ノアが虜囚となって最初の

 ノアが虜囚となって最初の夜が明けた。

 イシュラーバードは春でもおそろしく冷え込む。ランガー総督とクロエに会ったのち、不潔な薄い毛布を一枚だけ与えられて独房に放り込まれたノアは、寒さでほとんど眠ることができなかった。

 起きているのか眠っているのか自分でもわからない状態のまま、気がつくと朝を迎えていた。狭苦しい独房の外から物音が聞こえる。そのせいで目覚めたのだろう。冷たい石床に敷いた筵の上で寝ていたノアは首を少し持ちあげ、通路と独房内を隔てる鉄格子の扉を見やる。耳を澄ませると、足音。小さな木の扉を開け閉めするような音。どこか遠くで誰かが咳をしている。

 独房は通路側に鉄格子の扉がひとつあるだけで、四方を壁で囲われていた。窓はなかった。しかし通路の壁面には等間隔で小さな窓が並んでいる。ノアは寝床から起きあがって鉄格子の扉まで歩いた。すると右手のほうから足音が近づいてきて、高齢の牢番らしき者が現れた。窓を閉ざす鎧戸を順に開けて回っているようだ。彼が鎧戸の掛け金を外してそれを開けると、朝の光が射し込み通路がぱっと明るくなる。牢番はつぎの窓へ向けて歩み去る間際、ノアにちらりと一瞥をくれたが、言葉はかけてこなかった。

 つづいて姿を見せたのは、汚れたエプロンをつけた料理人風の男と囚人のふたり組だった。囚人のほうはノアと同じくぼろぼろのセーターとリネン生地のズボンという姿。強制収容所では、それに革のサンダルを組み合わせたものが囚人に定められた服装らしかった。

 ふたりはノアが入っている房の前で足を止めた。


「あら、あなた新入りね」


 大きな寸胴鍋を両手で抱える囚人のほうが、鉄格子を越して話しかけてきた。が、ノアは黙ったまま応えずに、油断のない目を向ける。


「まあ、こわい」

「ロベルト、無駄口をたたくな」


 言って、エプロンの男が持っていたスープレードルでロベルトと呼んだ男の尻をひっぱたく。


「いやん!」


 ロベルトは気色の悪い声をあげて身をよじった。


「椀を出せ」


 エプロンの男がノアの独房を覗き込み、そこの床に転がっている器を顎でしゃくった。ノアは言われた通りに、縁が欠けた陶製の椀を拾いあげ、鉄格子の隙間から差し出す。男はロベルトの持っている鍋から水っぽいスープをすくい、椀へぞんざいに注ぎ入れた。少しこぼれてノアの指にかかったが、熱くはなかった。つぎに男は自分が携える大きな袋からパンを取り出して、独房のなかへ放り投げる。これがふたりの役割のようだ。終わると彼らは隣の房へ向かった。

 くず野菜が入った冷めたスープに、イシュラーバードでも口にした平たいパン。朝食はそれだけだった。どちらも量は少ない。

 貧相な飯だったが、空腹のノアはとりあえずひと心地ついた。そうして彼はあらためて独房内を調べはじめる。昨夜は暗くてよく見えなかったのだ。寝床となる筵と糞尿を溜める桶以外、調度がなにもない窮屈な空間だ。水で練った土が塗られた壁はところどころで剥げ、下地の煉瓦が見えていた。唯一の出入口となる鉄格子の扉は作りが雑だが頑丈である。当然、鍵がかけられている。

 なにか道具がなければ、到底ここからの脱出は不可能に思えた。そうして朝の配膳が終わってしばらくのあと、ふたたび外の通路に人の気配がした。

 今度は大勢の足音だ。やがて牢番や配膳係とはあきらかに異なる、いかにも刑吏といった感じの職員が、囚人の列を引き連れてノアの独房までやってきた。

 鉄格子の扉が開けられ、外に出るよう命じられる。ノアはおとなしく従った。通路では十数名の囚人が一列に並んでいる。いずれもが木製の手枷をはめられ、腰を長い縄で括られてひとつづきにされていた。ノアは最後尾に回され、そこで同じように囚人の列に加わった。

 就労の時間なのだろう。刑吏に誘導され、囚人たちはぞろぞろと百足のようになって進んだ。階段を降り、屋外へ出る。朝陽が眩しい。目を細めたノアが振り返ると、背後には三階建ての大きな建物。それでさっきまで自分がいたのが収容所の主棟だとわかった。

