マグナスレーベン帝国の

 マグナスレーベン帝国の騎士階層はいくつかの序列に分かれている。最も下位である碧の騎士は、馬を用いた騎馬兵として軍役にあたる。その上位の緋の騎士は騎馬隊の指揮官を任ぜられる。さらに近衛団となる皚の騎士とつづき、最上位の黄金の騎士は皇帝のみ名乗ることを許された称号である。

 だが帝国には人知れず、もうひとつの騎士群がいた。

 黯の騎士団。その騎士群はどの軍団の組織図にも記載されていなかったが、帝国のごく一部の者には存在が認められている。黯の騎士と公式には呼ばれずとも、単に黒か、もしくは漆黒といえば彼らのことを指すのだった。

 黯の騎士は現在、総勢で十三名しかいないとされている。いずれも特殊な能力を持つ精鋭で、どのような手段で集められたのかは不明。しかも同じ黯の騎士どうしでも彼らが互いに顔を合わせることはごく希で、各々の名前すら知らないのが実状である。常に単独で任務へ赴き、ほとんどの場合、他国へ潜入しての情報収集、要人排除、破壊工作、民衆扇動などを遂行する。

 いまハイランドにはひとりの黒が派遣されていた。ナーゲルと呼ばれるその黯の騎士は、殺しの指令を受けて本国より送り込まれてきた。というのも二カ月ほど前、ハイランドの強制収容所で脱走者が出たのである。もともと厳重な警備が敷かれていた収容所ではあったものの、思わぬ不備を衝かれたといえる。なにせ脱走を図ったのは魔術の使い手だったのだ。

 脱走者であるノーム族の魔術師はナーゲルによって、逃走先のオーリア王国内で始末された。以降もナーゲルは強制収容所の警備強化を名目としてハイランドに留まったが、それは表向きである。実は彼女には、もうひとつ本国の枢軸から密命が与えられていた。

 ハイランドの統括者であるランガー総督に、二心ありとの容疑が露見したのだ。

 だが黒が出てくるほどの事態ではなかったろう。ナーゲルが気乗りしないまま任務に就いたのも無理はない。そもそも身内を嗅ぎ回る内部査察など、誰もが疎んずるドブさらいのような仕事である。加えて、僻地のハイランドはあまりに未開だった。長期間そこに赴任するとなれば、旧来的な生活を強いられる。火山灰で煤けたイシュラーバードがよい例だ。あそこの住民は火を熾すのに、いまだに家畜の糞を使っている。

 当地は厳しい自然にかこまれた、ある意味では景勝地といえるものの、それも最初の数日で飽きてしまった。ナーゲルにとっては流刑にされた気分である。こんな場所に繋ぎ止められるなど、まるで強制収容所にいる政治犯や凶悪犯と同じ扱いだとして。

 時折──主に火山が煙を吐いていない日──ナーゲルは暇を見つけてマッチムト鉱山周辺へ狩りに出かけた。それが文化圏から遠く離れたここでの唯一の娯楽だった。

 ハイランドでは春から夏にかけて、標高の低い場所から上へ移ってくる動物たちがいた。なかでもナーゲルが狙うのは、ユキヒョウだ。低地ではお目にかかれない猛獣ゆえ、希少な毛皮は魅力的である。

 その日もナーゲルは弓を携えて溶岩の固まった黒い荒野を徘徊していた。目的地は特になかった。彼女はあてもなくさまよう途中、薄く火山灰をかぶった岩の合間に蹄の跡を見つけた。大型の山羊にちがいない。たまに姿を見かけるやつだ。しばらく追跡したが、足跡を残した山羊はとっくに離れたどこかへ移動したようだった。

 ハイランドに赴いてから、もうひと月ばかり経つ。しかしそのあいだ、ユキヒョウはこちらに影さえも見せてはくれなかった。

 どうやら今日も空振りだ。落胆し、岩の上に腰をおろすナーゲル。そうして岩と苔ばかりの変わり映えしない風景を眺めつつ、彼女はあくびをひとつ。フードがついた丈の短いケープのポケットから、松の実を取り出して口に含む。西側に目をやると火山を取り囲む外輪山がよく見えた。その向こうにはセイラム回廊。さらに遠くでイシュラーバードの街が白っぽく霞んでいる。

