第6話

 彼女を傷つけて数日が経った。あの日以降、僕は日常生活を普段道理にこなすことができたが、脳内の片隅に常に―彼女のことがあった。おかげで―なににも集中できないし、なににもやる気が出ない。

「お疲れ様です」

 けれども―バイト先の社長、もとい塾長のもとにいって、手渡しの給料をも貰わなくてはならない。

 これも―日常だ。

「よう」

 塾長は短く挨拶をした。多少着崩したスーツがさまになっている。茶髪の借り上げに、鋭い眼光。それでいて―国立大学卒業なのだから、人は見た目によらない。

「これが―今月の給料な」

 そう言って―4万3258円を僕と共に確認して、封筒にしまって渡してきた。

「お前―なんか悩んでんのか?」

「分りますか…?」

「そりゃな。お前が浪人生の頃からの付き合いだからなぁ」

 ははっ。と頼もしく笑う。3年も―付き合いがあれば、それはもう―顔に書いてあることぐらい分ってしまうのか。

「それに―オレは、塾講師して長いからな…。20年か。だから―人間観察は得意なんだよ」

「なるほど…。僕には―まだまだですね…。そういう能力」

「発展途上なだけだろう?あんまり―他人と比べるなよ」

「そうですね…」

「で、何かそうだんがあるんだろ?」

「そうですね…。僕の教え子のことです」

 僕が言うと、塾長はそれだけでなにかを把握して、ひとりで納得して―少しうなずいて返答した。

「あの―真壁さんのとこだろ?苦労するよ―あそこは」

「なんですか―それ?」

「ああ、この前電話があった。娘の成績が上がらなかったら―家庭教師を変えますってな。困ったもんだよ。こっちだって―そんなに、講師に余裕ねぇってのに」

 割と彼女の両親って―ヤバい奴なのでは?ふっと、そう思ったが、黙っておいた。

「まぁ―成績が上がり辛いってのは再三、言っておいたけど―どうなるかねぇ」

「まぁ…それもありますね…。確かに」

「あっ?それ以外にもあんの?」

「あっと…なんと言うか…。その真壁さんのこと―僕が信じてあげられなくて…」

 今までのことをかいつまんで説明する。課外授業のことはバレたら―叱られるので省いた。

「ああ…。それは大変だな。まぁ…。そうだよな。生徒のこと100%で信用しても、できないこと、できることは―限られてるよな」

「そうですよね…。でも―その…。少なくとも僕が、信じようとしなかったところが…よくなかったかなって」

「まぁ…生徒は信じたいよ。オレもそう思う。けど―生徒を信じること、それができることは―別だぜ」

 それはそう。僕がそんなに頑張ったって―生徒ができないものは、できない。どんなに努力しても―届かないものはある。

「まぁ…。そうですね…。僕もそうでしたしね」

 やれる限り勉強をして、無理をしてでも勉強をして、なにがなんでも勉強をした。そして当時の僕の家庭教師は僕を信頼していたはずだ。

 それでも―志望校には届かなかった。

「お前は―単に努力不足だろ?」

 少し皮肉に―塾長は言った。けれども悪意は感じられない。

「ストレートの直球って怖いな…。真地面に勉強は―してましたよ?」

「冗談だ。でも―そうだよな…。でも、そういうもんだろ?」

「そういうものですかね…」

「でもいいんだ、できなかったことは―できないで。別にそれは、恥ずかしいことじゃない。なんでもできるってのがおかしいしな」

 できないことは―できないでいい。多分―正論だ。間違いなく―正論だ。確かに挑戦すること―なんでも成功するのはおかしい。

「それが―認められない人間は多いよ。特に―若い人は」

「僕も―そうですね」

「それが―理解できてない、お前じゃないだろ?そういう意味じゃ―もう社会人に近いよ」

 いや―理解してる…理性では。けれど―それに反対したい自分もいる。だって、虚しいじゃないか。

「まぁ…。そういうことだ…。もうそろそろだよな―真壁さんちの子の定期試験?」

「明日からです」

 そう―明日から、彼女の実力が試される。多分、今も死にものぐるいで、限界を迎えながら―頑張っている。

「ここまできたら―もうなにもできないだろ?今更」

「ですね」

 僕は多分―不愉快そうに、ぶっきらぼうに、不満げに答えた。あまり―塾長に賛同したくなかった。

 なにもできないのは―分っているのだけれど…。

「まぁ―これで、真壁さんの家庭教師を落とされても―お前には家庭教師続けられるように配慮するよ。給料も今まで通りに出るようにするから―心配すんな」

「それは―いいですね」

 上の空せで返事をした。僕は―心配だったのだ。僕自身のことではなく―教え子の真壁愛莉のことが。他人ごとではなく―自分事のように心配だった。

「それでは―お疲れ様でした」

 僕はそう言って―その場を後にした。

「おう」

 後ろの塾長がそう言っているのが聞こえた。

 帰り道で考える。僕はもうこれ以上―なにもできないのかと。大人しく引き下がるしかないのかと。

 なにもできないのは―分りきっていた。

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