 強制収容所の出入口となる西側へ向かっている途中、ひとりの囚人──配膳の助手をしていたロベルトという男──を連れた刑吏がノアのところまでやってきた。手枷と縄が解かれる。そしてロベルトとなにか短く話したあと、刑吏はふたりをその場に残した。

 ほかの囚人たちが去ってゆくのを目にしながら、ノアは一抹の心細さを感じる。そんな彼へ、ロベルトが気安く話しかけてきた。


「あたし、ロベルトよ」


 ロベルトは痩せぎすで、色白の中性的な男だった。


「ノアだ」

「へえ、かわいい名前ね──」


 とロベルト。


「あなた、帝国人じゃないわね。どうしてここへ送られたの」

「そっちは」

「ちょっとお、あたしが先に訊いたのよ」


 ロベルトはぷうっと頬を膨らませて、拗ねたような顔をする。やけに艶めかしい目でノアのことを見てくる彼は、男色の気があるのにちがいない。

 なれなれしい態度にノアは辟易した。


「きっと誤解だろう。おれはなにもやってない」

「あら~ん、みんなそう言うのよねえ。この強制収容所にいるのは重犯罪者ばっかりよ。政治犯とか強姦魔、凶悪殺人鬼。どいつもこいつも精神異常者よ。いやだいやだ」


 おまえもそのうちのひとりだろう、という言葉が喉まで出かかったが、ノアはこらえた。そして、


「これからなにをするんだ」

「ああ、そうだった。新入りちゃんには特別な仕事があるのよ。あたしが面倒を見るように言われたから、手取り足取り教えてあげる。ついてらっしゃいな」

「ふたりだけで? 見張りはいないのか」

「なあに、逃げ出すチャンスだとでも?」


 肯くノア。するとロベルトはあきれた笑みを顔に浮かべた。


「ワイバーンの餌になりたいのなら、おひとりでどうぞ。あたしはいやよ」


 ノアはロベルトの言葉を聞いて鼻を鳴らした。この強制収容所ではただひとつの正門を警備隊が固めている。かといって高い外壁は乗り越えられない。仮に敷地外へ出られたとしても、付近の荒れ地は岩場だし崖などを避けるとなれば逃走路は限定される。逃亡に気づかれて空からワイバーンに襲われれば、ひとたまりもない。

 つまりここは、囚人を留め置くのに理想的な立地なのだ。無計画な脱走はあきらめざるをえなかった。

 そうしてふたりは仕事にかかった。ロベルトはノアを連れて、主棟の横手から裏へ回った。すると裏口のそばの陽が当たらない地面に、いくつか籐籠が並べてある。籠にはどれも汚れた衣服が山となっていた。

 汚れ物の洗濯。それがノアたちに課せられた仕事だった。籠を携えたノアはロベルトによって収容所の敷地内にある水場へと案内された。水場には井戸が掘られ、水を溜めて洗濯する大きな槽も設けられている。そこで洗濯液を使い、洗濯用の岩に汚れ物を叩きつけたり足で踏んだりするのだ。

 ノアは強制収容所での労働がもっと過酷なものだと想像していた。まさか、こんなところで洗濯をやらされるとは。だが実際に手をつけてみると、ノアの認識は甘かったのである。ここでの洗濯は重労働だ。なんといっても洗う量が多い。それに井戸の水はひどく冷たかった。浸した手足がかじかみ、すぐに感覚がなくなった。一方のロベルトは、役割分担だといって洗い終わったものを干したり、主棟の裏から新しい籠を運んでくる楽な役に徹した。たまに刑吏が様子を見にきて、汚れが落ちていないと難癖をつけられてはノアのほうだけ鞭で容赦なく打たれた。ロベルトはそれをにやにやしながら眺めた。最初は割と気のいい奴かと思ったが、どうやら彼は権力者に取り入るのがうまい陰険な男のようだ。

 洗濯に明け暮れて一日が終わった。ふたたびノアは独房へ戻され、そこで疲れきった身体を休めた。夕食は朝と同じものが出てきた。昼はなにも食べさせられていない。鉱山での仕事に従事しない者は、一日二食だという理由で。

