塀の上から見た限りでは

 塀の上から見た限りでは歩哨のような者の姿はなかった。地面に降り立ったノアは、監視塔の見張りに気をつけながら、最も近い平屋の建物へと向かった。が、その途中、彼は壁登りの呪文の効果がつづいているときには走れないことに気づいた。

 くそ、いいかんげんにしてくれ。手足が壁にくっつくというのは非常に便利だが、こいつは壁登りをする以外でまったく役に立たない呪文じゃないか。一歩進むごとに地面から足を引き剥がしつつ、ノアはもうこの呪文は金輪際なにがあっても使うのはよそうと心に決めた。

 やっと煙突のある建物の横手まで辿り着いた。ちょうどそのとき、壁登りの効果が失われた。

 ノアは背嚢から取り出したブーツに足を突っ込みながら、念話石でローゼンヴァッフェに呼びかけた。


「おれだ。強制収容所の敷地に入ったぞ」

『やったか。でかしたぞ、デイモン』


 ずっと待っていたのか、ローゼンヴァッフェはすぐに返事をよこした。


「これからなにをすればいい? 指示をくれ」

『待て。その前に、おまえの目を借りる』

「すまん。なんと言った?」

『いいからじっとしていろ。すぐにすむ』


 言われたとおり、ノアはしばらく待った。


『──よし、終わった。いま、おれとおまえの視覚は繋がっている。感覚共有だ』

「つまり、どういうことだ」

『おまえの見ているものが、おれにも見えるということだ。念話石のテレパシー連携を利用すれば、遠く離れていてもこういったことができる。ちょっと試しに周りを見てくれ』


 ノアは北側にある監視塔のひとつへ目をやった。すると、


『物見の櫓か。これだけ離れていれば見つかる心配はあるまい。だが注意しろ。移動の際には、なるべく暗がりをゆくんだ』


 なるほど。たしかにローゼンヴァッフェにもノアが見ているものを確認できるようだ。


「便利なものだな。しかし大丈夫か。念話石をずっと起動していては、充填してあるエーテルが切れるんじゃないのか」


 とノア。


『低レベルの魔術だからエーテルの消費は微々たるものだ。よほど近くに魔術師がいない限り、気取られることもなかろう。さあ、ぐずぐずしている暇はないぞ。ここにはエーテルの精製所があるはずだ。わかるか?』

「精製所……いまおれの目の前にあるのがそれだと思う。煙突がついた大きな建物だった」

『いいぞ。そのなかへ入るんだ。内部の様子が知りたい』

「わかった」


 ノアはいま自分が寄り添っている建物を調べはじめた。彼はその東側にいた。石造りの平屋だが、やけに高さがある。のっぺりした壁に窓はひとつもなかった。ノアから少し離れたところの壁面が窪んでいる。壁際を進み、そこへ静かに近づく。

 出入口を見つけた。鉄製の扉によって閉ざされている。戸枠と扉の隙間から光が細く漏れているところからして、なかには人がいるのだ。耳を澄ませたが、なにも聞こえない。把手に手をかけ力を込めて押すと、重い扉が少し開いた。鍵がかかっていないことに拍子抜けするノア。


「不用心だな」

『外部から人がほとんど入ってこない場所ゆえ、気が緩んでるのかもしれん。こちらにとっては好都合だ』


 とローゼンヴァッフェ。

 建物のなかへ入った。細い廊下。心なしか空気が湿っており、外より暖かい。薬品のような匂いが充満している。

 ノアは薄暗い廊下を進んだ。先にはかなり広い場所があるようだ。が、正面にたくさんの木箱が山と積まれており、それがじゃまで全体は把握できなかった。

 廊下を抜けた。すると頭上にはいくつかの光源。光量からして松明や蝋燭などを燃やしているのではなく、なにか魔術的な方法で明かりを灯しているようだった。ノアは腰を落とした体勢で木箱にぴったりと張り付き、今度はそれに沿って移動した。そして木箱の山の端まできたところで、こっそり陰から顔を出す。

