第24話 真っ白な事実

「かずゆきっ、かずゆきっ」


 誰かが僕を呼ぶ声が聞こえる。


 切迫した声だ。


「かずゆきっ、大丈夫なの?しっかりしなさい」


 それは母さんの声だった。


 僕は閉じていた目をすこしずつ開いた。


 どうやら僕はベッドの上にあおむけで横になっているみたいだ。まわりは淡いブルーのカーテンで囲まれている。僕の顔を上から心配そうにのぞき込んでいる母さんが見えた。どうやらここは病院のようだ。


「よかったわ。やっと目を覚まして」と、母さんがホッとした表情で言った。僕はそれに応えようとゆっくりと体を起こした。体のあちこちがひどく痛む。そしてその痛みが記憶を呼び覚ます。


(そういえば……、僕は……、マンホールの中へと……落ちたんだっけ……)


「かずゆき、あなたは病院に運ばれて治療を受けたあともずっと眠っていたのよ、すごく心配だったわ」と母さん。


(そうか……、僕はあれからずっと眠っていたのか……。でもとにかく僕は助かったみたいだ)


 大きく息を吸って吐いてみた。そのあとは天井を見ていた。


 母さんが僕の額の汗をタオルで拭ってくれた。相当な量の寝汗をかいていたみたいだ。


「かずゆき、あなたなんだか、いろいろな夢をみていたみたいだったわ。ときどき笑ったような顔になったり、急に怒ったような顔になったり、さっきなんかはひどくうなされていたわ……。でもよかった。かずゆきが助かって本当によかった。たまたま公園にいた何人かの人が、あなたがマンホールに落ちるのを見ていてすぐに助けを呼んでくれたのよ。でなきゃどうなっていたか……」


 母さんは声をつまらせる。でも僕は今の母さんの言葉のある部分に釈然としないものを感じた。


 ── たまたま公園にいた何人かの人が、僕の落ちるのを見ていた……、というところに。


(あんなものすごい嵐の夜に?たしか僕とあの少年のほかには誰もいなかったはずだけどな……。どこか離れたところから見てたってこと?だけど、すごい暴風雨ですぐ目の前の視界さえ遮られていたくらいなのに……。なんだかおかしいな……)


 僕はまだ少しボーッとした頭で思考を巡らせたけど、すぐにやめた。とにかく僕は助かったんだ。そのことをまずは素直に喜ぶべきなんだ。 


 そこで母さんが「そうだったわ」と何かを思い出した。


「そうそう、かずゆき、そろそろ父さんが来る頃よ」


「えっ、国選こくせんさんが来るの?」


 国が僕に選んでつけてくれた父さんのことを僕はそう呼んでいた。母さんはそのことにあまりいい顔はしなかった。相対あいたいするときはちゃんと父さんと呼んだ。


 しばらくして、病室のドアが開く音がした。


 カーテンを押し広げて入ってきた国選さんの顔はとても心配してくれている顔だった。


 でもなぜか、もうぽかぽかの春だというのに、分厚いコートを着込んでいた。そんなに厚着をして、風邪でもひいたのだろうか。


「かずゆき、父さん心配したんだぞ。もう大丈夫なのか?」


 国選さんは大きな手で僕の頭を軽くポンとたたいてそう言った。


「うん、わざわざ来てくれてありがとうございます、父さん」


「かずゆき、なにを言ってるんだ。当たり前だろ。しかし、なにはともあれ、無事でよかった」


 国選さんは何度かうなずいたあとで、肩の荷がおりたようにドサッとベッド脇のパイプイスに腰をおろした。


 ── そのあとで国選さんは何故か不思議な行動をとった。


 彼は両肩についていた白い何かを手で払ったのです。


 僕にはその白いものがなんなのかはっきり見えなかったので何気なく尋ねてみた。


「父さん、今何を払ったの?なんか白いものみたいだったけど」


 なぜか、そう言ったあとで、自分の中に出所不明の緊張感が走った。


「ああ、これか。これは雪だ、雪。外は大雪だからな」


(── 大雪?今は春まっさかりだというのに大雪だなんて。おそらく国選さんは冗談を言っているんだな)