 できるだけ早く、ここから抜け出す方法を考える必要があった。肉体的にも厳しいが、まともに人間扱いされないのではそのうち精神がまいってしまう。

 だが、今日は疲れた。ノアはまっ暗な独房のなかで震えながら眠りに落ちた。


 深夜──


 鍵が開けられる音で目覚めた。ノアが瞼を開けると、房の外で角灯の黄色い燭光が暗闇を押しのけていた。その光のなかには数人の男たちが立っている。

 牢番の巡回警備ではなさそうだ。蝶番が軋み、鉄格子の扉が開く。


「起きろ。出るんだ」


 帝国訛りの標準語でそう告げられた。昨晩の拷問のことが思い出され、不安に駆られるノア。


「なんだ、こんな時間に……」

「黙れ。ここではおまえになんの権利もないんだ」


 そう言って独房に踏み込んできたのは、刑吏ではなく黒い制服の警備隊員だ。ノアの髪を摑み、無理矢理に立たせる。しかしそれを見たもうひとりが、


「おい、痛めつけるなよ。おれはこいつに賭けてるんだ」


 賭けだと。なんのことだろうか。ノアにはわけがわからない。

 手枷をはめられたノアは三人に前後から挟まれ、いずこかへ連行される。朝と同じく主棟の正面口から外へ出た。星空の下では、吐く息が白くなるほど冷え込んでいる。暗くて周囲の様子はほとんど見えなかったものの、中央の広場を横切り南側へ向かっているようだ。

 四人は厩舎の隣にある石造りの建物のところまで歩いた。やたら大きな両開きの扉を抜け、なかへ入る。

 異臭。ノアは最初にそれを感じた。強烈な獣の匂い。篝火が置かれ、壁に何本もの松明が掛けられ明るくされているこの場所は、馬用の厩舎とはちがう。おそらくワイバーン用の獣舎だ。手広さがあり天井が高いのも、図体のでかい飛竜を閉じ込めておくためである。

 舎内は頑丈な鉄格子によってふたつに仕切られており、その一部は上へ跳ねあがる構造となっていた。通常は奥にワイバーンを入れておくのだろう。だがいまは哨戒飛行に出ているのか、その姿はない。ワイバーンの代わりに一〇人足らずの警備隊員と、ひとりのドワーフがうっそりと立っているだけだ。ノアは、そちらへ連れてゆかれた。


「よしそろったな。ウルタン、準備をしろ」


 警備隊員のひとりが言う。そしてドワーフとノアを残すと皆は移動をはじめた。騒々しく言葉を交わし、笑い合っている。どこかで誰かが操作したのだろう、まもなく歯車が軋む音が鳴って、跳ねあがっていた鉄格子が降ろされる。ノアとドワーフはなかに閉じ込められた。


「あいつら、特等席で浮かれてやがる」


 ノアの近くにいるドワーフが言った。

 ずんぐりとした四角い体型の亜人種。ノアと同じくセーターとすりきれたズボンを履いている。頭にはお決まりのように鉄兜。髭面で、顔には鑿で削ったようなしわが深く刻まれていた。

 いやな予感がノアの脳裏をよぎった。たしかここへくる前、独房を出るときに警備隊員のひとりが自分に賭けたと言っていた。まさか、このドワーフと決闘でもやらされるんじゃあるまいな。というのも、それを想起させるように、ふたりのすぐ近くにはさまざまな武器を立てかけた架台が置いてあるのだ。


「なにがはじまる?」


 ノアが訊いた。


「なんだおまえ、知らずにここへきたのか」

「ああ」


 すると、ドワーフは鉄格子の向こうにいる警備隊員たちへ憎々しげな視線を送り、


「いかれた連中だ。こうやって囚人と野獣を戦わせて、賭けをやってるのさ。どっちが生き残るかってな」

「野獣だと?」

「ほら、あそこに檻があるだろう。もうすぐあそこから出てくる。むざむざ死にたくなかったら、おまえもはやく武器を取れ」


 ノアはドワーフが示したほうへと目をやる。獣舎の壁際、鉄格子にぴったりとくっつけるようにして木の檻が置いてある。暗がりで気づかなかったのだ。檻の蓋には縄が結びつけられていて、滑車と繋がったそれを引けば外から開閉できる仕組みだ。そこだけ鉄格子に切れ目があり、通常は檻に入れた生き餌をワイバーンへ与えるときに使うのだろう。ワイバーンは牛や馬などであれば、一頭まるごとをたいらげる。だが、いま闇に沈んだ檻のなかで蠢いているのがなんなのかは、ノアのところからは見えなかった。

