第三話 一期一会


 ほっぺたがじんじんと痛い。

 目が覚めてから一体何度ほおをつねったことだろう。

 だけどこれは夢じゃない。

 イサムは今、見たことのない場所——異世界に立っていた。


 推定、数時間前。

 時計がないからどれだけ時間が経っているか分からないのだが、体感的にはだいたいそれくらいだと思う。


 河原でグリムに会ったイサムは、彼から「そらとぶじゅもん」を教えてもらった。

 なぜ彼がイサムが来ることを察していたのかとか、どうしてすんなり教えてくれたのかとか、詳しいことはわからない。あまりゆっくり話しているひまはなかったからだ。試しに傘を開き、リコーダーで「そらとぶじゅもん」を鳴らしてみた瞬間、イサムの身体は風にさらわれふわりと浮き上がった。


「良い旅を」


 手を振るグリムの姿がみるみるうちに小さくなっていく。

 パニックになったイサムはどうにか降りられないかとじたばたしてみたが、傘は高度を上げるばかり。「これは死んだ」と思った。

 やがて傘はぐるぐると渦を巻くように飛んだ。今思えば、あれは台風の目に向かっていたのかもしれない。徐々に風が弱まってきて、中央には虹色に輝く「穴」があった。

 イサムはその穴の中に吸い込まれ……気づいたら暗がりの中にいたのだ。ひんやりとして湿っぽく、土の匂いがする。洞窟だ。わずかに差し込む光を頼りに進んでいくと、切り立った崖に出た。そこから見えた景色で、イサムは自分が今、日本ではない別の場所にいることをいやがおうでも理解させられたのだ。


 雲ひとつない快晴。

 日差しは強いが、半袖ではややうすら寒く感じる気温。

 湿気のない風はカラッとしていて、それに運ばれる草木の匂いは日本の蒸した夏草の匂いとは違う、ハーブのような爽やかな香りがした。

 崖から見下ろす景色は、日本の山から見た景色よりも、ヨーロッパ旅行に行った時に飛行機の窓から見える景色に似ている。高い山や建物があまりなく、地平線が遠くまで続いていた。畑や森が多く、緑豊かな土地だ。今いる崖のふもとから少し離れた場所に小さな集落のようなものが見えた。そこから街道が伸びていて、その先にはRPGで出てくるような形の城がそびえている。


「本当に、異世界に来ちゃったんだ……」


 イサムは呆然とつぶやいた。

 勢いでここまで来てしまったものの、この先いったいどうすればいいのだろう。

 そんなことを考えていたら、ぐうと腹の虫が鳴った。

 玄関を出る前に嗅いだ、夕飯の匂いがちょっぴり恋しい。


「ご飯、食べてから出れば良かったな……」


 はあ、とため息ひとつ吐き、イサムは元来た道を引き返した。洞窟の中に置いてきてしまったが、傘には非常食としてお菓子がくくりつけてある。お遊びで考えたものとはいえ、素晴らしい計画性に我ながら感心だ。

 だが、最初に目覚めたあたりまで戻ってきても傘がなかった。

 暗くてよく見えない中、地面を探ってみたのだが、どこにも見当たらない。


「確かこの辺だったと思うんだけどな。通りすぎたのか?」


 もう一度崖の方まで歩いてみよう、と思ったその時だった。

 ガサ、とわずかな物音が洞窟の中で反響する。

 お菓子の袋を触っているような、ビニールのガサガサ音だ。

 崖とは反対側、イサムから少し離れた場所から聞こえてくる。

 ネズミだろうか。

 イサムはおそるおそる近づいた。

 だんだん暗さに目が慣れてきて、洞窟の中の様子が見えるようになってきた。

 地面に落ちているイサムの傘。その側にいるのは……ネズミではなかった。もっと大きい影が、袋に入った菓子を取り出そうとして苦戦している。

 思わず悲鳴が出そうになったのを口を押さえてなんとか堪えた。

 そう、ここは異世界。

 現代日本の常識が通じる場所ではない。

 モンスターと遭遇する可能性だって、ある。


(まずいまずいまずい! 戦うなんてムリだぞ……!?)


 これがよくあるアニメや小説だったら、異世界に来る前に神様から特殊能力をもらっていて、モンスター相手でも太刀打ちできるのかもしれない。だが、残念ながらそんな恩恵を受けた心当たりはないし、イサムは元の世界では体育だけ成績が悪い究極の運動音痴であった。


(どうする? どうすればいい? 考えろ、考えろ……!)


 逃げるにしても、背後にあるのは切り立った崖である。追い詰められたら終わりだ。

 だとしたら、相手をここから追い払うしかない。

 ひとまず足元に落ちていた木の枝を拾う。鉛筆くらいの太さしかなくて頼りないが、何もないよりはマシだろう。


(これが魔法の杖だったらな。異世界なんだし、魔法のガイネンくらいあるんじゃないか? 例えばRPGだと、空気中に魔素マナがあって、それを集めて魔力に変えて……)


 まぶたを閉じて考えにふけっているイサムであったが、ふと枝を持っている腕がぽかぽかと温かくなる感覚がしてはっとまぶたを開いた。そしてギョッと眼を見開く。イサムが今考えていたことが、赤い文字となって腕に浮かび上がっていたのだ。そしてそれは血液が流れるようにするすると持っている木の枝に向かっていく。ただの木の枝だったはずのものが、熱を帯びていく。


 


 根拠のない自信が、イサムの中で湧き上がった。


「ちょっとおどかすだけだぞ……〈〉!」


 枝先を相手に向けて、即興の呪文を唱えてみた。

 すると、枝先からボウッ! と火花が散り、わずかなあいだ洞窟の中が明るくなる。


「っ!?」


 傘の側にいた何かが驚いて飛び上がった。

 一瞬しか見えなかったが、それはモンスターではなく人、しかもイサムと同じくらいの女の子のように見えた。

 彼女は怯えて一目散に逃げていく。


「あ、ちょっと待って!」


 今の力は一体なんだったのか。気になるが、それは後回しだ。

 イサムは彼女を追いかけた。

 この世界にやってきて初めて会った人。聞きたいことが山ほどある。


 彼女は洞窟を抜け、二つ結びにした紫色の髪をなびかせながら上り坂を駆け上がっていく。山の頂上へと向かっているようだ。


「くそっ、俺より足が速い……!」


 ぜえはあ言いながらイサムは彼女の後を追う。

 汗だくになりながら、なんとか山頂に着いた。


「うううう……! うううううう……!」


 彼女は何かうなりながら、こちらの方を振り返る。

 初めて正面から見たその顔に、イサムは目を疑った。

 いつも俯きがちであまり目立たないが、よく見るとバランスの取れた目鼻立ち。左目の下には泣きぼくろがあって、困った時にはよくそこをかく癖があった。髪の色が違っていて雰囲気も見違えたが、ゆるくウェーブがかった細い髪も彼女のもので間違いない。


「スミレちゃん……? スミレちゃんなのか……!?」 


 目の前にいる彼女は、行方不明になったはずの武部スミレとうりふたつであった。



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A LO■T WOR■D(ア・ロスト・ワールド)【短編児童小説コンテスト用】 乙島紅 @himawa_ri_e

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