フランク・クリスピンは

 フランク・クリスピンは筋金入りの貴族主義者だった。大陸の東にあった小国から、内乱の戦火を逃れて神聖王国オーリアへ移り住んだ彼は、そのときなにも持っていなかった。しかし功利的に世の中を見るという才覚を活かし、やがてオーリアの僻地に没落した貴族からわずかな遺領を引き継いだ。その後クリスピン家は、ほかの貴族のように国の中枢であるオンウェル神殿の神官たちに取り入ることをせず、他国との通商によって大きく栄えた。

 神隷騎士団を率いるマントバーンから政権転覆の計画を聞かされたとき、フランク・クリスピンはすぐに賛同した。宗教国家だったオーリアを支配する聖職者たちは堕落を極めていたし、緩やかな亡国の気配が肌で感じられたからだ。そもそもオンウェル神殿の狂信者どもに封建制を取り回せるはずがないというのが、彼の定見だった。

 オーリア王国で新政権が樹立したあと、フランク・クリスピンは一〇人委員会への参加を求められたが、謹んで辞退した。自らの領地にとどまり責務を全うするというのを名目として。だがその実、彼は自分の息がかかった傀儡を国王の諮問機関へ送り込み、後ろ盾となって議会に影響を与えていた。オーリアには、いまだ旧体制を支持する危険な過激派が少なからずいるのだ。あまり目立ってそれらの反感を買うのは、現時点では賢いやり方でなかった。

 クリスピン家が本格的にオーリアのはらわたへ食い込むのは、いずれ長男のウィリアムが担うだろう。実際、ウィリアム・クリスピンはオーリア国王騎士団でその地盤を固めつつあった。簒奪者のマントバーンは王座に就いたあと、特権をばらまいて臣下を手懐けている。国王騎士団は彼の麾下にあった。したがってウィリアムが騎士団で地位を確保すれば、のちのさらなる出世も堅い。その際には父親譲りの機略に富んだところが、大いに役立つにちがいなかった。

 しかしウィリアム・クリスピン自身は貪欲な野心を持たず、どちらかといえば俗に染まった人物である。その最たる例として、彼は女癖が悪い。非常に。ラクスフェルドの有閑夫人たちのあいだでは、床上手な間男として名を馳せるほどなのだった。


「あなたのお友達、ほら騎士団の、なんというお名前だったかしら──」


 鏡台の前に座り、鳶色の長い髪を梳る女が言った。

 昼下がりの情事を終え、素裸のまま寝台でぼんやりと寝そべっていたクリスピンは、自分の母親ほどの年齢と思える女へちらりと目をやった。


「レナード?」

「ちがう。たしか、この前まで遍歴に出ていた騎士よ」

「ノア・デイモンですか」

「ああそう、それよ」


 いきなり出てきたノアの話題に、思わずクリスピンは半身を起こした。


「彼がなにか?」

「なにって、べつに。国軍のハートレイ将軍をご存知でしょう? 昨夜うちにいらっしゃって、主人となにか話し込んでいたのよ。そのときに名前を聞いた気がしたから、ちょっと思い出しただけ」


 クリスピンの火遊びの相手は多岐に渡り、関係を持つ理由も様々だ。快楽に溺れたがる性欲亢進症、浮気している主人への面当て、または単なる暇つぶし。本日の逢瀬は、オーリア王国の魔術院に務めている官吏の細君とだった。


「将軍はなんとおっしゃっていました?」


 乱れたシーツの上で頬杖をつくクリスピンは、あえて平静を装い訊いた。


「さあ、詳しくはわからない。ハイランドがどうとか、デイモンがしくじったとか、そんな感じだったわね」


 鏡台から離れた夫人が床に落ちていた自分のドレスを拾おうと身を屈めた。前を開いた化粧着のせいで、重そうに垂れた大きな乳房が揺れるのが丸見えだ。彼女はドレスについた埃を手で払いながら、


