2023年 5月中旬

 *


「もう、やめないか」

「……えっ?」


 五月中旬、あの夢を見てから一週間が経過しようとしていた頃、私は佐々木に調査の中止を伝えた。

「ど、どうしてですか?」

 佐々木にとっては予想外の一言のようであり、面を食らった顔でこちらを見ている。


「お前も、薄々気付いているだろ。この件は……あんまり触れない方がいいって」

「それってまさか、あの夢のことを言ってるんですか? でも、あれっきり変な夢は見てないですし、やっぱり今思うと、偶然ですよ。あんなの」


 私も佐々木も、あの日以来、青い女の夢は見ていない。一度きりの悪夢。そう思うのは簡単だろう。しかし、どうしても私は――何らかのメッセージ、警告が込められているとしか思えなかった。

 手を引くなら、今が最後のチャンスだ。もし、これ以上関わってしまったら――抜け出せないような気がする。青い女はフィクションの存在ではない。本当に実在する何らかの怪異だと、私は認識してしまった。


「とにかく、これで調査は終わりだ。お前も、夏から就活があるだろ。そろそろ俺も卒論に力入れないといけないし、タイミングとしては今がベストだ」

「……それ言われると、反論できないですけど」


 就活の話は反則だろ、と言いたげな表情を佐々木はこちらに向けている。分かっている。このような場で、就職活動や卒業論文の話題は禁句だということは。しかし、その禁忌を侵さなければ、彼を止めるのは不可能だと私は判断した。

「でも、せっかくここまで来たのに――っ」

 刹那、佐々木は目を見開き、その場から急に立ち上がった。

 がたん、と椅子を引く音が周囲に響く。


「ど、どうした。急に」

「い、いや……そこ……」


 微かに震えながら、佐々木はテーブルの端を指差す。

 彼の指し示す方向に視線を向けると、そこには――何か数センチ程度の物体が転がるように蠢いていた。

「――っ」

 数秒後、それを視認した私は彼と同様に絶句する。

 そこにいたのは……〝毛虫〟だった。毛虫がテーブルの上を亀の歩みのように、のそのそと移動している姿がそこにはあった。


「先輩。ば、場所、変えませんか?」

「あ、あぁ」


 数十秒間、その毛虫を二人で眺めた後、佐々木の提案により、席を離れることにした。

 私たちが通っている大学のキャンパスはかなりの田舎、もとい緑に囲まれている場所だ。虫も非常によく見かける。私自身も、授業中にカマキリが机を横断している姿を見かけた。つまり、毛虫が現れても、何ら不自然なことではない。稀にある、そう言い捨てられる現象だ。

 だが、今の私の精神状態では――何らかの前兆のようにしか思えなかった。


「……さっきの続きですけど、分かりました。じゃあ俺も、これで手引きますよ。確かに、ちょうどいい頃合いかもしれませんね」


 先程の出来事の影響か、佐々木も調査の中止を了承する。

 こうして私たちの二か月近くに及ぶ青い女の追跡劇は幕を閉じた。ここで降りたのが功を奏したのか、現在のところは私も佐々木も、特に異常はなく、平穏な日々を過ごしている。

 結局、■■山に出没する青い女に関することは何一つ、分からなかった。だが――それでいいのかもしれない。

 前述した通り、この世界には科学的見地で証明することなく、曖昧な存在のままで放置した方がいい者たちが確かに存在している。幽霊がよく出現する心霊スポットに科学者が押し寄せてしまったら、その行為に対してどこか無粋だと思うのは私だけではないはずだ。科学信仰が宗教信仰のそれよりも支持されるようになった現在でも、やはりどこかで目に見えない存在が実在してほしいと願っている。この世界から神秘という言葉が消えてしまったら――それはとてもつまらない世の中だろう。だからこそ、秩序を保つ意味でも、我々が介入してはならない領域があるのだ。


 ……佐々木に対して言い訳をするなら、こんなところか。


 単に私は青い女をこれ以上探ることに対して、言いようのない恐怖を覚えただけだ。最初はAIが出力した画像から始まった調査だったが、徐々に資料を集めるにつれて――疑惑が確信へと変わった。

 ■■山に出没する青い女。その正体について、あくまで推測ではあるのだが、大体の考察は終えている。しかし、それをこの場で綴ることはない。ただ一つ、一つの欠片を繋ぎ合わせること自体が過ちなのではないかという結論だけは述べておく。

 以上をもって、本稿は完結とさせて頂く。ここまでの原稿を読んで、何らかの物語性がある結末を期待した方々には申し訳ない。改めて、謝罪を述べる。



 了

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