 ドワーフは武器の架台から戦槌とモーニングスター──棘の生えた鉄球と柄を鎖で繋いだ武器──を選んだ。どちらも重量がありそうだが彼はそれぞれを左右の手に持った。


「わしのほうは勝手にやる。初対面の相手は信用できんからな」

「それでいい」


 とノア。じたばたしてもはじまらない。彼はドワーフが戦いの手練れであることを願った。もしそうであれば、自分の生き残る可能性も高くなる。

 架台にはまだたくさんの武器が残っている。しかし、状態がひどかった。錆だらけの長剣、刃が欠けた手斧──どれもがらくたに近い。やや迷ったあげく、ノアは手槍を選択した。長さは自分の身長と同じくらいだ。穂先には錆びが浮いてたが、突くのが目的の槍ならば十分に使い物になる。堅木の柄もしっかりしていた。なにより槍はリーチがあり、それにより有利を得られる。

 ふたりの準備が整ったのを見た警備隊員が、檻を開けろと声を張りあげた。檻の蓋に結びつけた縄が引かれ、なかにいた獣たちが解き放たれる。

 暗がりから足音が聞こえる。複数だ。やがて、ドワーフの言っていた野獣というのが、その姿を明るい場所に晒した。


「ハイランドオオカミだ。あの白い奴には気をつけろ。もう仲間が何人もやられてる」


 言って、ドワーフが武器を構える。

 ワイバーンの塒となる場所はおよそ一〇メートル四方といったところ。その即席の闘技場で、ノアとドワーフは四匹のハイランドオオカミと対峙した。黒っぽい体毛のオオカミはいずれも普通の体格である。しかしドワーフが注意を促した白い個体は、通常のオオカミではなかった。でかいのだ。ほかのものより一・五倍は大きい。ダイアウルフの血が混ざっているのかもしれない。あれがリーダー格にちがいない。ほかのオオカミが落ち着きなく動き回るのに対して、白い奴だけは片隅で彫像のようにじっとして、ノアたちの様子を窺っている。

 互いに攻めあぐねる均衡状態。それに、血を求めて集まった観客たちが焦れてきた。


「おいウルタン、びびってるのか」

「うるせえ!」


 警備隊員から野次をとばされ、ドワーフが怒鳴る。それが戦いの合図となった。

 一匹のオオカミが弾かれたように動くと、触発されたほかの二匹もいっせいに襲いかかってきた。乱戦だ。こうなれば流動的に対応するしかない。

 ノアは自分に向かってくるオオカミを見定め、槍を構えた。左足を前にして、槍を抱えるように力を溜める。野生のオオカミとならば、遍歴で大陸の南西をさまよっていたころに何度かやりあったことがある。群で狩りをするため厄介な獣だが、いまはさほど数での劣勢はない。発達した犬歯を剥き出しにし、自分へ飛びかかってきたオオカミへ向けて、ノアは冷静に槍を繰り出した。

 槍を突くときには柄を捻るのがコツだ。そうすれば刺し傷だけでなく体内をえぐり、より大きなダメージを与えることができる。が、寒さで身体が思ったように動かなかったか、それとも昼間の労働で疲れていたのか。ノアの一撃はわずかに狙いから逸れた。咄嗟に槍の行く先を修正し、そのまま腕が伸びきるまで攻撃を繰り出す。

 槍の穂先はオオカミの口の端をかすめ、喉に刺さった。がむしゃらに向かってきた相手の勢いもあって、言葉どおりの串刺しである。

 致命傷であるのはすぐにわかった。首を貫かれ悲痛な断末魔をあげたオオカミは、やがて全身を弛緩させ動かなくなる。

 ノアはすぐに槍を引き抜き、ドワーフのほうへと目を移す。すると彼のほうも一匹を仕留めるところだった。見た目にも凶悪なモーニングスターが振りおろされると、鉄球によりオオカミの頭部がカボチャかなにかのようにぐしゃりと潰れた。

