かみかくし

こくまろ

かみかくし


 ハゲたくねぇんだよマジで。


 とにかく一本でも多くの髪の毛がしっかりと俺の頭部を覆っていてほしい。ルッキズムだのなんだのと言われてもこれが俺の切実な、偽らざる本心。数日前、「ハゲたくない」と部下の川嶋の前でぽつりと漏らしてしまったところ「いや課長、それハゲたくないじゃなくて『ハゲたくなかった』でしょ、もうハゲてるんだから(笑)」と言われたがブッ飛ばすぞボケがよ、と思った次の瞬間にはもう川嶋はブッ飛んでいたし次の日から会社に姿を見せなくなった。幸い誰も見ていない所での出来事だったので俺の正当な暴力と愚かな部下1名の連続欠勤を関連付ける者はいなかったが。

 大体な、己の目に付きやすい人の前頭部ばかりを見てハゲたのハゲてないだのと判断すること自体視野が狭いと言わざるを得ないんじゃないのか。見ろこの黒々とした後頭部の毛量を。ここが大事なんだろうが。頭部全体の平均で見たらまだまだハゲてるとはとても言えないだろうが。物事は表面的な部分だけで判断してはいけない。一見では分からないところこそ重要なのだ。まぁ俺の頭をじっくり近くで見られても困るけどな。

 しかし俺にとってより深刻なのは現在ではなく、将来のことだった。しかも、恐らく、ごく近い将来の問題。もはや誤魔化しが効かないレベルで俺の頭部は徐々に前から後ろへと残酷かつ深刻な砂漠化に侵されていた。最初は「おでこがちょっと広くなったかな?」と思い込もうとしていたが、もうどこまでが額でどこからが頭頂部なのか自分でも分からない。俺のデコはこんなに天を向いていただろうか。


 最近は仕事中もこうした頭髪に関する雑念に脳のメモリの約7割が支配されているが、そんなことはおくびにも出さずに残る3割を稼働して、何人かの使える部下に指示を出しながら課内の仕事を回していく。元が優秀なのでこの程度は造作もない。神は優秀な頭脳を包むに相応しい外殻を用意してはくれなかったようだが。

 そもそも俺に限らず100%仕事に集中している社会人なんて稀だろう。雑念だけにとどまらず、雑談、タバコ、やたら長いトイレ休憩を取るやつもいる。ちょうど今も、部下二人が雑談している声が課長席の俺の耳まで聴こえてくる。


「最近、川嶋くん見かけないじゃないですか。どうしたんだろうなって。仕事で悩んでるような様子はなかったと思うんだけど。」


「なんか嫌だよねぇ。アパートにも行ったけど、いなかったみたい。最近、行方不明も多いみたいだし、心配よぉ。ほんと、神隠しにあったみたいに急にいなくなるんだって。うち、子どもが高校生と中学生だからもぉ怖くて」


 『かみ』という単語が聴こえて一瞬びくっとした。な〜〜〜にが神隠しだ。そんな神よりこっちの髪が御隠れになる問題の方が百倍深刻だわ。それに、行方不明が多いのは最近の問題じゃなくて昔から腐る程ある。行方不明者数が年間どれだけいるか知ってるのか。社会全体で見れば一個人の失踪なんて大した問題じゃないんだよ。ましてや川嶋なんて尚更どうでもいいだろ。あんな奴のこと気にしてる暇があったら仕事しろ仕事。

 部下への文句を脳内でぶちまけていると、視界の端で課長補佐の林がこちらに近寄ってくるのが見えた。


「課長、部長が例のあれでお呼びですので……部長室までお願いします。」


 それは、本日の残業確定のお知らせだった。

 優秀な俺にもできることとできないことがある。できないことの一つが飯山部長のコントロールだ。この部長はとにかく『勉強会』と称する一秒も意味のある瞬間がない演説を延々とやるのが趣味の男だった。毎回の犠牲者として、次長と俺含めた課長三名の計四名は確定。管理職は残業代が出ないから安心して居残らせられるという魂胆だろう。ここに加えて各課の課長補佐やら担当係長が数名呼ばれたり呼ばれなかったりする。

 ほぼ自慢・自画自讃で構築された演説を気持ち良く喋ってるうちはまだマシで、毎回ターゲットを定めてネチネチネチネチ嫌味を言うのが常だった。一度、部下達に「全く、あんな言い方されると頭に来るよなぁ」と同意を求めたところ、