 太陽が傾き、影が長くなってきていた。そろそろ陽が暮れそうだ。と、視界の隅でなにかが動いた。気を引かれたナーゲルがそちらへ首をめぐらせる。すると彼女からかなり遠くの、岩の割れ目に生えた草の陰から、毛むくじゃらの小動物が現れた。毛の色は灰色でネズミに似ていたが、もっと起源の古い齧歯類の原種だ。

 ナーゲルのいる場所から二〇メートルは離れていた。しかし猛禽のように目がよい彼女はそれを見逃さなかった。ナーゲルは腰のベルトに下げた矢筒に手をのばそうとして、やめた。あんな小物を仕留めても仕方がない。

 まるで小さな毛玉みたいな動物がどこかへ走り去るのと、野太い唸り声が聞こえたのは、ほとんど同時だった。

 はっとなったナーゲルがゆっくりと地面に身を伏せる。

 なんの声だろうか。毛長牛の鳴き声に似ていたが、あれがいるのはセイラム回廊に近い平地だ。たしか、この近くには溶岩隧道があったはずだ。いまの声は、そこに棲み着いているトロールかもしれない。

 よし、確かめてやろう。洞窟のトロールの噂は強制収容所の人間から聞いていたが、ナーゲルはまだその姿を拝んだことがなかった。興味本位というにはあまりに危険な行動である。が、いまのナーゲルは興奮を呼び覚ます刺激に飢えていた。そして仮にトロールと出くわしても、彼女にはそれを撃退する自信があった。

 ナーゲルは立ちあがり、声のした方向へ移動しはじめた。用心深い足取りで岩場を渡る。崖のそばまできたとき、ふたたび何者かの吠える声が聞こえた。相手はそう遠くない。

 身を屈ませ、崖の縁から下を見おろす。そこは冷えて固まった溶岩が柱状節理となり、不規則に重なる場所だった。ナーゲルが頭を出したとき、彼女の位置から少し離れた右下のほうで、革鎧を身につけた男が崖をよじ登ろうとしていた。しかし彼はすぐ近くの溶岩隧道から出てきたトロールに足を摑まれ、地面へと引きずりおろされる。それはふつうのトロールではなかった。おどろいたことに、頭がふたつある。


 あらあら、かわいそうに──


 ナーゲルの顔に酷薄な笑みが浮かぶ。このまま手を出さずにいれば、双頭のトロールによる残虐ショーがたのしめそうだったが、さすがの彼女もそこまで悪趣味ではない。

 ナーゲルは腰の矢筒より一矢を抜いた。そして同じくベルトにたくさん下げてある小袋のひとつから、魔術の触媒をつまみ出す。繊細な手つきで指を組み合わせ、印を結んだあと、油に濡れた指先を鏃にあてる。そして彼女が呪文をささやくと、矢の先にぽっと火が点った。

 触媒、印契、詠唱。ナーゲルはその一連の動作を流れるように行った。秘術の射手である彼女が使ったのは〝炎の矢〟の呪文である。

 先端が燃える矢を弓へとつがえる。ナーゲルが愛用するのは異なった木材を張り合わせた複合弓だ。弦を引き絞り、眼下のトロールへ狙いを定める。距離は一四、五メートル。的は大きく、外しようのない距離だった。

 矢をつまんでいた指を放すと同時に弦が震え、ナーゲルの右頬を矢羽根がかすめた。射られた矢はトロールの右の肩口に命中した。途端、矢の刺さったあたりが派手に燃えあがる。

 トロールのふたつの頭が悲痛な声をあげた。そしてその巨体を地面にひっくり返らせ、のたうち回った。炎はトロールの弱点のひとつである。燃えているあいだ継続的にダメージを受けるため、この攻撃には再生能力でも対抗できないのだ。

 トロールに襲われていた男は呆気にとられる。当然の反応だったろう。彼にしてみれば、これは文字通り天の助けだ。おそらく男は状況もわからぬまま、その場から走り去った。すぐにトロールも彼とは反対の方向へ逃げ出した。そちらには溶岩隧道の入口がある。

 這々の体な両者を高みより見物するナーゲルは、思わず噴き出してしまう。そうして、彼女は逃げていった男のほうを追いはじめた。

 男が何者か調べる必要があった。ここは地元の者なら足を踏み入れない場所だ。彼はいったい、なにをしにきたのか。

 しかしそれとは別に、ナーゲルの頭ではあの男のことが妙に引っかかっていた。

 ちらりと垣間見えた男の面立ち。いつだったか。ナーゲルは彼と、どこかで会っていた気がするのだ。

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