 だだっ広い場所だった。まるで倉庫かなにかのようだ。そこには奇妙なものが鎮座している。表面が滑らかな金属でできた、半球形のなにかだった。大きさはまちまちのものが、全部で三つある。いちばん大きいのはまさに巨大で、建物内の床を半分以上も占めるほどだった。最上部からは直上へ向けて、垂直に太い円管が立っている。まるで漏斗を逆さに置いたようだ。外から見えた煙突はこれだったのだ。さらに横にも似たような円管が接続されており、建物の外へと壁を突き破ってのびていた。ノアは少し前に塀の上から見た、火山の頂上へとつづく長大な導管の連なりを思い出した。

 ほかの小さな半球形の設備──それでも小屋くらいはあった──の近くには、人がいた。異様な恰好をしている。顔と頭全体を覆うマスクを着けているのだ。マスクは口の部分に、鳥のくちばしを思わせる細長く先の尖った突起がある。さらにその者は黒いコートを着込んで全身が黒ずくめなため、なにか人外の怪物のように見えた。

 小さな半球形の設備からは人の目の高さくらいにある弁の部分から時折、白い蒸気が噴き出ている。不気味な恰好をした者は、その状態を調べているらしかった。


「なんだあれは……」


 ノアは自分の理解を超えた巨大な設備を見て、独り言のようにそう漏らした。


『大型の蒸留釜だな。昼夜のべつまくなしで稼働させているのか。ご苦労なことだ。よしデイモン、ここはもういい。奥に地下へ降りる階段があったのに気づいたか? でかい釜のもっと向こうだ。そこへいってくれ』


 が、ノアからの返事はなかった。遠く離れたイシュラーバードにいるローゼンヴァッフェは、怪訝に彼へ呼びかけた。


『どうしたデイモン?』

「気分が悪い……」

『なんだと、大丈夫か』

「どういうことだ……急に、頭痛が……」

『そいつはエーテル酔いだ。いちど外に出ろ』


 ローゼンヴァッフェに促され、ノアはそれに従った。

 廊下を戻り、入ってきた扉を抜けて外へ出る。吐き気に苛まれるノアは胸のあたりを手で押さえつつ、よろめきつつ壁際を進んで地面に片膝をついた。


「くそっ、なんなんだこれは……」

『あのなかではエーテルの濃度が通常の場所よりも濃いんだ。エーテルに耐性のない者ならば仕方がない。いったん、そこでしばらく休め。そうしたら気分もよくなるはずだ』


 不快感に顔をしかめ、目を閉じたノアは、額にじっとりと浮かんだ脂汗を手の甲で拭った。そうして、


「あんた、ここがエーテルの精製所だとなぜ知っていた?」

『なぜって、あの設備を見ればわかるだろう』

「ちがう。うそをつけ。あんたはあそこへ入る前に、ここにはエーテルの精製所があると言ったじゃないか。知ってたなら、イシュラーバードを発つ前になぜおれに話さなかった? なぜ隠していた?」


 長い沈黙。


『……いや、勘違いするな。おまえを騙すつもりじゃなかった。ただ、説明する面倒を省いただけだ』

「本当のことを教えろ。帝国はここでなにをやってる?」


 ふたたび、ローゼンヴァッフェは返答をよこす前に間を置いた。


『わかった、話してやる。ここで行われているのは、濃化エーテルの製造だ』

「なんだそれは」

『火山にあるファウンテンヘッドから採取した生のエーテルを、さらに凝縮して物質化したもの──それが濃化エーテルだ。帝国ではゲルヴァークーヘンと呼んでいるがな。そいつを魔術の触媒として励起させると、少量からでも膨大な魔力が取り出せる。通常の空気中にある薄まったエーテルとは、効率が段違いなんだ』

