高い男性ほど、幅は一メートル弱だろうか。その中にびっしりと、印刷された書類が納まっている。


 まずは年代順に仕分けしようとしたが、どうやら全てここ一年程度で作製された書類のようだ。日付も、上段から下段に向かってほぼ一方通行に揃っている。ならば簡単だ。


 上段から順に書類を引き出し、日付を確認し、書類を綴じる。内容は、社員の交通費の計算や、各種手当の支給額の計算など、人事の仕事だ。それも人事を担当して最初に任されるような仕事だ。


 なるほど私の仕事は人事担当者のサポートだと聞いている。きっと書類整理のついでに、職務内容を察してほしいとのことだろう。しかし、いまだに紙ベースで計上しているとは。


 この書類の山を作成したの日付からしてもおそらく前任者だ。几帳面な性格らしく、書類にはあちこちに赤いボールペンでメモ書きがある。計算の基準や、社内規定と照らし合わせてどう解釈したのか、日付や、どういう注意を受けたのかも事細かに書いてある。


 前任者が慣れない仕事ながら、アドバイスを受けつつ、必死に担当業務を覚えようとしていた様子が伺える。


 私は自分の勉強にもなるからと、赤字書きがあれば読み逃すことがないよう留意しつつ作業を進めた。


 ところが数ヶ月、半年と経つうちに、文字がみるみると乱れ始めた。忙しさのためだろうか、丁寧な文字が走り書き混じりとなった。そのうち文字が殴り書きのように大きくなった。読みづらく、最小限しか無くなった。前任者の心の荒れようが明白に現れていた。


 八ヶ月ほど経過すると、文字は判読に苦労するほど小さくなった。


「絶対に絶対に絶対に忘れないこと」


 そんな感情的なメモが増えた。実作業に必要と思われる内容が減った。


 そして次には、恨み言、告発と取れる内容、殺してやりたいなどと物騒な吐露が紙面の隅に書かれるようになった。どんな理不尽な叱られ方をしたのか、どんな嫌がらせをされたのか。または車内で誰と誰が不倫関係にあるのか、横領しているのは誰なのか。気づいた後にどんな仕打ちにあったのか。社長以下、あらゆる社内の人間の、色ごと、金銭、暴行の醜い所行が詳細に書かれている。それも日を経過するごとに次第にエスカレートしていく。そしてこの書類は、誰も見ていないこと、人事関係の計算は全てシステムで行っていて、自分は何の役にも立たない仕事をさせられていることなど。


「そろそろ昼食の休憩をとってくださいね」


 突然後ろから声をかけられて、私は動揺をした。書類に告発された中でも筆頭の出現率を誇る、私の上司となる女性からだ。


「ありがとうございます」


 私はなんでもない笑顔を作り、愛想の良い女性を振り返り、会釈した。


 何でもないことだ。部下を自殺に追いやったことのある上司につくことなど、別にこれが初めてというわけでもない。

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ブラック・ロッカー 武燈ラテ @mutorate

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