探偵ごっこ

 何か確証があったわけではない。なぜかはわからないが、そうではないかという予感がしただけだった。私の足は、このあいだ民矢桃子と話をした高円寺駅近くの小さな公園に向かっていた。

 予感は的中した。民矢桃子は前回と同じベンチに座り、組んだ足のつま先を見つめていた。そのシルエットには、どこか思い詰めたような気配が感じられた。

「やはり、ここにいましたね」

 私は、あいさつ代わりに軽く片手をあげながらベンチに近づいた。 

「あら、周防さんでしたっけ? 今日も私のあとをつけていたんですか」

 桃子の顔をのぞき込むようにして、

「あとをつけられると困ることでもあるんですか」

「私だって女性ですから」

 桃子は、意味ありげな瞳で立ったままの私を見上げる。

「今日はつけていません。なぜなら、あなたがどこにいるかわからなかったから」

「午後から経営関係の資料をあたっていて、ちょうどこれから会社に戻るところなんです」

「あなたなら、すぐにバレる嘘はつかないでしょうね」

「別に何も隠してはいませんよ」

 にっこりと私に笑顔を向ける桃子の上着の胸に、ライオンのブローチは着けられていなかった。

 私は桃子の横に腰を下ろしながら、

「いまはリセット中というわけですか」

「ええ、会社に戻る前に。あとひと仕事ありますから」

「今日は何をリセットしたんですか。気に入らない相手との関係でもリセットしたんですか」

 きつい口調の私に、桃子は驚いたように目を丸くして、

「周防さん、今日はずいぶんと攻撃的ですよ。このあいだとは別の人みたいです」

「すみません、いま自分が抱えている問題のせいで、少しイライラしているのかもしれません。それで、今日は気に入らない相手との関係でもリセットしたんですか」

 私は冷静さを保とうと努力したが、菱谷の胸ポケットを探ったときの死体の重みが右手に甦ってきて、そうすることを難しくしていた。

「気に入らない相手との関係をリセットしたことはありますよ。ずいぶんと前の話ですけど」

「僕は、ほんの一時間前のことを聞いているんです」

「そんなことはしていません」

「取引き先というのは、中野にあるんじゃないですか」

「違います」

「今日は、〈お気に入り〉のライオンのブローチを着けていませんね」

 桃子はフッと短くため息をついて、残念そうな表情を見せると、

「このところ忙しい日が続いていて、気が付いたらなくなっていたんです。でも、きっと家のなかを探せば見つかると思います」

 学生風の若い男がひとり、公園のなかに入ってきて煙草に火をつけた。我々に気づくと、気まずそうに時折こちらをチラチラ見ていたが、一本吸い終わると、そそくさと公園から出ていった。

「今日、中野で菱谷錠という男が殺されました。ついさっきまで、僕はその男の死体のそばにいたんです。もちろん、警察には連絡しました」

 男の姿が視界から消えたのを確かめてから、私は言った。

「殺されたとか、死体とか、ずいぶんと現実離れしたお話ですね。周防さんは小説家でも目指しているんですか」

 とぼけた様子で桃子が応える。

「いえ、これはフィクションではありません。現実に起こったことなんです」

「まさか周防さんは、その人を私が殺したとでも言いたいんですか」

「菱谷は、あなたのことをとても気にしていました。僕があなたに近づこうとするのを妨害しようとさえしたんです」

 今日はまだ日が落ちていなかったが、やはり桃子の表情は読み切れない。

 桃子は左手で櫛のように髪をかき上げて、

「残念ながら、その人のことを私は知りません。いま初めて名前を聞きました」

 髪から抜いた指をVの字にして顎にあて、考えるようなそぶりを見せると、

「きっと彼は、例の週刊誌で私のことを知ったんじゃないでしょうか。周防さんだって、あの記事を見て私を知ったと言いましたよね」

「会ったこともない人間に、妄想を膨らませてしまう。さも相手と親しいかのように、周りに吹聴する。いわゆるストーカーの一種というわけですか」

「それです、きっと。やっぱり、あんな雑誌になんか出なければよかった……」

 桃子は、こちらに顔を向けて、大げさに顔をしかめて見せた。わざとらしい仕草が、どこか彼女のキャラクターには合っていない感じがした。無理して自分自身をリラックスさせようとしているようにも思える。

「いいですか、民矢社長……」

 私は腹の底から息を吐いて何とか心を落ち着かせながら、

「実は僕だって、あなたが菱谷を殺したとは思っていないし、思いたくもない。でもいまの状況を考えると、僕はまだ百パーセントそうだと言い切る自信がない。そのために僕は、自分で自分の首を絞める行為までしてしまったんです。僕は、警察より先に、菱谷錠という男を殺した犯人を捜しださなくてはならないんです」

「やっぱり私を疑ってるじゃないですか。でも失礼なのは置いておくとして、周防さん、まるで探偵みたいですよ」

「なにせフリーランスですからね。〈探偵ごっこ〉をするときだってあります。そして、たまにはこういうことも」

 私は、左側に座っている桃子の頬に右手を添えて自分のほうに向かせると、顔をぐっと近づけた。正面から見据える桃子の瞳に一瞬怯えた光が走ったが、ゆっくりとした動作で私の手を払う。