「そのデイモンという人、いまは騎士団でなにをしているの?」

「……ええ、任務で国外へ出ているはずです」


 束の間、考えをめぐらせていたクリスピンがあわてて答える。


「そうなの。大変ね」


 そうだ、大変だ。クリスピンは自分も床に散らばった衣服をかき集めると、他人の邸宅の寝室から姿を消した。

 ラクスフェルドの新市街にある富裕層向け住宅街をあとにして、ブルーモス要塞へと歩きながら、クリスピンは思案に暮れた。先ほどの夫人の話からすれば、ノアの身になにかが起こったのはまちがいなかった。しかし彼の安否についてハートレイ将軍に訊ねても取り合ってもらえまい。では魔術院で要職に就いている夫人の亭主と会うか。いや、冗談じゃない。それはいろいろと危険だ。

 ひとまずグリムに探りを入れてみようとクリスピンは思った。自分とノアが属している国王騎士団の団長ならば、なにか知っているかもしれない。

 国王騎士団の駐屯所がまだ完成していないため、団の施設は当座のところブルーモス要塞の一部を間借りしてしのいでいた。グリムの私室も要塞内にある。クリスピンはそこへ足を運び、団長を直に問いただした。


「わたしはなにも知らんぞ」


 グリムは言下にそう答えた。さらに彼は、


「ノアは罷免されたのだ。奴はもう国王騎士ではない」

「不可解な処遇だと思われます。ノアがなにをしたというのです?」

「もともとあいつは国を追われた身だ。軍もそこへ目をつけて駆り出したのだろうが、あの任務と騎士団は無関係だ」


 うそをつけ。日和見め。部下を顧みぬグリムの態度をクリスピンは心中で蔑んだ。所詮、グリムはマントバーンの腰巾着だったおかげでいまの地位を手に入れた小物だ。


「ではノアのことは、このまま打ち捨てると?」

「たしかにハイランドへ渡ったノアと連絡が途絶えたとは、わたしの耳にも届いている」

「ならば救出に向かうのが筋ではないですか」

「ばかを申すな。陛下よりの御沙汰がなければ、騎士団は動かせん」

「いやしかし、我ら騎士がここで手をこまねけば、仲間を見捨てた腰抜けとして周囲より軽んじられる。そうなったら団の面目、ひいてはあなたの沽券に関わりますぞ。おわかりにならないか」

「口が過ぎるぞ、ウィリアム! ならばどうせよというのだ。おまえが彼の地へ赴いてノアを捜すとでも?」


 押し問答をつづける気はなかった。クリスピンは辞する断りもなく、とっととグリムの私室を去った。

 ハイランドか。たしかあそこにはマグナスレーベン帝国の租借地があるのだ。ノアがそこへ向かったとなれば、控え目に考えて帝国に捕らえられた公算が大きい。そして、いまの状況では救出が絶望。彼は最初から使い捨てだったのだろう。

 最悪の事態だ。こうなったら道はひとつしかない。

 クリスピンは自身の地位を捨ててでもノアを助けるつもりだった。遊び人風情の騎士が、友愛に目覚めて独断専行とは。我ながら、らしくないとは思う。だが騎士の暮らしなど案外とつまらないものだった。いまさらそれに未練はない。

 なまじ考える頭があるからグリムのように保身へと走るのかもしれない。クリスピンは直情的なノアがうらやましかった。冷めた目をしながら、胸に情熱を秘めた男。あいつはばかだが、いつでも自分に忠実だった。従騎士のころから競い合ってきた友だ。もしノアがいなくなれば、きっと今後の人生は味気ないものになってしまうだろう。

 ラクスフェルドの北側は官公庁の建物を集めた行政区画として定められている。ブルーモス要塞を出たクリスピンは、そこにある魔術院の庁舎へと向かった。


「王宮魔術師のゴールデントゥイッグ殿に目通りを願いたい」


 玄関広間でクリスピンを出迎えた職員にそう告げると、相手はやや戸惑った顔をした。

 魔術院に務めている者らはすべて魔術師である。いまクリスピンの前にいる灰色のローブを身にまとった彼も、例に漏れない。


「お約束は?」


 首を横に振るクリスピン。


「それでは無理でございます。ゴールデントゥイッグ様は多忙ゆえ。また日をあらためて──」

「至急の用件なのだ。ヘイル・アインロールのことで話がしたい。そう伝えてくれないか」


 それはクリスピンが持っている、たった一枚の切り札だった。

 ほどなくして、いったん姿を消した下級魔術師が戻ってくる。


「お会いになるそうです。どうぞこちらへ」


 案内されたのは地下にある研究室だった。絨毯の敷かれた廊下を進み、扉を開けると、そこは穴蔵のように薄暗い。飾り気のない室内は意外と広かったが、おびただしい数の実験器具や魔術書の書架によって、場所を大きく取られている。壁の上のほうにいくつか明かり取りの窓があり、床にできた小さな陽だまりのなかで毛足の長い白猫が一匹、微睡んでいた。

