浅い眠りが解かれた。

 浅い眠りが解かれた。寝床にいるクロエはゆっくりと瞼を開いた。それは無意識の反応だった。きっと誰かの足音がしたのだろう。彼女は眠りに落ちていながらでも周囲の異変に敏感だ。

 枕の下に潜ませた短剣に手をのばして、しばらく待った。やがて扉がノックされ、部屋の外から部下のくぐもった声が聞こえた。

 素裸のクロエは寝台から床に降り立つと丈の短いナイトガウンを肩にかけた。暖炉の火が室内をぼんやり照らすなか、裸足のまま敷物を踏んで戸口へと歩く。間仕切りを回り込み、自室の扉を開ける。すると手燭を持った若い警備隊員が廊下に立っていた。彼は束の間、クロエの露出過多な姿にちょっと驚いていたが、すぐに気を取り直すと、


「お休みのところ、申し訳ありません。総督府でなにかあったようです」


 その報告を聞いたクロエはあからさまに顔をしかめる。


「なにかあった? わたしのところへ報告をよこすのなら、内容を確かなものにしてからになさい」

「ええ、あー……念話通信を受けた夜番の者によれば、総督府が大勢のドワーフどもに襲われたらしいと」


 動揺する若い警備隊員は、たどたどしくそう告げた。

 予想外の知らせだった。クロエは部下から視線を外すと少しのあいだ思案した。


「ランガー総督へは?」

「もうご存知のはずです」

「ならマイヤーとノイマン、あとダイムラーの班を向かわせなさい」

「いえそれが、秘書官殿から聞いたところでは、すでに総督が鎮圧に向かったと」


 適当な指示を与え、あたたかい寝床へ戻ろうとしたクロエの動きがふと止まった。

 ランガーが収容所を留守にするなど、滅多にないことだ。クロエはふたたび黙考した。そのあいだ、彼女の手のなかで弄ばれる短剣がくるくると危なっかしく回った。ランガーめ、なんの気まぐれだろうか。しかし理由はどうであれ、思わぬ好機が訪れたようだ。クロエは内心でほくそ笑んだ。


「ばかね。事後処理でもいいから出動するのよ。わざわざ総督が出向いたのに、警備隊がぐっすり寝ていたなんてことになったら、あとでなにを言われるかわからないわ。ワイバーンも一頭、出しなさい」

「了解しました」


 若い警備隊員はブーツの踵を打ち鳴らすと、ただちに命令を実行すべくその場を去った。

 部屋のなかへ戻ったクロエは寝台の端に腰掛けた。すると寝台の脇のぼろ布を敷いてある籠から、ユキヒョウの子供が出てきて彼女の片足にまとわりついた。クロエはその首根っこを摑んで膝に乗せると、耳の付け根を指先で掻いてやった。ユキヒョウは気持ちよさそうに目を閉じて、されるがままだ。

 ノア・デイモンだ。彼に念話石を渡せば、なにか起こすと思ってはいたが予想よりも早かった。それにしてもドワーフを巻き込んでくれるとは。もっけの幸いといえよう。ランガーはイシュラーバードのドワーフ族を嫌っていたし、それで自ら出向くに至ったと考えられる。事態がよい方向へ転がった。労せずしてランガーの私室を探る、絶好の機会が訪れたのだから。

 となれば、ぐずぐずしてはいられない。クロエはユキヒョウの子供を籠に戻すと着替えにかかった。

 夜闇にまぎれて主棟を出た。空を仰ぐと星々が見えた。夜明けにはまだ時間がある。ちょうど警備隊の一群が正門から出てゆくところだった。八人構成の班が、三。馬に乗った計二四人が強制収容所をあとにした。在駐する警備隊のおよそ半分の人数にあたる。このあとノアはどうするつもりだろう。おそらくイシュラーバードの総督府を襲ったのは陽動にちがいない。ならば、こちらの収容所でもひと騒動ありそうだ。

 角灯を携えたクロエは主棟から南東へと進み、正門に近いところにある官舎へと向かった。石材をモルタルで固めた二階建ての建物。出入口前の階段を登り、のぞき窓の付いた扉を開ける。入ってすぐの玄関には侵入者を防ぐ低い手摺りが設けられ、その向こう側にいつも秘書官がいるはずだが、いまは姿が見えなかった。玄関から奥へつづく細い廊下を進むと応接室がある。ここまでは、誰でも入り込める。問題なのは廊下の途中にある階段からあがる上階だ。そこがランガーの私室だった。

 応接室には秘書官がいた。長椅子と低い卓があり、卓には焼き菓子の皿と茶器が置いてあった。クロエが姿を見せると、紅茶のカップを手にする細面な秘書官は、あわてたように長椅子から腰を浮かせた。


「総督は?」


 と相手に先んじてクロエ。


「おられません。総督府の件は、お聞きおよびですか」

「聞いたわ。こちらからも何人か向かわせました。でも、なぜ警備隊われわれが動く前にランガー総督が?」


 クロエが卓を挟んだ反対側の長椅子に腰をおろすと、秘書官も座り直して肩をすくめた。


「わかりません。ですが、すぐにも事態は収束しましょう。ああ、いまお茶を淹れます」

「いらないわ。ねえ、それよりも──」


 クロエは黒いケープのフードを頭のうしろにさげ、できるだけ魅力的な笑顔を相手に見せた。


「ちょっと、お願いがあるの」

「なんでしょう」


 いつにない警備隊の隊長が見せる様子に秘書官はやや戸惑った。クロエは彼の黄色がかった薄茶の瞳に目を据えつつ、右手で印契を結んだ。左手は、ケープの内側で用心深く短剣の柄にかけられていた。つづいて短い詠唱がクロエの唇から漏れる。触媒を必要としない簡単な呪文だ。

