足がもつれたノアは、

 足がもつれたノアは、たたらを踏んでから地面へ倒れ込んだ。右膝を岩の突起に打ちつけ、彼は鋭い痛みに呻きを漏らした。

 息があがってもう一歩も動けない。こんなに必死で走ったのは生まれて初めてかもしれない。地面に伏せたまま後ろを振り返ると、トロールが追ってくる様子はなかった。そうとわかった途端、気が抜けた。疲労感がどっと襲ってくる。浅く早い呼吸をくり返しつつ、苦しげに顔を歪ませるノアは、身体を回転させて仰向けとなった。

 左手に持っていたはずのショートソードがなくなっている。どこで手放したのか、まったく記憶になかった。右の肩に引っかけていた大事な背嚢を落とさなかったのは幸いだ。


 それにしても、あれは誰だったのか──


 トロールの肩に矢が刺さり、いきなり燃えあがったとき、ノアは反射的に射手の姿を捜した。そのとき崖上に見えた人影。黒いケープを着た何者かは、すぐに引っ込んで姿を消した。帝国の警備隊ではないように思える。たまたま居合わせた地元の狩人か。そんなばかな。ノアは安直な考えをすぐに頭から追い払った。

 相手の正体は不明で、見当もつかない。だがなんにせよ、そいつのおかげで命拾いしたのは確かだった。

 ノアは半身を起こすと、あらためて周囲を見渡した。随所で岩肌が隆起した起伏の激しい斜面。もう陽の暮れる時刻だ。夜目の効果が失われている。地平線に近い空が色褪せているのが見えた。

 背嚢から地図を取り出し、現在地を確認する。すでにここは帝国の影響下である。マッチムト鉱山は目と鼻の先だった。となれば、あまり目立つのはまずい。

 斜面を少し登ったノアは崖下に窪みを見つけ、そこに身を潜めた。行動を起こすのは暗くなってからだ。そうする前に、ローゼンヴァッフェと連絡を取るのがいいだろう。

 ノアはふたたび背嚢を探り、念話石を出す。そして、イシュラーバードにいる唯一の味方へと呼びかけた。

 手のなかの念話石がほのかに光を帯びはじめた。遠く、イシュラーバードがある方角を見つめながら、何度か交信を試みるノア。

 返答がない。これでやり方は正しいのだろうか。本当に自分が頭で考えただけで声が届くのか、ノアは半信半疑だ。


『心配するな。ちゃんと届いてるぞ』


 やっとローゼンヴァッフェからのテレパシーがきた。


『さっきこちらから呼びかけたが、気づかなかったようだな』

「さっきって、いつだ」


 とノア。


『少し前だが』

「なら、おれがトロールに追われて死にかけてる最中だな」

『トロールに出くわしたのか? まさか、いまそいつの腹の中から念話してるんじゃないだろうな』


 ローゼンヴァッフェのくだらない冗談に付き合う気分ではなかった。ノアはいくらか苛立ちを感じつつ、


「そんなわけあるか」

『じゃあ、どうやって切り抜けたんだ』

「誰かに助けられた」

『誰かとは?』

「どうも魔術を使う奴らしい。そいつがトロールに矢を放つと、火がついて燃えはじめたんだ。そのどさくさに逃げた」

『ふむ……おそらく炎の矢だな。いったい何者だろう』

「ひとつ訊きたい。いまここへ潜入しているは、おれだけなのか」

『そのはずだ』

「あんたの知らない、この任務の予備要員だという可能性は?」

『そこまではわからんさ。だが敵ではないようだ。あまり気にせずともいいんじゃないのか』


 楽天的なローゼンヴァッフェにノアはあきれた。


「簡単に言ってくれるな。こっちは現地で命を張ってるんだぞ」

『わかってる。つまらん言い合いはよそう。少なくともおれはおまえの味方だ、信用しろ。で、このあとどうするつもりなんだ』

「とりあえず夜を待つ。それから計画に沿って、マッチムト鉱山の東にある崖を登って強制収容所へ潜入する」

『了解だ。念話石の使い方はもう覚えたようだな。夜になったら連絡をくれ。なければこっちからする』


 念話が途絶える。不安を拭えないノアだったが、ローゼンヴァッフェの言うとおりかもしれない。謎の人物については、その正体を推測しようにも判断材料が少なすぎる。現段階では、それをいくら考えても詮ないことだった。いまは目前のことに集中したほうがいい。

 ノアは岩の陰で蹲り、暗くなるのを待った。そのあいだに手持ちの糧食と水を腹に入れ、体力の低下を防いだ。

 腹が満たされると気が緩む。岩の窪みで横たわったノアがうとうとしているとき、いきなりその上を大きな黒い影が横切った。あわてて身を起こしたノアだったが、上空を仰いだ彼はゆっくりと、動いているのかわからないほどの速さでまた岩の陰に潜んだ。

 ワイバーンだ。ドラゴンに似た、飛行する大型の爬虫類。皮膜の翼を広げたそれが、ノアの頭上を通りすぎていった。背にひとりの人間が跨がっていた。帝国が飼い慣らして使役獣として使っているのだろう。それで哨戒区を巡回しているにちがいない。北西のほうから飛来してきたワイバーンは、しばらく真っ直ぐ飛んでから南東の空へと姿を消した。