『確かに課長の頭はかなりキてますよね』


と川嶋から真面目くさった顔で返された。今考えると消えて当然の男だな、こいつ。


 部長室に入ると既に面子は揃っており、部長は既にエンジンを温め終えていつでもアクセル全開OK!といった感じだった。


「おう、大口くん、君んところの話をしようと待ってたんだよ。上を待たせるなんて偉くなったな。全く何させても遅い割にな、君は。」


 本日のターゲットはどうやら俺らしい。


「は!申し訳ありません!」と元気よく言いながら席に着く。紙の資料が置かれているが、どうせ真面目に見ても意味がないことは分かっている。


 「君なぁ、全然部下のことが見えとらんだろ?え?さっき報告受けたこれな、全然わしは聞いとらんかったよ。君んとこは全然エスカレーションがなっとらんよな」


「はっ!申し訳ありません!」


「どいつもこいつも、自分の仕事以外なんも見えとらん。これも課長に似たんだろうなぁ。まぁ平はそれでもいいけどな、課長まで平並だとな、これ困るのは、わしみたいな上の人間なんですわな。君が頼りないとね、わしがいつまでもな、課長みたいな仕事せにゃならん。な?君の仕事をやってあげてるわけ。部長が課長の仕事させられてるようじゃあ、こりゃもう、社としての損失だろうが。」


「はっ!仰る通りです!」


「君なぁ、大口くん、戦略・マーケティング課長なんて立派な肩書背負ってるんだから、そろそろちゃんと戦略らしいモンを見せてほしいもんだよ。あんの、戦略。いつも行き当たりばったりばかりで。しかし大口って、君の名前はよくできとるな。口先ばっかで結果がちっとも出てこん。名が体を表しとるわ。ワシが課長やってた時はな」


 はっ、申し訳ありません!

 はっ、申し訳ありません!

 はっ、申し訳ありません!

 はっ、申し訳






 午後10時、マンションに帰宅。結局『勉強会』は3時間に及んだ。話が長いんだよアホ部長がよ。その後、『勉強会』終了間際に気まぐれで出したとしか思えないいくつかの指示をこなして結局この時間。

 鍵を開け、部屋の明かりをつける。誰もいないがらんとした部屋。広さがかえって寂しさを感じさせるのは俺の額と一緒だなと思う。馬鹿な。自虐はやめろ、何一つためにならない。

 上着を脱ぎ捨てる。冷蔵庫からビールを取り出してテレビをつける。『…からこそですね、森林消失は我々がもっと深刻に考えるべき問題なんです。こうしている間にも一秒間にテニスコート15面分もの森が消え』テレビを消す。髪の毛の減少を少しでも意識させるような話題は聞きたくなかった。最近はもうオセロの盤面の黒が減っていく様子を見るだけで気分が悪くなる自信がある。


 実際のところ、俺は部長からの嫌味・侮辱・恫喝に関しては全く応えていない。長時間の拘束はムカつくが、頭髪への不安に比べたら屁みたいなもんだ。これは俺が部長のことを本質的に大したことない奴だと思っているからだろう。格下相手に何を言われても俺の芯には響かない。しかし頭髪のことだけは別だ。それは持つ者から持たざる者への残酷な一撃だからだ。

 川嶋がスキンヘッドだったら、きっと俺はあの侮辱を許しただろう。しかし、あいつはアフロだったのだ。


 ソファにどかっと座り込んでビールを浴びるように飲む。部屋の隅にある姿見にちらりと目をやる。ハゲを気にし始めてからはずっと布を被せたままにしてある。鏡を見るのが、意識するのが怖いのだ。外を歩いていても人の頭部をついつい見てしまうのだが、後頭部まで綺麗に禿げ上がっている人を見ると絶望してしまう。おお、俺もすぐにああなってしまうのか?あそこまでいくと、もう取り繕えない。

 病室の窓から見える樹の葉が、一枚また一枚と離れていく様子を自分に重ね「あの葉っぱが全てなくなった時、私も死ぬのね……」 と儚げに呟く少女のような気分だった。一本、また一本と抜けていく髪の毛、これが全て抜け落ちた時、俺は社会的に死ぬのだ……。

 気分転換のためにもう一度テレビをつけ、録画しておいたネイチャー・ドキュメンタリー番組を再生する。他人にはあまり言えない趣味だが、俺は動物の捕食シーンを見るのが好きだった。特にヘビが好きだ。ヘビは良い、本当に。自分の体よりも大きな相手ですらその口をかっ開いて丸呑みする光景、気持ち良いんだこれが。ふと、部長の丸々としたシルエットを思い浮かべたが、苦笑してかき消す。あんな不味そうなおっさん、アナコンダでも遠慮したいだろう。