 秘書官の瞳がほんの少し揺らぎ、クロエは彼が魅了の術にかかったことを確信した。他人の心を操る呪文は、彼女の得意とするところだ。


「あなた、鍵を持っているわね」


 一時的に親密な関係となった秘書官へ、クロエが訊ねた。


「鍵? どこの?」

「ランガーの私室へ入り込める鍵よ。魔術の障壁をすり抜ける、おそらく割り符のようなもの」

「ええ、預かっています」

「それ、貸してほしいの」

「総督のお部屋に用があるのでしたら、わたしが……」

「いいえ、けっこう。せっかくのお茶が冷めるわよ。自分でいってくるわ」

「そうですか。では少しのあいだだけ、お貸しします」


 疑うことを忘れた秘書官が胸のポケットから取り出したのは、金属と宝石でできた護符だった。紫色の平たい結晶質の石を網の目になった細い金属の筋が覆っている。それは掌よりわずかに小さく、金色の鎖が付いていた。

 クロエは護符を受け取ると応接室を出た。

 暗い廊下を戻る。螺旋階段の下に立ち、角灯を掲げた。目には映らなかったが、あたりに励起したエーテルが籠もっているのを感じる。肌のひりつきがそれを証明していた。ゲルヴァークーヘンの精製所があるせいで、強制収容所の周辺ではいつもエーテルが濃い。噴火口のファウンテンヘッドから生のエーテルを引き込み、凝縮する際に余剰の分が漏れ出るのだ。エーテルに耐性のない者ならば体調を崩す場合もある。

 この先、ランガーの仕掛けたどんな罠が待ち受けているかわからなかった。ルーン文字の地雷、侵入者が精神崩壊するほどの強力な幻影、あるいは物理的な仕掛けの致命的な罠。だが、秘書官の護符があれば無事に通り抜けられるはずだ。クロエはそう踏んだ。彼はランガーの部屋へ訪れる機会が多い。そのためにいちいち罠の解除をしているのではないだろう。

 階段の踏板へ足を乗せる。角灯を持った反対の手にある護符を見たが、特に変化はない。一歩一歩を慎重に進める。なにも起こらなかった。二階にあるランガーの私室は重厚な銘木材の扉で閉ざされていた。それを開けた。地味で退嬰的な作りの広い部屋。足を踏み入れる。すると、クロエはすぐに異変を察知した。

 音がしない。木床を踏んだとき、それに気づいた。この室内には無音の術が展開されている。別名、魔術師殺し。音が響かないのでは、呪文を唱えることができない。念入りなことだ。ランガーは出掛ける前に、自室を聖域に変えていったようだ。

 クロエは戸口で立ちすくみ、ひとしきり部屋を見渡した。室内装飾には別段、費用をかけていないようだった。書棚、執務卓、間仕切り、暖炉。天井まである高さの書棚には、何十巻にもおよぶ術法典やマグナスレーベン帝国の歴史書が詰め込まれ、クロエの興味をそそる本は一冊もなかった。カーテンを開け放した掃き出し窓のそばに紺色の大きな鉢。陰生植物が変わった形の大きな葉を広げていた。室のいちばん奥にある執務卓には燭台、インク壺、鵝ペン、蝋封のスタンプ、ワックススプーン、あれやこれやの書類。暖炉では熾火が燻っている。その部屋で息を吸うと麝香のような匂いが鼻をついた。

 特におかしい箇所はない。が、クロエは慎重を期した。彼女は携えた角灯を床に置くと、自分の頭部を覆っているケープのフードにそっと指で触れた。この黒頭巾はクロエのお気に入りで、魔術探知の呪文が付与してある。詠唱は必要ない。もし魔術が作用しているところがあれば、視覚的にそれを把握することが可能である。エーテルの消費されている部分が輝く靄となって視界に現れるはずだ。

 数舜後、クロエは喉を鳴らして笑った。

 部屋のなか全体が、黄緑色に輝く靄をまとっていた。魔術で保護することで外からの透視を防ぎ、内から見たときも幻影により室内の見た目をまるっきり変えているのだ。おそらくは、見られたくないものに透明化を施してあるとも考えられた。術を無効とする解呪の手段があれば申し分ないが、その場合、ランガーの術者としての手腕を上回る必要がある。クロエが求める裏帳簿とゲルヴァークーヘンの顧客リストを見つけ出すには、骨が折れそうだ。

 大きく深呼吸してから、腰に両手をあてたクロエはうんざりした顔になった。


「さてと、どこから手を着けよう……」


 無音状態の室内では、そのクロエ自身のつぶやきも耳に届かない。よって部屋の天井に渡された太い梁の上にいる、巨大なヤスデのような虫が立てるカチカチいう音も、彼女には聞こえなかった。

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