 あと二匹。これで数では対等になった。仲間があっけなくやられたのを前にし、残った黒いオオカミはあきらかに動揺を見せていた。獣にも恐怖心はある。いやむしろ野生動物のほうが己の命の危険には敏感といえる。ノアとドワーフを見比べて、かなわぬ相手と悟ったのか、文字通り尻尾を巻いて白いオオカミのところへ駆け戻ってゆく。

 そこで思わぬことが起こった。自分のそばまでやってきたオオカミの喉に、白い奴が噛みついたのだ。その脛骨の折れる音は、少し離れたふたりの耳にまで届いた。

 白い奴が振り子のように首を動かして、くわえていたオオカミの死骸をごみのように打ち捨てた。まるで弱いものには価値がないというふうに。

 顔を見合わせるノアとドワーフ。これは一筋縄ではゆかない相手のようだ。

 ふたりは目で示し合わせ、左右から白いオオカミを挟み撃ちにする布陣となった。数で勝る強みだ。じりじりと迫る敵に、白いオオカミは前肢を折って迎撃の姿勢を見せる。身を屈めて牙を剥き、威圧してくる。オオカミの低いうなり声に、ドワーフがモーニングスターの鉄球を振り回す耳障りな金属音が重なる。その一定のリズムが刻まれるにつれ、場では緊迫の度合いが増してゆくようだった。

 いつまでつづくかと思われた睨み合いは突然に終わりを告げた。白いオオカミがノアへ向けて駆け出した。しかしそれは威嚇だ。すぐに身をひるがえすと、オオカミはすばやい動きでドワーフのほうを狙った。ドワーフが正面を薙ぐようにモーニングスターを繰り出す。そのとき不運が彼を見舞った。錆びた鎖がちぎれ、鉄球があらぬほうへ飛んでいってしまったのだ。一瞬あわてたドワーフは、すぐさま左手の戦槌を振りあげる。が、間に合わなかった。隙を衝かれ、白いオオカミが強靱な顎でドワーフの頭にかじりついた。

 鉄兜がなければ即死だったろう。ドワーフは両手の武器を捨てると白いオオカミの顔を素手で殴り、なんとか引き剥がそうとする。そこへノアが駆け寄り横手から加勢する。

 近くで見ると、白いオオカミはあらためて巨大に思えた。だが生き物であることに変わりはない。槍を手にしたノアが狙うのは、そいつの急所。内臓だ。できれば心臓が望ましいが、肺を貫いても致命傷を負わせられる。腹のやや前寄り。ノアはそこへ向かって槍を突き刺した。

 ところが白いオオカミはノアの攻撃をものともせず、前肢でドワーフを押さえつけると、首を激しく振ってその頭を食いちぎろうとしはじめる。ノアはいったん槍を抜いた。すると手負いとなったオオカミは顎を緩め、今度は自分を傷つけたノアへと矛先を変える。しかしドワーフがそうはさせまいとオオカミを阻む。首回りの毛皮をしっかりと握りしめ、放そうとしない。


「わしが抑える! はやくとどめを刺せ、ニンゲン!」

「いまやってる!」


 と必死にノア。彼は白いオオカミの横腹をもういちど突いた。えぐり、さらに体重をかけて槍を押し込む。うまくあばら骨を避けた穂先が反対側から顔を出した。鮮血が滲み出て、白い毛皮が赤く染まる。

 白いオオカミがまたしてもドワーフの頭部に噛みついた。鉄兜が牙と擦れ、がりがりいう音が鳴る。しかし、そこまでだった。

 失血か、肺が自分の血で満たされて溺れたのか。オオカミの巨体がぐらりと揺らいだ。そのまま横へ斃れる。あやういところでドワーフは命を拾った。

 鉄格子の向こうから歓声と落胆の声があがる。賭けに勝った者と、負けた者。

 ノアは地面に座り込んでぐったりしているドワーフに手を差し出した。白いオオカミに噛まれた彼の鉄兜は、ひしゃげていびつに変形している。それでもまだ生きているのだ。もしやドワーフの頭蓋骨は、その鉄兜より硬いのではないかとノアは思った。


「クーデル神とおまえに感謝だ。名前はなんという?」


 と、ノアに手を借りて立ちあがりながらドワーフ。


「ノア。あんたは?」

「ウルタンだ」


 どこかで聞いた名だった。ほどなくしてノアは思い出す。

 イシュラーバードにいた女ドワーフのササラが捜している父親──たしか、そいつの名前がウルタンだった。

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