 とにかく、部長のことはさておき、頭部の対策をなんとかしなければならない。やはりよく言われる抜け毛の原因としてはストレスが一番の敵らしいのだが、俺の場合専らのストレス要因は抜け毛のことなのだ。つまり、抜け毛→ストレス→抜け毛→ストレス と最悪の円環を成している。

 シャワーを浴びたあとの排水溝、起床後の枕を確認するたびに、かつて俺の一部だったもの達を発見する日々。今まで俺を守ってくれてありがとうな、でも、もっと一緒にいてほしかった……。思い浮かべる感謝と惜別の言葉、その裏で湧き上がる強烈なストレス。それが頭部という土壌に毒みたいに染み渡り髪の毛は枯れゆく植物のように力を失っていくイメージが想像される。頭のことで頭を悩ませるのは自分の尻尾を追いかけて回る馬鹿な犬になったような気分だが、この堂々巡りからどうしても逃れられない。人の視線がとにかく気になる。気にすれば気にするほど髪の毛が失われ、髪の毛が失われれば失われるほど不安が募る無限地獄…………

 

 もちろん俺もただ手をこまねいていたわけではなく、頭皮のケアや育毛剤など自分でやれることはなんでも一通りやってみたし、今もやっているし、毎日ワカメをドカ食いしているが、目覚ましい効果は未だに感じられない。むしろ育毛剤に関しては、かけ過ぎて一度誤って口に入ってしまい大変苦しい思いをした。あのストレスで抜け落ちた毛もあったのではないか。かと言って、植毛という手段も受け入れられない。他人がじっくりと俺の頭を……考えただけでゾッとする。絶対に無理だ。却下。


 とにかく進退窮まった俺は抜本的な対応に迫られていた。すなわち、もはや頭部に何かを被るしかないのではないかと。何かを、と言っても当然帽子は選択肢から外さなければならない。いやしくも大企業に勤めるサラリーマンとして、30人弱いる部下に範を示すべき管理職として、業務中、ましてや来客の前でこれ見よがしに帽子を被ったままでいるなど言語道断だろう。

 となると、自ずから方法は限られ、あたかも自然な、人間の頭部に見えるようなものを選ぶことになるのではないだろうか。さらに言うならば、そういったものを選ぼうとすると髪の毛が黒々と生えているように見えるものの方がたまたま品数多く取り揃えられているため、結果的に髪の毛がまた生えてきたように見えるものを被ることになるのではないか。結果的に。

 心無い人間はこれをまがい物だ自分への偽りだと馬鹿にして笑うかもしれないがよくよく考えなくともそれはおかしい。身体に衣服を纏うように、口鼻をマスクで覆うように、頭部に頭部っぽいものを被って何が悪いのか?時代の風俗によっては歯を黒く塗っていたことを思えば頭部を黒く覆うこともなんら不自然ではないのではないか?若干問題のあるとも言えなくはない箇所をそれとは分からぬよう、人に見せぬようにと心配りをするのはむしろ社会人としてのマナーと言えるのではないか?人の気遣いを見栄だの諦めが悪いだのと馬鹿にする奴の方が下劣な品性を晒していると言えるのではないか?



 というわけで、完璧な心理的理論武装を経て、俗に言うカツラを被って堂々と出勤してみたのが今日。仕事では常に鈍重・鈍感ぶりを発揮し日々私を驚かせる愚かな部下達が、まさか上司のこんな些細な身体的変化には気付くまい、と思っていたが、この手の連中というのはどうでも良いことに限ってはやたら目敏いらしく、視線がチラチラとこちらに向けられるのを感じる。クソが。お前らも隠したい秘密の一つや二つあるだろうが。気付かないふりをするのが社会人の付き合い方ってもんだろうが。怒鳴りつけてやりたいが怒鳴ってしまったら折角の『自然さ』が台無しなので黙っているしかない。煩わしいが、無視して業務に打ち込むことにした。







「あのぅ、課長、これの決裁をいただきたいのですが……」


 昼休みがあけて間もない頃、おずおずと稟議書を持ってやってきたのは庶務係の天野君だった。仕事が早くてよく気が回る、若いながらも課内で存在感を発揮している貴重な人材だ。


「なんだ、物品購入の決裁か。定例のものだし、こんな金額ならわざわざ持ち回りまでしなくていいよ」


「えぇ、そうなんですけど、ちょっと確認いただきたい点がありまして、ここなんですが……」


 彼女の細い指が稟議書に貼られた付箋を指す。こっちが本題か。なんだ、こっそりと。内緒の相談か?

