十七月の歌

未来

病めるものに世界は微笑む

 それはレールを外れた十七月のことだった。その春に僕は自然が美しいことを知った。甘い香りが漂い、目をやれば若葉や柔らかい花々。それだけのことで僕の心は大きく揺さぶられた。それと歩調を合わせるように芸術のなかにも世界が微笑むのを知った。文学に呼吸ができる場所を見つけ、絵画に美しき瞬間を教わった。


 両親は山羊と狂犬だったといえば説明しやすい。その関係は年々悪化し、テーブルが折れ、窓ガラスが割れ、僕は居心地が悪かった。そして僕が高校三年のとき、山羊は女を作って帰らなくなった。ビザが切れそうな子持ちの外国人だった。しかし養育費をもらっていたし、その人生にも収まりどころがあったことに僕は安堵していた。一方狂犬はといえば、飲み屋で見つけた煙草臭い男を家に連れこんでいた。狂犬はクレジットカードを使いこみ、僕の大学の入学費は消えていた。差し押さえの管財人たちが鍵を開けて入ってきたとき、僕は進路をなくしてひとりで家にいた。

 僕にしても何をしていくかという判断を保留していた。居場所をなくしては図書館やファミレスに逃げこみ、知識を得ることで不安から目を逸らしていたが、恐怖症の発作――それは狼に囲まれる夢を見たり、押し入れに獣人を空目に見たりすると起こり、扁桃体を直接刺激するような恐怖感を与え、歯をガタガタ揺らした――に襲われるようになった。その春に世界が微笑むのを知り、それからというもの希死念慮を吹き飛ばすような生の肯定を芸術に探した。僕はそれを生の芸術と呼んだが、不死をかなえる石のように存在しなかった。

 その日々においてひとつ支えとなったのが、甲浦という街だった。叔父が四国に連れて行ってくれたときたまたま滞在したその街は、トンネルを越えた終着駅にあり、野晒しの高架からは小さな街と、森に切り取られた海が見えた。右手の途切れた線路の先には田んぼがあり、人は見当たらず、海までは慎ましい家屋が並んでいた。僕は通路に留まって、山と海のあいだでひっそりと息をする街を眺めていた。不思議なことに、まるで長い長い旅から帰ってきたような気分だった。いったいこの街の何がこんな気分にさせるのだろうか? 山と海が優しく包み、街並みが暖かく両手を広げている。――僕はこの街に受け入れられている。そう感じた。そしてその街で生きることを思い描くようになった。


 しかしこの生活は限界を迎えた。そのきっかけは暴力的な衝動が頭から離れなくなったことだった。もう一人がしつこく言った。

《殺したらどうだ?》

 これまでも空想や夢に試したが、事後の後味の悪さに――閉ざされる未来に――呆然として思い留まってきた。だがもはや抑制が効かなくなりそうなくらいの殺意に取りつかれ、その対象は通行人でも電車を待つ人でも関係なくなった。僕はあの街に逃げることにした。「そこで生きるか、死ぬかだ」と決意して。

 だが翌日街につくと、自分勝手な憧れとの落差に戸惑い、歩いて砂浜に腰を下ろして海を眺めて、ここに生活はないと諦めて、別の駅に移って山に入った。しかし風に揺れる枝葉がどうにも不気味で、追い返されるように転げ出てきて、呆然とあぜ道を歩いて、どこにも受け入れられない気がして、日が暮れてきて、思い切りもむなしく、枯れ草の中の物置きみたいな駅にしおれて、ボロ雑巾を絞った最後の一滴みたいに、「小便臭い人生だな」と吐き捨てて、自分を蔑んだ。羞恥によって死にたがり、希望を捨てられずに死にきれない、浅はかな自分の輪郭を見つめていた。


「ねえこっちこっち」

 突然の女児の声に、僕は顔をそむけた。女児と若い母らしい女性だった。女性は、うなだれて靴のあいだの土を黒くしていた僕のそばまで来ると、身をかがめて静かに声をかけてきた。