「危険なものなのか」

『使い方によってはな』

「じゃあオーリアはそれを調べるために、おれをここへよこしたのか」

『だろうな。濃化エーテルの精製技術は、まだオーリアにはないものだ』


 そうだったのか。しかし、真相がわかってもノアにはどうでもいいことだった。濃化エーテルというものにどれだけ価値があろうが、自分の命を捧げるほどであるはずがない。


『おい、気分はどうだ。エーテル酔いは収まったか』


 とローゼンヴァッフェ。


「ああ。いくらかはな」


 言って、ノアは壁に片手をついて身体を支えながら立ちあがった。冷たい夜気のなかで、何度か深呼吸をする。もう頭痛と吐き気は、ほぼ治まっていた。


『よし、ならもういちどだ。今度は──』

「ふざけるな。もう役目は果たしたろう。おれはイシュラーバードへ帰るぞ」

『だめだ、ゆくんだデイモン! まだあそこにある肝心なものを確認していない!』


 すぐさまローゼンヴァッフェの怒気をはらんだテレパシーが、ノアの頭のなかへ飛び込んできた。ローゼンヴァッフェはさらに、


『思い出せよ。ラクスフェルドにいる家族のことを。それに、このまま何事もなく帰れると思っているのか。よく聞け、デイモン。すべて終わったあと、オーリアの連中はおまえを殺す気だ。逃げたとしても一生、つけ狙われるぞ。残りの生涯を怯えながら暮らすことになる。だが、そうはさせん。ここの情報を交渉材料として、おれがあいつらに話をつけてやる。親父さんのことも含めてな。おまえが助かる道はそれしかない、おれを信じろ』


 それは暗闇に迷い込んだノアにとって一縷の光明のように思えた。とはいえ弱い立場の者に差しのべられる救いの手が、いつも慈悲に満ちているとは限らない。

 もう誰も信用できなかった。ローゼンヴァッフェもこちらを利用しようとしている。ノアにはわかっていた。わかってはいたが、いまの彼にはほかに方法がなかった。


「だが、あのなかへ戻るのはごめんだ……」

『いや、そうじゃない。ここには地下にもまだ設備があるようだ。さっき降り口を見た。きっとこの周辺に、通気孔があるはずだ。地下室には新鮮な空気の取入れ口が必要だからな。そいつを探してくれ』


 ノアは心のなかで毒づきながら、ふらふらと歩きはじめる。彼はまず建物の北側へ回った。そちらには精錬所の巨大な半球形の設備へと繋がる導管が横たわっていた。太さがひと抱え以上もある陶製の大きな導管だ。火山の噴火口までのびるそれが、ファウンテンヘッドから純度の高いエーテルをここへ引き込んでいるのだった。

 ふと、視界の隅でなにかがノアの気を引いた。

 地面に置かれている太い導管の陰。鉄格子だ。夜目の効果がなければ見逃していただろう。ノアが近寄って調べると、それは竪穴の上に無造作に置かれた格子戸だった。どこかの窓枠から外してきたものかもしれない。全体が錆びており、片側に蝶番がついていた。その下にはぽっかりと口を開けた穴があり、差し渡しはノアでもなんとか通れそうなほどだった。


『おそらくそれだ。よし、降りてみてくれ』


 とローゼンヴァッフェ。

 ノアは転落防止に使っていると思われる格子戸を手で移動させ、竪穴を覗き込んだ。穴は垂直ではないが、ほとんどそれに近い。しかし数メートル下で急に曲がっているようだ。


「この下に、いったいなにがあるんだ」

『どえらいものだ。おまえも見てみたいだろう?』

「おれはいますぐにでも帰りたい気分だが」

『そう言うな。先にあるものを確認すれば、おれたちの任務は完了となる』


 任務は完了か。言うのは簡単だ。

 不服ながらノアは穴へと入った。穴の内壁に両の手足を突っ張らせ、慎重に降りる。なかは暗かったが、夜目の効果がまだつづいている。最初の竪穴部分を過ぎると、あとは水平となった。そこからはしゃがみ込んで背を丸めて、カニのように横歩きで進んだ。しかし、狭い。きっとこの穴はドワーフが掘ったのだとノアは思った。

 出口は遠くなかった。横穴は真っ直ぐで、一〇メートルもいかない先に光が見える。ノアはまもなくもせずそこへ辿り着く。そして穴の縁から外を覗き込んだ彼は、声もなく息をのんだ。

 とてつもなく広い空間である。ローゼンヴァッフェは地下室といっていたが、ここは地下空洞と表現したほうがしっくりくる。天然自然のものではあるまい。高さは二〇メートルを優に超える。全体の広さは地上にある収容所の主棟がすっぽり収まるほどだ。用途不明の大きな石材が、いたるところで放置してある。それに数人の石工らしきドワーフ族が取りついて、なんらかの作業を行っていた。これだけの空間を地下で確保するため、どれだけの時間と労力をかけたのやら。