「大雪なんて降るわけないよ。もう春なんだよ。僕が6年生になってから何日も経ってるんだからね」


 僕が大人笑いをしながらそう言うと、国選さんはまるで、季節はずれのものでも見るような目で僕を見た。それはまったく予想していなかった反応だった。


「何言ってるんだ、かずゆき。外は本当にすごい雪なんだぞ。それにまだ季節は冬だ。真冬だぞ。だからかずゆきはまだ5年生だぞ」


 国選さんは真顔だった。どうやら冗談を言っていたわけじゃないみたいだ。


 母さんが「どっか打ち所でも悪かったのかしら」と心配顔で言う。


 ── 僕はなにか大きな勘違いをしているような気がした。それも、とても大事な部分において……。


 確かめるために尋ねた。


「今日はいったい何月何日なの?」


 声が少し震えた。


「えーと、昨日が大寒だから、今日は1月21日だな」と国選された父さんは言った。


 ……1月21日、……今日、……それが意味するもの、僕は……。


 整理しようとすると、その分だけ頭が混乱した。


「かずゆき、あなたは昨日の事故のあとから丸一日のあいだ眠っていたのよ」と、母さんが付け加える。


 僕は心の中で何かを必死につなぎ止めようとした。


(とにかく、落ち着くんだ)


 今日が1月21日で、丸一日のあいだ眠っていたということは、マンホールに落ちた昨日は1月20日ということになる。1月20日といえば、僕が魔球を投げたあの日だ。


(そんなバカな)


 信じられやしない。もう季節は春で、僕はとっくに6年生になったはずなのに……。


 じっとしていられなくなった。この目で外の雪を確かめたかった。だから痛む体にムチ打つようにしてベッドから転げ降りると、母さんの制止を振り切って窓際まで向かい、カーテンを一気に開けた。


 そして、目に飛び込んできた光景は……。


 ── 眩しいくらいの白だった。


 白以外はなにもなかった。


 一面の雪景色を前に、僕は呆然とするしかなかった。気づいたときにはその場にへたり込んでいた。


 あのとき……。


 ブラックホールジャイロを投げたあのとき、そういえば目の前が一瞬暗くなって、落下していくような感覚があった。僕は結局あのときすでにマンホールのなかに落ちていたことになる。少なくともこの雪景色は僕にそのことを強烈に教えてくれている。つまり、ブラックホールジャイロを投げたあのときから始まって、僕にそっくりの少年によってマンホールに落とされるまでの出来事は、すべてたった一日のうちにみた夢だったということになる。


(全部が夢だったなんて……、どう受け入れればいいんだ……、僕は……、ねえ、みんな……)


「母さん、教えて。僕は何でマンホールに落ちたの?」


 へたりこんだままで外に舞う雪を見たままでそう尋ねた。


「それがね、不思議なのよ。目撃していた人もよくわからないって言ってるのよ。それからね、かずゆきが助け出されたあと、マンホールの中からひとまわり小さくなっってしまった鉄の蓋が出てきたの。事故の調査をしていた専門家の人もこんなことはありえないって言ってたわ」


 たしかに、マンホールの鉄の蓋が突然ひとまわり小さくなったなんて、普通ならあり得ない話だ。あのときのアヒルの大きな声にびっくりして鉄の蓋が縮みあがったとでもいうのだろうか……。それとも、変光星アル・マーズがその明るさを変化させるみたいにマンホールも大きさを変えたとでもいうのだろうか……。僕にはそんなことくらいしか見当がつかなかった。


 だけれども、今の僕にはそんなことはどうでもよかった。


 心の中は夢の中でみんながいなくなったときよりもさらに空虚だった。三人が夢の中よりもさらに遠くに行ってしまったように感じた。


 手が届かないどころか、手を伸ばしようもないくらいどこか遠くへ……。


 僕はみんなの顔を順番に思い浮かべた。みんな笑顔だった。忘れられないと思った。やがて僕の記憶が流した涙によってみんなの笑顔は崩れて消えた。


 その日、雪はいつまでも降り続け、僕の心のなかにまで降り積もった。

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