 ゴールデントゥイッグらしき姿が室の奥にあった。オーリア王国の王宮魔術師である証の、深い青色のローブに身を包んだ初老の女性。クリスピンは中央にある大きなテーブルと、雑多に物が詰め込まれた背の高い棚との隙間を歩き、そちらへ向かう。


「国王騎士団のウィリアム・クリスピンと申します」

「先方の都合も考えずに来訪とは、無作法ですね」


 壁一面となった書棚の前に立つゴールデントゥイッグは、手にする魔術書に目を落としたままそう言った。

 硬質な女性だ。まるで全身に難物と書き散らしてあるようだとクリスピンは思った。


「おっしゃるとおりです。突然に押しかけて申し訳ございません」

「急な用件ということのようでしたが」

「ハイランドの件です。過日、あなたが受け取ったヘイル・アインロール殿よりの手紙が発端となったゆえ、ご存知かと思いますが」


 時間が惜しい。クリスピンは前置きもなく話を切り出した。

 ゴールデントゥイッグはクリスピンの言葉を聞いても眉ひとつ動かさなかった。彼女は物が散乱するテーブルに歩み寄ると、しばらくその上を探っていたが、まもなく目当ての品を見つけた。


「これのことね」


 差し出された封筒を前に、戸惑うクリスピン。


「見てもよろしいので?」

「おすきにどうぞ」


 拍子抜けだった。いまの騒動を引き起こしたとされる重要な手紙が、こんなにもあっさり手渡されるとは。

 クリスピンは封筒を開けた。中身は文書ではなかった。二枚の図面と、大雑把な手描きの地図だ。図面の片方はエーテル炉の設計図で、クリスピンにはまったく理解できなかった。そしてもう一枚には巨大なゴーレムの構造が詳細に記されている。聖なる復讐者ハイリガーレイヒャー。なにより驚いたのは、およそ二〇メートルに迫ろうかというその大きさだった。ハイリガーレイヒャーには動力源となるエーテル炉を利用した多種の武装も施されており、さながら動く要塞だ。残りの地図には、ハイランドのイシュラーバード近くにあるマッチムト鉱山が示されていた。


「超大型のゴーレム……こんなのもが、ほんとうに動くのですか?」

「その設計図のゴーレムは各部を浮揚の呪文で制御するため、常時大量の魔力を供給する必要がある。問題はそこだけど、ヘイルが考案していたエーテル炉を使えば可能でしょうね。あれは十分な濃化エーテルがあれば、半永久的に魔力を生み出せるから」


 とゴールデントゥイッグ。


「アインロール殿の手紙が、このような内容だったとは……。おそらく地図に示された地点で、エーテル炉とゴーレムは製造されているのでしょう。もしこんなものがハイランドに配備されれば、オーリアは喉元に剣を突きつけられたも同じだ」


 あまりのことに、さすがのクリスピンも事態をのみ込めずにいた。が、それから彼は急に気がついたように、


「実は現在、ハイランドにおける帝国の動静を調査に向かった騎士のひとりが、窮地に陥っております。わたしの友人で、名はノア・デイモン。今日ここへ参ったのは、それについてゴールデントゥイッグ殿にお骨折りを懇願するためです」