 いったいここはなにをする場所なのか、ノアにはわかりかねた。彼がいまいるのは、地下空洞のかなり上部に開いた穴のなかだった。下を見おろすと、うっすら恐怖を感じる。落ちれば命はあるまい。天井が近く、そこここで上で見た作業場と同じく、魔術を用いた照明が点いている。


『デイモン、あったぞ! 中央の大きな筒を見ろ!』


 ローゼンヴァッフェが興奮して言うそれは、いやでも目についた。人の背丈よりはるかに大きな円筒形の容器。ばかでかい寸胴鍋のようだ。質感からして金属製だろう。周りには足場が組まれ、そこにも何人か作業中の者がいた。


『しばらくそのままでいろ。もっとよく見たい』


 ノアはローゼンヴァッフェに指示され、円筒形をしたものに視線を据えた。感覚共有でノアと同じ光景を見ているローゼンヴァッフェはそのあいだ、興味津々の様子でなにかぼそぼそと呟いている。


『エーテル炉だ……ゲルヴァークーヘンをあれの燃料にすれば、相当な魔力を生み出すことができるぞ。さすがマグナスレーベンだな。最新技術の研究に関しては、どこにも引けを取らない。もうほぼ完成しているじゃないか、これならハイリガーレイヒャーも……』

「もういいだろう。上に戻るぞ」


 焦れたノアが言う。


『待て。ほかの場所も見てくれ。なにか気になるものはないか』


 かまわず横穴を引き返そうとしたノアは舌打ちする。彼は最後にもういちどだけ、ローゼンヴァッフェに従ってやった。

 乱雑とした地下空洞内に視線をさ迷わせる。するとエーテル炉の向こうで、二本の柱が並んで立っているのが見えた。それぞれ別々な台座の上に据えられた柱は七、八メートルほどしかなく、この空洞の天井を支える目的で置かれているのでもなさそうだった。


「やけにでかい石の柱があるな。どうしてこんなところに」

『石の柱? ──ははっ』


 ローゼンヴァッフェは、さもおかしそうに笑った。


「なにがおかしい?」

『いやすまん。あれは石柱じゃない。おそらく、脚だ』

「脚だと?」


 そのとき、鋭い呼び子の音が響いた。

 反射的に身をこわばらせたノアは、すぐに横穴の奥へ後退った。ふたたび甲高い呼び子が鳴り、つぎに穴の外から誰かが帝国語で怒鳴るのが聞こえた。


「ちくしょう、見つかった! あんたが余計なことをさせるからだぞ!」


 とノア。

 ローゼンヴァッフェからはなんの返答もなかった。ノアは急いで竪穴の部分へ戻ると、そこを登りはじめる。だが地上へ出たとしても、どこへ逃げる。強制収容所の外縁部の塀は容易に越えられない。ただひとつの出入口は敷地のずっと西のほうだ。

 恐怖と焦りがノアの思考能力を奪っていた。しかしなんにせよ、ずっと穴蔵に潜んでいるわけにもいかない。移動しなければ。

 竪穴を登りきったノアが地表へと頭を出した。と同時に、いきなり彼の目の前へ、冷たく輝いた刃が突き出される。手槍の穂先だ。

 動きを止めたノアが首を回すと、穴の周囲はすでに何人かの警備隊によって囲まれていた。

 警備隊のひとりがノアの脇に手を差し入れ、無理矢理に穴から引っ張りあげた。彼はそのまま硬い地面へうつぶせに寝かされる。

 歯がみするノアは首をねじ曲げて警備隊員たちを睨みつけた。相手は四人だった。うちひとりは、ほかとちがって制服を身につけていない。丈の短いケープをはおっていた。その姿を下から仰ぎ見て、はっとなるノア。

 ケープを着た何者かが、かぶっていたフードに手をかけ顔を露わにする。

 女だった。柔らかい長髪が、彼女の肩から胸にかけてふわりとこぼれる。口元には妖しい微笑。

 瞬間、ノアは後頭部に激痛を感じた。誰かが爪先で蹴りつけたのだ。

 意識が遠のく。その間際、ノアの口からかすれる声が漏れた。


「まかさ、おまえか……クロエ」

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