「大丈夫ですか?」

 答えるためには咳払いが必要だったし、しゃくりあげるのじゃないかと思って、答えられなかった。女児が見上げて目を合わせる影を西陽が映した。しばらくして女性は隣に腰かけた。僕は顔を両手でぬぐって咳をしてから、切れ切れに訊ねた。

「ここに、生活は、ありますか?」

 すねた子供がするような憮然とした声色に、嫌な気がした。

 女性は僕の肩にそっと手をふれて、ゆっくりと答えてくれた。

「ありますよ」

 なんだか受け入れられている気がして、僕はまた顔を隠した。そして上手く返事ができず、「すむません」と謝った。


 暗くなってきた頃に女性が訊ねた。

「うちに来ませんか?」

 僕は頷いた。


 歩く二人を追って駅から離れ、ちょっとした峠を越えてあぜ道を進み、着いた先は、田畑に点在する一軒家のひとつだった。女性は「少し待って」と玄関前で留めると、中に入っていった。僕は「はい」と返事をした。歩いたせいか普段の声が出せることに気づいた。戸の曇りガラス越しにもうひとりと話をしているのが見えた。二三言交わした様子で、一緒に年配の女性が出てきた。

「大変だったね。ごはん食べていきなさい」その女性は僕を招き入れた。

 四人で居間のテーブルを囲んでソファに座った。居間はそれほど広くなく、テーブルとソファのあいだを移動した。

「帰らなくて大丈夫なの?」

「帰るところはありません」

「そう……辛かったね。ごはん用意するから待ってて」

 僕は言葉が出ず、頭を下げた。

「アオイちゃん手伝ってくれる?」と年配の女性が訊くと、女児は「うん」と返事をして駆けだした。


「私はミカワ ナギ。海の凪」

「自分は」と僕は名前を言った。

「天国の景色? 珍しい名前だね」と訊かれ、僕は頷いた。

「二十歳はこえてる?」

「今年で二十一です」

「そうなんだ、私は二十六」

 話しているうちに準備ができたとのことで、五つ椅子のある食卓に集まった。金平ごぼうや高菜、鯵(あじ)、五穀米、味噌汁。心暖まる料理だった。

「とても美味しいです」

 僕はまだ水深三メートルくらいにいて、気の利いたことは言えなかった。

「どこからきたの?」

 僕はその質問に東京と答え、名乗った。年配の女性は薫、女児は葵といった。葵は薫の娘(凪の姉)の子だった。

「何があったかしれないけど、今日はゆっくりしていきね」

「こんな良くしてもらって」

「気にしないでいいんだよ。ごはん終わったら風呂入って二階で寝ていいから」

「泊まっていいのですか?」

「まあ悪い人じゃなさそうだし、帰るとこないんだもんね」

「はい、すごくありがたいです」

「もしずっといたかったら、うちは男手がないから、力貸してね」


 食事を終えると、二階の一室に通してくれた。まだ出来事に現実味がなかった。――ここに僕の生活があるのだろうか? その答えは分からないが、生かされた――少なくともいくらか猶予ができた――そういう気分だった。凪が二階に来て、「これ使っていいからね」と男物のパジャマを貸してくれた。風呂上がりに着ると少し短かったが、この家に溶けこんだようで嬉しかった。


 翌朝、早くに目が覚めた。鳥の声が聞こえて、見知らぬ天井を見て、昨日のことを思い出した。カーテンを開けると、まっしろな曇り空が部屋を光で満たした。僕はその光に救済を感じた。世界という女性が光の中で手を差し伸べるような祝福を感じ、これは救済だ、と胸が高鳴った。僕は何度か深く呼吸してその暖かい光に浸った。それから一階に降りると、薫さんは朝ご飯の支度をしていた。

「テンくんおはよう」

「おはようございます、早いですね」

「目が覚めちゃうのよ〜」

 僕はトイレを借りて、意を決して、キッチンに戻って訊いてみた。

「薫さん、ここに置いてほしいのですが、仕事ありませんか?」

 薫さんは手を止めてこちらに来た。

「うちはね、幸い余裕があるし、畑もないから、たまに草とったり、家事の手伝いをしてくれたらそれでいいのよ。でもこの街には若い人が少ないから、街の人を助けてあげてね」

