由比ガ浜再訪

 金曜日の夕方四時過ぎ、私は銀乃に誘われたパーティなるものに参加するために、由比ガ浜の銀乃のマンションに出かけることにした。幸いにして今日は雨は降らず、ときおり日が射すほどだった。知らぬ間に暦は七月に替わっていた。

 オフィス裏の駐車場から車を出し、メールで頼まれたとおり真朝をピックアップするために、前回と同じように小田急線K駅北側のバス通りからアプローチして銀野邸に向かった。

 銀野邸が見えてきたころ、駅のほうから歩いてくる見覚えのある若い女が視界に入った。

 女は前に見たときよりもさらにラフな服装で、K駅前にある大型スーパーのレジ袋を提げていた。平日のこの時間にこの辺りを歩いているからには、午前中に何か外せない用事でもあったか、単なる有休消化なのかはわからないが、彼女は今日、会社を休んだということだ。

 何事もなく銀野邸の前を通り過ぎ、ひとつ隣のT駅が最寄りとなる自宅までのんびりと歩いて帰るのだろうその女は、ファンアローの井東優里だった。

 つまり優里は、ときどきK駅前の大型スーパーで買い物をして、銀乃邸の前を通って自宅まで歩いて帰る。優里の家は最寄りはT駅だが、実際はK駅とT駅のあいだのT駅寄りといった場所だから、時間に余裕のあるときにK駅前から歩いて帰る日があっても不思議ではない。

 おそらく優里は見たのだろう、このあいだ私が目にしたように。優里は、真朝に連れられて銀野邸に吸い込まれていく季田完太と、鉢合わせしてしまったに違いない。

 季田は、そのことが優里から高須木を通してアイマヤに伝わり、銀野充の耳に入ることを恐れていたのだろう。予想していた通り、季田が気にしていたのはファンアローの機密情報などではなく、自分の不倫の秘密だったというわけだ。

 優里には面が割れていないため、私は身を隠す必要もなく、運転席から後ろを振り返って、彼女の姿が次の曲がり角に消えるのをゆっくりと見送った。

 優里の姿が完全に見えなくなってから、私は銀野邸の前の路上に駐車して門扉の前に立ち、インターホンで真朝を呼び出した。迎えに行くおおよその時間はあらかじめ銀野充への返信メールで伝えてあったから、いきなりの訪問にとまどうことはないだろう。

 返事があってほどなくして、門扉越しにガラガラと玄関の扉を開閉する音がし、そのあとでカチャリと施錠する音が聞こえた。

 軽やかな足音が門扉に近づいてくるのを感じて、微かな緊張が走る。

 不意に突風が起こり、庭のケヤキがざわざわとさざめいたとき、予定していたように門扉が開いて、真朝が現れた。

 白地にロゴの入ったTシャツに、ふわりとしたオレンジ色のフレアスカート、かかとの低い夏物サンダルの真朝は化粧っ気もなく、まるで授業を欠席したことがない真面目な大学生のようだった。

 そして驚いたことに、胸まであったロングの黒髪がばっさりと切り落とされ、顎のあたりまでのショートヘアに変わっていた。前回は長い髪で隠されていた細い首筋があらわになっていて、私は少なからず戸惑いを覚えた。

 真朝は私の視線を察して、

「あ、これのことですか?」

 指先で髪の先をつまんでさらりと流しながら、

「昨日、バッサリやっちゃいました。これから夏本番ですから。自分ではスッキリさせたつもりなんですけど、やっぱりおかしいでしょうか?」

「いや、むしろこっちのほうが似合ってます」

 半分は社交辞令だが、半分は本心だった。

「よかった。周防さんに気に入ってもらえるか心配でした」

「あなたが心配しなければならないのは、もっと他のことでしょう」

 私は真朝の言葉を軽く受け流して、停めてあった車のところまで連れていき、助手席のドアを開けて真朝を乗せた。

 フロントガラス越しに真朝がシートベルトを着けているのを横眼で見ながら運転席のほうに回り、車に乗り込む。

 車をスタートさせるまでのあいだ、真朝は正面を向いたまま無言だった。

 このあいだ初めて銀乃のマンションを訪ねたときと同じように環八に出て南下し、第三京浜に入る。多摩川を渡り、料金所を過ぎて、本格的にスピードが上がってきたあたりで、ほとんど無言だった真朝が口を開いた。