「なんのことかしら」


 うろたえるクリスピンと対照的に、ゴールデントゥイッグはいたって冷静だった。


「ノア・デイモンを救出する必要があります。しかし、国王騎士団は及び腰で動く気配がありません。そこであなたに陛下へのお口添えをしていただけないかと」

「それがわたしにとってなんの得になるの」


 ゴールデントゥイッグの突き放すような目がクリスピンへ向けられた。

 鼻白むクリスピン。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

 クリスピンは数枚の図面を封筒に戻すとテーブルにそっと置いた。そして、彼はそれを見つめながら、


「アインロール殿は、あなたの元夫でらしたはずだ。大切な方だったのでは?」

「ずっと以前はね。──その口ぶりでは、わたしたちのことを調べたようね」

「はい。魔術協会に問い合わせて。アインロール殿がお亡くなりになったのは残念です。心中、いかほどかお察しいたします」

「知ったふうに言わないでちょうだい。彼と会ったこともないくせに」

「いえ直接ではありませんが、わたしはアインロール殿と言葉を交わしました」

「どうやって?」


 両の眉を寄せ、疑わしそうに訊ねるゴールデントゥイッグ。


「邪法を使いました。死霊術師にアインロール殿の魂を呼び寄せさせたのです」

「無茶なことを。あなた、もしそれが魔術協会に知れたら、ただじゃすまないわよ」


 ゴールデントゥイッグはそう言って低く笑った。それから彼女はふいに表情を翳らせると、


「で、彼はなんと?」

「帝国へ協力したことを後悔しておいででした。カラソスであなたと過ごした日々は宝物で、片時も忘れたことがないと。そして、許してくれと何度も」

「そう……」


 ゴールデントゥイッグは持っていた魔術書を静かに閉じ、書棚の隙間に押し込んだ。そして壁際に置いてある長椅子まで歩き、そこへ腰をおろした。足下にすり寄ってきた白猫が身軽に跳んで、彼女の膝へ乗った。ゴールデントゥイッグが指先で顎の下をくすぐると、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。

 長椅子に座り背を丸めたゴールデントゥイッグは、そのまましばらく黙り込んだ。部屋の隅に目を向けてはいたが、彼女が見ているのは追憶の風景だった。まだ自分が何者でもなく、限界を知らず、世の中には果てがないと思い込んでいた時代の。


「ヘイルといっしょにいたころは、ふたりともただの地域魔術師だった。貧しくてね。でもたのしかった。夢があったし。別れたのは、あの人がわたしを捨てたからよ。人間とノーム族では時間の流れる速さがちがう。ノーム族の寿命はおよそ四〇〇年。ふたりが知り合ったときは、まだどちらも若かったわ。でも人間のわたしが先に老いさらばえてゆくのを見て、嫌気が差したのね。それから彼は帝国へ身を売った。どうしてもエーテル炉を完成させたかったんでしょう。愚かだわ。その報いがこれよ。利用されたあげく、殺されるなんて」


 アインロールとゴールデントゥイッグが袂を分かったのは、かれこれ二〇年以上も前である。以来、ゴールデントゥイッグのほうはずっと寡婦のままだ。


「アインロール殿は、帝国の手を借りることにあなたを巻き込みたくなかったのでは……」


 とクリスピン。


「かもしれないわね」

「まだ彼を愛してらっしゃる?」

「ヘイルはもうこの世にいないのよ。いまさら──」


 クリスピンの問いかけにゴールデントゥイッグはそう口を濁した。


「なんにせよこうなった以上、帝国の野望を阻むのはアインロール殿の遺志を尊重することとなるでしょう。ノアが帰還してゴーレムに対する情報が得られれば、なんらかの対策も講じられます。どうか、ご助力を願えませんか」


 ゴールデントゥイッグは愛おしそうに白猫の背を撫でるばかりだった。が、やがて、


「わかりました。陛下にはわたしから進言しておきます。しかし、それで大規模な派兵が行われる可能性は薄いでしょうね」

「かまいません。いざとなれば、自分ひとりでもハイランドへ向かいます」

「ノア・デイモンという人は、あなたにとってそれほど大切なのね」

「はい。かけがえのない友です」


 クリスピンは踵を回した。


「お待ちなさい、クリスピン卿──」


 呼び止められ、振り向く。するとクリスピンの目に映ったゴールデントゥイッグは、最初に会ったときとはやや印象が異なって見えた。


「あなたのおかげで、長らくあった胸のつかえがひとつ下りました。ありがとう」

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