 もっと大変な条件を想定していた僕は、あっさりと生活を認められたようで拍子抜けしてしまった。しかしその言葉に報いるべく活動を始めた。


 朝食を終えると僕は近くを歩いた。道々で視線を感じたが会話はできず、夕食時に「薫さん、一緒に挨拶してもらえませんか」と訊いてみた。「よろこんで」と答えてもらえたので、明くる日、薫さんが親戚を預かっている体(てい)で挨拶まわりをした。済ませると街の人たちとの距離がぐっと縮まった。何をしてる家なのか、困ったことはないかを訊いて回ったので、まずはそのリストをクリアしていった。畑の手入れや池の掃除、建築の手伝い、そんなことだった。薫さんが根回ししてくれたためか、仕事のあときちんとお金をくれた。思い思いの額だったけど悪くなかった。初月は二万円ちょっと。薫さんに報告して全額渡したが、返された。

「お金は入れなくていいから、続けなさい。そのお金はとっておいてね」

 なんとなくこうしてやってれば、ここに居ていいんだと思えるようになった。次月からは、わずかながら食費分を受け取ってもらうようにした。


 三ヶ月目に入ると、僕は凪と寝た。休日の昼過ぎに花火をした帰りに大粒のにわか雨がやってきて、土手の坂で足を取られた彼女を抱きあげて、紺色の下着が浮き出たのを笑うと絡みついてきて、足下の茂みの中で思うさま口づけあうと、彼女は「あとで部屋に行くね」とささやいた。事が済んだあと、僕には察しのつかない地殻変動のように涙が出てきた。何故だろう。受け入れられて? ――そう思い改めてみれば、物心ついてから初めて人を信頼してる気がした。だが感情が追いついたのはしばらくあとだった。

 僕が落ち着いてから、凪は鍵のついた箱を開けるように教えてくれた。

「お姉ちゃん、明るくてきれいで評判だったのよ」

「三人を見てると想像つく」

「お義兄さんが亡くなって、お姉ちゃんはお寺に入っちゃったの」

「葵ちゃんを残して?」

「そう、旦那さんの死に方がショックで。……奥の締めきってるガレージあるでしょう。あそこで首を吊ってたの」

 僕はゆっくり頷いた。

「こういうと気味が悪いかもしれないけど、最初にあなたを見たとき重なったのよ、お義兄さんが。抱えてるのよ、もっと何かできたんじゃないかって。あなたの助けになれることが、私も母も嬉しいのよ」

 凪はそのように打ち明けて、少し声をひそめて続けた。

「……うちに余裕があるのって、保険が下りたからなの。お医者さんが死因を変えてくれて」

 凪は彼女たちの好意の背景を説明して、安心させようとしてくれたのだと思う。彼の服や部屋を使わせてもらってることを、僕は嫌だとは思わなかった。

「教えてくれてありがとう。めぐり合わせに本当に感謝するよ」


 この生活も一年して、これからどうしようかと考えはじめた頃、僕は隣で横になっていた凪に話をした。

「みんなのおかげで居場所ができて、まともになれたなって思う。けど最近このままでいいのか考えるんだ。もっとできることがあるかもって。生まれたからには大きいことしたいって気持ちもある。……東京の大学に行って可能性を広げるのってどう思う?」

 凪はごそごそと起き上がって言った。

「それ大賛成よ」

 そして考えてから付けくわえた。

「よし、もうエッチするのやめよう」

「え、なんで?」

「これからのことをしっかり受け止めて、自分の選択をしてほしいのよ」

「そんなこと、同棲だって遠距離だってあるでしょう」

「私は大学に行って、東京で働いて、いろんな人を知って、選んでここに住んでるの。テンは選択肢もなく決めようっていうの? 私は邪魔したくないよ。それでも私を選びたいんだったら大きくなってまた惚れさせなさい」

 僕は凪の言葉にギャフンといって、これが最後と言いながら何度もキスをせがんだ。

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