「そういう〈探偵ごっこ〉は、ぜんぜん今っぽくないんですけど」

 微妙なニュアンスの声音でつぶやくと、

「それより、早く犯人を見つけてくださいね。そのヒシタニさん? という人のためにも」

 いつものキラキラした瞳に戻り、桃子は微笑んだ。

「もちろん、そのつもりです」

 と私は言った。


 くたくたになってオフィスに戻ったときには、長い六月の一日もさすがにすっかり暮れ落ちて、オフィス内は真っ暗になっていた。

 ドア横のスイッチをパチンと蚊を叩くようにして蛍光灯をつけ、小型冷蔵庫の前に直行する。冷蔵庫の上の木彫りのクマの頭を人差し指で撫でてから、分量も適当にハイボールを作り、応接セットのところまでよろよろと移動してソファに身を沈めた。

 テーブルの上で何日もそのままになっている、底の一段が完成しただけのやりかけのキューブ型パズルをぼんやりと眺めながら、私は、長かった今日一日のあいだに自分の身に起こった出来事をひとつずつ振り返ってみる。

 今日、私が会ったり話したりした人間のなかに、まともな人間は何人いただろうか。

 個性的といえば聞こえはいいが、要するに誰もが、一般的に認識されている〈まとも〉から少しずつずれていて、それに気付いていないようだった。

 とはいえ、それぞれが自分の持ち場で自分の役目を果たし、それで生きていけるのなら、誰にも文句を言われる筋合いはない。〈まとも〉でないことで、いったいどんな不都合があるというのか。

 ただし、うまくいかなかった場合には、この世から退場することになる。もう二度と人を脅かすことがなくなった菱谷のように。

 私は自分がとてつもなく疲れていることに気が付いた。

 オフィスの一角をパーティションで仕切り、そこに小ぶりなソファベッドを置いて、いざというときにはここで仮眠できるようにしてある。今日はいっそのこと、そこで眠ってしまおうかと考えていたところで、スマートフォンにメールの着信があることに気が付いた。

 メールは、『周防作』のアドレス宛になっていて、差出人は銀野充だった。

 そのメールは次のようなもので、昼間に会ったときの印象どおり、他人に対する警戒心というものが欠けているような文面だった。


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周防さま


お世話になってます。

銀乃です。


今日は、取材を中断してしまって申し訳ない。

その代わりという訳ではありませんが、今週末にパーティを開いて周防さんをご招 待したいと思っています。

パーティといっても、私と妻と周防さんの三人だけのささやかなものですが。

そのときに、取材の続きをしていただいて構いません。

もし来ていただけるのであれば、金曜日の夜、都合の良い時間で構いませんので、鎌倉のマンションまでお越しください。

もちろん手ぶらでオーケーです。

当日私は午後から横浜で用事があり、そのまま鎌倉に向かうつもりですので、日が沈むころにはマンションに着いていると思います。

それと大変厚かましいお願いなのですが、車でいらっしゃいますよね。

であれば、世田谷の自宅から、妻をピックアップして一緒に連れてきてもらえないでしょうか。

妻は出不精なうえ、海風がどうも苦手らしく、誰かに連れ出されでもしない限り、自分からは鎌倉に来ようとしないのです。

すでに妻にはそのことを伝えてあり、妻も承諾しています。

いや、どちらかと言えば、かえって喜んでいるかな。

ゲスト用の部屋があるので、夜はそこに泊まってください。

たいていのモノは用意してあるので、心配しなくても大丈夫です。

飲酒運転は危険ですからね。

夜の闇は日ごとに深くなるばかりですが、週末まで何とか乗り切りましょう。


アイマヤ 銀乃充

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 しばらくあれこれと考えてから、私は銀乃の誘いに応じることにした。

 おそらくメールを見た瞬間から、答えは出ていたのだろう。にもかかわらず、自分としては、起こり得る限りの、さまざまな可能性を熟考したうえで出した結論としたかったのかもしれない。

 ひとつ気になったのは、本文末尾の一文だった。

 確かに夏至は過ぎているから、これからは冬至にかけて夜は長くなる一方だ。科学的な事実として間違ってはいない。とはいえ、まだ梅雨も明けていないというのに、「夜の闇は日ごとに深くなる……」などといった表現を、普通使うだろうか。

 直前まで、いかにも銀乃らしい、無防備で屈託のない文章が並んでいるだけに、最後の一文の異様さが際立っている。

 だが考えてみれば、銀乃とは今日の昼間に初めて会ったばかりで、彼の人となりについて、私が正しく理解しているとは言い難い。もともと銀乃はあのような表現を深い考えなしに使うタイプだということも考えられる。

 あるいは銀乃は、夜の闇に例えられるような何かを、心に抱え込んでいるのだろうか。真朝が心配しているような何か、自分では解決し難い何かを。

 いずれにしても、週末に鎌倉で再び会ったとき、銀乃充という人間の、いまはまだおぼろげな輪郭が、もっとはっきりとした形をとって見えてくるはずだ。

 私は、銀乃にオーケーである旨短く返信すると、立ち上がって冷蔵庫のところまで行き、もう一度クマの頭を撫でて、安住の地を作ってやるのはもうしばらくあとになることを詫びてから、ハイボールのお代わりを作り、再びソファまで戻ってきた。

 とてつもなく疲れていたが、なぜか少しも眠気は感じなかった。

 私はオフィスに泊まるのはやめにして、酔いを醒ましてから自宅に戻り、いつものベッドで質の高い睡眠にチャレンジすることに決めた。

 それは十中八九無理なことだとわかってはいたのだが。

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