火の用心

高校2年の夏、僕んち周辺では放火事件が多発していた。

使われていない倉庫でボヤ騒ぎがあったり、公園の木製遊具から火の手が上がったり、そんなことが数週間置きに起こり、終いには団地の駐輪場を火元とした延焼で、一軒家が丸々炭になるような事態にまで発展してしまった。

ウチの自治体は地元警察や消防との連携が密で、消防団の活動も盛んだったからだろう、ある時「事件収束まで声掛け活動をしよう」なんて話が持ち上がった。

声掛けというとあれだ、昔懐かしい「火の〜用〜心 マッチ1本火事の元ぉ〜」ってやつである。

幸か不幸か祭りで使う拍子木があるというので、いつの間にやら有志を募っての夜回りが決まっていた。

そして、発案元の自治会長が我が家のオヤジだったのが運の尽き。

受験生でない若い人手、すなわち僕と大学生の兄は、夜回りへの参加を余儀なくされたのだった。


午後7時を少し回った頃、夕空のもと第一回夜回りは始まった。

どちらかと言えば夕回りが適当だが、聞くと一連の放火はこのくらいの時間帯に多いそうなのだ。

僕と兄、それから幼馴染みのミチル。親たちに巻き込まれたこの三人が、暮れなずむ町内を練り歩くこととなった。


「火のぉー用ぉー心、マッチ一本、火事の元ー」

高校では演劇部に所属しているというミチルが、持ち前の度胸と腹式呼吸で声を張り上げる。

僕と兄はそれに合わせて拍子木を打つ係だ。


はじめは少し緊張していた夜回りの面々も、数十分と歩けば馴染みの空気になってくる。

なにせ生まれ育った町内を兄弟や幼馴染みと歩いているのだ。どんなシチュエーションであれ非日常からは程遠い。


「あれだな……」

ミチルが声色を暗くしたのはそんな時だった。

煤けた駐輪場の鉄柵てっさく。そう、住宅が全焼した放火現場である。

「ここのおじさん、よく挨拶してたのに……」

ミチルの言葉に、僕と兄も神妙な顔でうなずく。

連続放火事件唯一の被害者であるおじさんは、小中学校の登下校時、団地前を通るといつも優しく声を掛けてくれた人だ。

この人の被害がなければ、いくらオヤジの要請でも僕や兄は夜回りを引き受けていなかっただろう。


「でもちょっと気味悪いよな」

その気持ちもよく分かった。

夕日が沈んだ空はもう明確な光源を持たず、骨組みすら焼け落ちた木造建築を照らすのは、頼りない街灯の光だけ。事件現場の妙な迫力にたじろいだ僕たちは、足早に玄関前を通り過ぎた。


「火の用じ、ん……」

掛け声と拍子を再開してしばらく、後ろを歩くミチルの声が唐突に力をなくした。僕らは何事かと振り返る。

「さっきから、すれ違った人みんななんか言ってね?」

日が落ちたとはいえまだ8時にもならない宵の口だ、外を歩く人は多い。

当然幾人かとすれ違ってはいるが、声を掛けられた覚えはなかった。

しかし、ミチルはなおも言い募る。

「すごい聞こえにくい掠れた声だけど、すれ違ってすぐ絶対なんか言ってる!」


その時丁度、小学生らしい集団が自転車で通り過ぎた。

ーー・がうちが・ちがう・がうちがうーー

微かな音を耳がとらえた。まるで小学生のものではない、低く唸るようなガサついた声。

全身に鳥肌が立ち、顔から血の気が引いていくのが分かる。他の二人の表情も同様だ。


「なあ、なんだよこれ」


ラフな格好で犬の散歩をするお姉さん。

ーーちがうーー

会社帰りのサラリーマン。

ーーちがうーー

ママチャリのカゴにスーパーの袋を積んだおばさん。

ーーちがうーー

すれ違う人のある度、地を這う声が耳を刺す。

「ちがうって、違うって言ってるよな?」

カップルらしき男女。

ーーちがうちがうーー

「言ってんだよぉ、俺の耳元で、言ってんだって……」

ミチルが泣きそうな声で縋る目を向けてきた時、スポーツウェアを着た若い男が走ってくるのが見えた。

すれ違う瞬間、思わず両手で耳を塞ぐ。

ーーみつけたーー

弾かれたように走り始める僕を、声が追う。

ーーみつけた! みつけたみつけたみつけたみつけたあああああーー

走る。走る。走る。走っている最中、すぐそばに兄とミツルの気配を感じ、少しホッとした。


「火の用心! マッチ一本、火事の元!」

怖さを紛らわすためか、ミツルが叫んだ。

僕と兄は夢中で拍子木を打つ。

「火の用心! マッチ一本、火事の元ぉー!」


それから僕たちはなんとか我が家に駆け込み、兄の部屋で三人眠れぬ夜を過ごした。


結局夜回りは一回きりで終わることとなる。世間を騒がせた放火犯が見つかったのだ。

ジョギングしながら手頃な現場を物色していた彼は、その小学校のウサギ小屋に目をつけた。

スポーツウェアに忍ばせた液体燃料を撒き、火をつけたところで、それが服に引火したらしい。

警察と消防が駆けつけた頃には全身に重度の火傷を負い、搬送先の病院で息絶えたそうだ。


近所の人の話では、炎に巻かれ焼けた喉で「俺じゃない! 俺じゃない!」と必死に叫んでいたという。

その低く唸るような掠れ声は、ひどく耳につくものだったとか。

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