「もうすぐ夏が始まるこんな季節に海に向かってドライブするなんて、なんかワクワクします」

 私は進行方向を向いたまま、

「まるで普通の女子みたいなセリフだ」

「フフ、私普通の女子ですよ」

「海風が苦手だと聞きました。出不精だとも」

「周防さんとなら大丈夫です」

 横顔に真朝の視線を感じたが顔を向けることはせず、

「また始まった。あなたは誰にでもそんな風にして誘うんですね」

 私は、コチコチに身体をこわばらせた季田の姿を思い浮かべた。

「ひどい言い方。周防さんは、ちゃんとした人だって、この前会ってわかってるじゃないですか」

「男は突然変わります」

「じゃあ変わってみてください」

 どこか挑戦的な口調で真朝が言った。

 私は右手でハンドルを握ったまま左手を伸ばして、スカートの上から真朝の右の膝のあたりに触れた。夏物の薄い生地を通して伝わる感触が一瞬石のように固くなったが、やがてやわらかくほどけた。

「僕はいい加減な人間です。実社会でいままで通用しているのが不思議なくらいだ。本当はぜんぜん通用してなんかいなくて、僕がそう思っているだけなのかもしれない。そしてあなたはとても魅力的だ。このまま鎌倉のマンションじゃないどこか別の場所に連れて行ってしまいたいほどに」

 真朝が私の手の上に、微かに汗で湿った右手を重ねてくる。

 私は、すっと手を引っ込めて、

「けれども銀野社長が僕を信頼してくれて、あなたのことを任されている以上、僕は彼を裏切ることはできない。少なくとも無事にあなたをマンションに送り届けるまでは。だから、いまはここまでです」

 真朝は、気を悪くした風でもなく、

「やっぱり周防さん面白いです。じゃあ私も、いまはここまでですね」

 と手の甲を口に当ててフフフと笑った。

 そのとき、後続車が猛烈なパッシングを私の車に浴びせ、急ハンドルで追い越し車線に移動したかと思うと、唸りを上げてみるみる遠ざかっていった。

 気が付くと、私の車は時速五十キロぐらいまで速度が落ちていた。

 私は、両手でハンドルを握り直し、アクセルを踏んで、速度を百キロ近くまで回復させた。

 横浜新道に入ってしばらく走ると、電光掲示板がこの先のかなり激しい渋滞情報を示していたので、新保土谷インターから横浜横須賀道路に迂回することにした。多少の渋滞はあるだろうが、横浜新道よりは車が動くと考えての判断だったが、それが失敗だった。金曜日の夕方下りの渋滞は予想をはるかに上回り、インターチェンジから本線に流入したとたん、ノロノロ運転に巻き込まれてしまった。

 これから夏本番にかけての季節、天気予報と渋滞情報は、決して信用してはいけない。

 アクセルペダルから足を離したクリープ現象だけで車を低速走行させながら、

「僕の判断ミスでした。横浜新道をそのまま走ったほうが多分ずっと早かった」

「いいじゃないですか。まだこんなに明るい時間ですし」

 妙に機嫌のよさそうな真朝が、のんきに応える。

 夕方になってさらに晴れ間は広がり、右の窓から、まだまだ高い夏の太陽が見えていた。

 暇つぶしに、久しぶりにカーオーディオのスイッチを入れ、適当なエフエム局に合わせた。DJの中年男と音楽系のアーティストらしい若い女がくだらない世間話を延々と続けていたが、二人とも聞いたことがない名前だった。

 夏のリゾート地に似合う曲の特集らしく、それっぽいラテン系の洋楽が流れたあと、再び二人の会話が始まる。今度の話題は、出会ったその日に相手と性行為を持つことの是非についてだった。

 アーティストの女のほうは、それなりの相手とシチュエーションが揃えば自分はそうしても構わない、と言った。

 それに対してDJの男は、世の多くの男たちはウェルカムかもしれないが、自分には無理だ、なぜなら出会って数時間で相手を理解できるとは思えないし、あとで後悔するかもしれない、と応じた。

 女は、別に相手を理解していなくても行為を楽しむことはできるし、その相手とずっと付き合うわけではない、自分はその日そのときでベストな行動をチョイスするだけで、自分にとって何がベストかを瞬時に見分けることができる、と主張した。

 男が、なるほどあなたは動物的な勘に優れているわけだ、と言うと、女は、その通り私は動物的な勘に優れているけれど、決して動物的な人間ではない、と答えた。

 動物的な人間だったらヤバいよね、と男は言った。

 その話題のあいだ、真朝は取り立てて興味を示すこともなく、ただ前を向いて座っていた。

 やがて曲が始まり、スローテンポのバラードを、男性シンガーが切ない声音で歌いあげていた。間奏の甘いトーンのギターソロは、夕暮れの浜辺で聴いたらさぞや情感が高まるであろうフレーズを奏でていたが、残念ながら、いま私たちがいるのは、無粋な防音壁で覆われた渋滞中の高速道路の上だった。

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