 ほっとするノア。やはり強制収容所に近づき、警備も強化されている。

 そしてとっぷりと陽が暮れたころ、ローゼンヴァッフェのほうから連絡が入った。


『そろそろか?』

「ああ。いい頃合いだろう」

『なにか異状は?』

「帝国の奴ら、ここいらをワイバーンを使って警戒しているようだ」

『飛竜か。厄介だな。あれは目がいい。暗視能力もある』

「だが警戒飛行の頻度はそれほどでもない。いちど見たきりだ」

『そうか。ほかに伝えることは?』

「ない。すぐに出発する」


 手短に連絡を交わすふたり。もうあたりは黒く塗りつぶしたような闇である。ノアは夜目の魔術スクロールを使って視界を確保した。いよいよ、ここからは本格的な潜入だ。

 荒涼とした岩場を歩きはじめる。夜になってずいぶんと冷えてきた。トロールに外套を奪われたノアは、羊毛のシャツと革のズボン、それに革鎧しか身につけていない。長い時間じっとしていたせいで身体がこわばっていた。夜目の色彩のない視界では、斜面で転倒する危険性がある。空気の薄い高地では疲労も早い。そのためノアは急がずに、時間をかけて火山の中腹にあるマッチムト鉱山を目指した。

 どのくらい歩いたろうか。ふいにぽつんと明かりが見えた。ノアはそこから姿勢を低くし、這うようにして慎重に進んだ。遠くに見える白い点は篝火だろう。近づくにつれ、その数はひとつふたつと増えてゆく。

 やがて、行く手にある小さな谷を越えた向こうに建物が姿を現した。

 マッチムト鉱山だ。下方に見えてきたのは、鉱山で働いている鉱夫たちが生活している場所にちがいない。切妻屋根を載せた二階建ての石造建築物があり、その周りにも粗末な小屋が確認できた。北側の裏手はかなり急な崖である。ノアはその上へと目を転じた。するとこちらにはずいぶん大きな建物がある。石造りのそれは三階建てで、いかにも堅牢な印象だった。強制収容所の主棟だろう。ほかにもやけに太い煙突を備えた施設があり、監視塔もいくつか設けられている。いずれもが高い石壁で囲まれていて、それは囚人が逃走するのを防ぐための外縁部だと思われた。

 ノアはローゼンヴァッフェに念話を送った。


「マッチムト鉱山が見えてきた」

『ずいぶん時間がかかったな。どんな様子だ』

「まだ遠くてよくわからんが、鉱山では人が生活している模様だ。強制収容所はそこより北東の急斜面の上にある。予定どおり東側の崖へ向かう。帝国の奴らの膝元だ。これからは念話を最小限にとどめるぞ」

『ああ、気をつけろ。くれぐれも油断はするな』


 ローゼンヴァッフェのなんの励みにもならない言葉を聞き流してから、ノアは前方の谷を渡った。そしてマッチムト鉱山へ近づきすぎない地点で進路を変え、そこを迂回する。右のほうへと回り込み、しばらくのあと、彼は強制収容所の東にある崖の下へ辿り着いた。

 その見あげるほどの岩壁は、ほとんど垂直だった。高さは目算で三〇メートルほど。ノアはここをよじ登ろうとしていた。困難なルートだったが、いちばん警備が手薄だと予想されたからである。それに上まで到達すれば、強制収容所を取り囲む外壁のすぐそばへ最短で近づける。だがよほどの命知らずでもなければ、この断崖絶壁へ挑もうなどと思わないだろう。しかもノアは素手での登攀を試みようというのだ。

 もちろん準備はしてある。昨日の昼、露店市場で登山用の楔やハンマーは揃えたものの、それらはいざというときの備えだ。いまは使わない。代わりにノアは背嚢から円筒形の小さな金属製容器を取り出す。彼が金属の筒にねじ込んであるコルクの栓を抜くと、その内にはなんらかの液体が満たされていた。

 ローゼンヴァッフェからもらったポーションである。ポーションは使用者に神秘的な効果をもたらす水薬だ。ノアは容器を顔に近づけ、匂いを嗅いだ。無臭だった。

 ノアは回復を目的とするポーションなら何度か使用したことがあった。飲むとたちまち外傷が治癒したり、低下した体力が補われるのだ。あれは実に奇妙な体験だった。しかしポーションには副作用もあるため、どうもすきにはなれなかった。さらに高い頻度で飲んだ場合、身体に負担がかかり危険を伴う。

 いまノアが手にしているのは登攀を容易にするポーションだという。ずいぶんと限定的な効果のポーションだった。あのローゼンヴァッフェが調合した薬ゆえ、多少の不安はある。が、通常の手段で目の前の絶壁を登るのは無理だ。ノアは何度も逡巡してから、疑問を抱きつつもそれを飲み下した。