 付箋に目をやると、細い文字で短く、簡潔にこう書かれていた。




『ズレてます』




 馬鹿な。

 言うに事欠いて俺がそんなミスを初日からそんな馬鹿な。だが目の前で申し訳無さそうな表情で決してこちらと視線を合わせようとしない天野君を見るとどうにも真実らしく、いやしかしそんな。そもそもズレているってどうズレているんだ、右か左か後ろか前か。俺の頭部の頂点をAとした場合カツラの頂点BはXYZ軸方向にそれぞれ何mmズレているのか。

 混乱しながらも顔には出さず努めて平静を装い、笑顔を絞り出す。


「……あー、そうだな、これは私の方ですぐに確認しておくよ」


「えぇ、是非そうしてください」


 気持ちを込めて言うのやめろ。とにかく確認しなければ。逸る気持ちを抑えながら不自然じゃないギリギリのスピードで執務室を飛び出し、トイレは駄目だ、今誰か入っていくのが見えた。廊下を走り、人気のない離れたところで倉庫部屋を見つけて滑り込む。窓に駆け寄り鏡代わりに覗き込みうおおおおお本当だめちゃくちゃズレてる!!!右に!!右だったか〜。いや、右だったか〜ではない。なんてことだ!!!いつからだ?ハァ、ハァ、落ち着け。多分アレだ、昼前に来た取引先の執行役員がお帰りになる際に何度も頭を下げたからだ。でも、今思えばその前から執行役員の顔は何かを堪えるような表情をしてはいなかったか。いや、それを言うなら出勤してからの部下達の視線もおかしかったではないか。じゃあなぜ天野君はもっと早く教えてくれなかったんだ。いや待て、彼女は今日は午前中休みを取っていたのだった。となると、もっと以前からズレていた可能性もある。通勤時はどうだったか。あの電車で隣に立っていたサラリーマンの含み笑いのような表情は……





 外したカツラを見つめながらしばらく放心していたが、だんだん落ち着いてきた。過ぎたことは、しょうがない。カツラがちょっとズレていたのは確かにミスだった。だが、まだ致命傷ではない。恥ずかしいだけだ。重要なのは小さいミスを今後に活かして深刻なミスを回避することだ。

 冷静になるとカツラのメリットも課題も見えてきた。やはり、付けていることによる安心感は確かにある。人の視線から頭部を守ってくれるバリアーのように感じる。しかし、その安心感から油断して今日のようなズレが起こると、社会的な致命傷となる可能性もある。また、ズレないようにするのも大事だが、あまり装着をしっかりし過ぎると窮屈で。密着感と通気性のバランスが課題だな……


 独り考えに耽っていると、後ろからヒィッとか細い悲鳴が聴こえた。

 あ、しまったな、と直感的に己の失敗を悟った。考えているそばから、深刻なミスをしてしまった。


「か、課長、な、なんですかそのあ、頭の、頭に、」


 油断していた。ドアを開けっ放しにしていたのも良くなかったし、恐らくカツラの横ズレのせいか外したときの勢いで、のだ。そしてこの声は。


「あぁ、天野君か。見ちゃった?」


 怯えて呂律の回らない様子の彼女に、俺は背を向けたまま語りかける。

 不思議なもので、最悪の事態が起こる前はあれほど心配で苦しいのに、一旦起こってしまえば自分でも驚くほど冷静になる。


「あ、あ、あの私、課長が戻らないから、心配で見に来て、いえ、なんでもないです。戻りますね。見てないです何も見てないです、何も言わないです」


 彼女は、腰が抜けて動けなくなっているようだ。あぁ、良かった。どうやらこのミスは、まだ挽回できるようだ。


 後ろ向きのまま、歩み寄る。


「申し訳ないけどな、見たからには消えてもらうしかないんだ。いやぁ、いつも気を付けてちゃんと髪で隠してるんだけどな、今日はまぁ、失敗した。」


 申し訳ないと言いながら、涎が溢れ、うなじを伝うのが分かる。そういえば、川嶋以来、ワカメしか食べてなかったなぁ。

 

「いや、お願いします。やめてください。お願いしますお願いしますお願いします」


 それにしても、流石に身近なところで連続で二人はやり過ぎかもしれない。だが、まぁ大丈夫だろう。行方不明なんて、珍しいことじゃない。そして、何の痕跡も残さなければ、疑われる道理もないのだ。


「さっきは親切に教えてくれてありがとうな。じゃ、いただきます。」


 俺は後頭部にある大きな亀裂を、彼女に向けて思いきり開いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かみかくし こくまろ @honyakukoui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