 ひどい味だった。とんでもなく苦い。イシュラーバードにきてからというもの、しょっぱいか甘いかの食事に加え、今度はこれだ。ノアの心には当地でのいやな思い出がまたひとつ刻まれてしまった。

 しばらく、身体に変調がないか待ってみた。

 異状らしいものはなにも感ぜられなかった。ためしに崖の岩肌に手をかけてみる。なんだ、なにも変化ないじゃないか。そう思い、岩の突起に足の爪先をのせて登りはじめたとき、ノアはすっと全身が持ちあがったのに目を瞠った。

 やけに身体が軽いのだ。驚くべき効果である。

 そういえば、ローゼンヴァッフェはこのポーションの効果が数十分しかつづかないと話していた。ノアは慎重を期しつつも急いで崖をよじ登りはじめた。

 あと少し。崖の縁が目前に迫った。と、そのとき突然、ノアは足を踏み外した。足場としていた岩が脆かったのか、そこが崩れてしまった。ノアは咄嗟に両腕で身体を支えた。危なかった。割れた小さな岩の塊がはるか下方へ向け、ところどころとぶつかりながら転げ落ちてゆく。一歩まちがえれば自分がそうなっていたと、ノアは肝を冷やした。

 なんとか断崖の上まで登り着くと、ノアは地面に跪いて息を整えた。そこは強制収容所の高い塀のすぐそばだ。右と左に監視塔が見える。それらのちょうど中間地点。距離があるため、いまいる場所ならば見つかることはないだろう。

 さて、とうとう収容所内への侵入である。問題なのは、いまノアの前に立ちはだかる壁だ。高さは地面から一〇メートル足らず。四角く切り出された玄武岩を、ぴったりときれいに積んで石垣としてあるため、よじ登るための取っかかりがない。

 となれば、やはりここは魔術スクロールに頼らざるをえなかった。そのために用意したのは、壁登りの呪文を封じたスクロールだ。ノアの知らない呪文だったが、ローゼンヴァッフェによると、それを使えばクモのように壁や天井に張り付いて移動できるらしい。

 ノアは壁際まで移動するとスクロールを広げた。そうして彼は、ローゼンヴァッフェに言われていた注意点を思い出した。たしか、壁登りは素手と素足でないと効果が発揮されないとのことだ。ノアは履いていたブーツを脱ぐと背嚢へしまった。それから、あらためてスクロールを広げて念じはじめた。

 例によってエーテルが励起するちりちりした感触が手に伝わる。いや、今度は足裏にもそれを感じた。

 そしてまもなくノアは、壁登りの効果を妙な形で体感した。

 手に持っていた魔術スクロールの紙が、くっついて離れない。右手で紙を左手から引き離すと、右手にくっついてしまう。その右手にくっついた紙を左手で剥がそうとすれば、今度は紙が左手にという具合に、堂々巡りとなってしまった。

 ノアは仕方なくスクロールの紙を口でくわえて、ようやく手から引き離した。どうやら壁登りは、手足に触れたものへ吸い付く特性が身につくようだ。それからノアは背嚢を地面に置くと、内へ顔を突っ込んで魔術スクロールの紙をしまった。しかしこのときも手に背嚢がくっついて、やりにくいことこのうえなかった。

 壁登りの効果は十分すぎるほどに理解できた。ノアは強制収容所の壁へ右手で触れた。手を引くと、割と強い抵抗はあったものの、壁から離すことが可能だ。つづいてノアはまず両手を壁の高いところへ吸着させてから、左足、右足という順で壁にくっつけた。これでノアの身体は四肢によって完全に壁に固定されたことになる。まるでヤモリかクモにでもなった気分である。

 要領を得るとあとは難なくだった。赤ん坊が地面を這い進む手足の運びで、壁を登ってゆく。

 まもなくノアは塀のいちばん上に到達した。強制収容所の塀は一メートルほども厚さがあった。その天辺の平らだが狭い場所で身を縮こまらせ、まずは自分に近い二箇所の監視塔の様子を窺う。

 どちらにも警備隊員の影が見えたものの、こちらへは注意を払っていない。ノアは塀の高みから強制収容所内の建物の配置を観察しはじめた。

 主要施設はいくつかの棟に分かれていた。最も大きな建物は三階建ての主棟で、おそらく監房があり囚人が収容されているのだろう。それと広場を挟んだ反対側に平屋の建物がある。煙突が立っており、この時間でも煙があがっていた。なにかの作業場かもしれない。さらにそこへは北側から太い導管が繋がっている。ノアが導管の行く先を目で追うと、火山の噴火口のほうへのびており、最終的な果ては確認できなかった。

 ほかに目立つ施設といえば、監視塔が全部で五つ。敷地の四隅と、西側の正門の近くにもうひとつあった。強制収容所の出入口はその一箇所だけだ。あとは便所や水場、ワイバーンの獣舎といったものが点在し、いびつな四角形となった全体の敷地面積はかなり広い。配備されている帝国の人員は、およそ五〇名ほどかとノアは推察した。

 もう少し状況把握に時間を割きたかったが、壁登りの効果が切れるとまずい。ノアは塀の内側の壁にへばりつくと、そろそろと降りはじめた。

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