スラファトの過誤


 閉ざした壁の奥から二人分の足音が遠ざかっていくのを聞いて、スラファトは今にも座り込みそうな体を支えるように、どうにか壁に背を預けた。


 体のあちこちがぎしぎしと軋む。右の拳も壊れていることだろう。いったいどこまでが他人の血で、自分の血なのか、すっかり区別が付かなくなっている。

 当たり前だ。そもそも“この体”は“この力”に耐えられるように出来てはいないのだから。

 あのダークエルフに負ける気はしないとは言ったものの、万全の状態でないのはお互い様だった。実際勝てるかどうかは五分五分といったところだっただろう。


 特別製の手錠のせいで身体魔法は扱えず、普通なら立つことも難しいほどの満身創痍のくせに、あの隙の無さ。

 もとよりダークエルフは揃いも揃って戦うことしか頭にない戦闘狂集団だが、あれはおそらく、特にやばい部類の輩だ。大人しくこちらの取り引きを飲んだのが奇跡に思えるほどに。


 だがそれより気味が悪いのは、そんなダークエルフと平然と接している、あのエルフのほうだった。


 エルフ達が捕らえられていた牢屋のある研究室は、監視のために隣室から中の様子が見られる覗き穴がある。

 “手術”や“検査”のためにこの場所に来たとき、準備が整うまでの待ち時間で、スラファトは時々そこからエルフ達の様子を眺めていた。

 理由は、純粋な暇つぶしが半分。あと半分は、母が執心する“エルフ”とはどういうものなのかを知りたい気持ちが強かった。


 エルフ。プライドが高く、高慢で、とびきり美しい。

 絵物語からそのまま抜け出してきたみたいな幻想的な種族は、なるほど確かに人々の心を惹きつけるだろうと思えた。良くも、悪くも。


 しかしそんな完成された存在たちの中に、ただひとつ紛れ込んだ“しみ”のような生き物。それがあのエルフだった。

 もちろん見目の話ではない。整った顔立ちや、透き通るような肌、こんな劣悪な環境にあってなお輝きを失わない金糸の長い髪は、当然エルフという種族の例に漏れず美しかった。


 問題は“中身”のほうだ。


 エルフの高潔さの欠片もない、媚びた態度。へりくだった喋り方。

 餌が欲しくて誰にでも腹を見せる獣のごときプライドの無さに、なぜこんなやつがエルフとして生まれたのかと舌を打ちたくなった。


 だが、こんな場所ではそれが功を奏したらしい。

 他の純然たるエルフが次々と死んでいく中、あのエルフらしからぬエルフだけが生き残り続けた。腹立たしいことに。


 本当はあんなやつに妹を託したくはなかったけれど。


「…………」


 スラファトはエルフに手渡した、ピアスの感触を思い出す。

 軽くてちっぽけなはずのそれを、けれど、とてつもなく重く感じたことを。


 目を伏せて、息を吐く。

 あのエルフは保身しか頭になさそうな屑だが、おそらく下衆げすではない。己に利があるかぎり、という前提ではあるが、妹をそう悪いようには扱わないだろう。今はそう信じるしかなかった。


 それに人の心配ばかりしているわけにはいかない。

 母に無断で研究施設をぶち壊し、エルフを逃がし、妹を解放してしまったのだから。


「……でも……これでよかったんだ。あの子だけでも、ちゃんと、“人間”のまま……」


「────スラファト」


 ふいに甘く涼やかな声が響いた。


 びくりとすくみかけた体を押さえ込んで、スラファトは目を開ける。


「……母さま」


 腰より長い艶やかな銀色の髪。若草のような“翠”の目。

 ともすれば少女にも見えるほど瑞々しく美しい女性が、臓腑の転がる血塗れの通路を、まるで花畑にいるみたいに軽やかな足取りで歩いてくる。


「か、母さま、……アタシっ、」


 言わなくては。もうやめよう、こんなことは終わりにしようと。

 たとえそれで母の怒りを買って、この命が失われようとも。


 目の前で立ち止まった女性──スラファトの母は、スラファトに向かって勢いよく腕を振り上げる。そして。


「すごいわ、スラファト! まさかあなたがこんなに素敵なことを思いつくなんて!!」


 その砂糖細工みたいな指先を、スラファトの背に回し、抱擁した。


「…………なん、」


「最近研究が行き詰まっていたから、新しいことを試してみないとってわたしも思ってたの。でも中々良い案が出なくて……でもそう、そうよね、“エルフに育ててもらう”ってすごく良いと思うわ。エルフの周囲では常時マナの吸収が行われているから、それで心臓から発せられるマナによる身体への負担を軽減できるかも、」


「なんの、話を……しているの? ……母さま」


「何って? あの子の話よ。ああ、ちょうどあなたも手術の直後で寝込んでいたから、そういえば教えていなかったわ。この間、あの子に心臓を移植してみたの。でもやっぱり経過があまり良くなくて。何かじょうずに定着させる方法はないかなって悩んでたんだけど、」


「もう、あの子に、手術をしたの? あの子の体は、……“人間”ではなくなってしまったの?」


「いいえ“人間”よ。この程度じゃ、わたしは……わたしたちは、まだまだ人間でしかいられない。もっと、もっと、もっと入れ換えないと」


 熱っぽく息を吐きながら、彼女は歌うように言葉を紡ぐ。


「だからありがとうスラファト。あなたのおかげで新しい可能性に気づけたわ。祈りましょう、あの子がエルフのもとで、きちんと育ってくれるように」


 違う。


「どうしたの? 妙な顔をして。ああ、この施設のことなら気にしなくていいのよ。どうせそろそろ潮時だったし」


 違う。違う。


「最初は目的が一致していた仲間でも、長く続けていると段々“耐えられなくなる”人が出てきてしまうのよね。わたしのやっていることが残酷だと言うの。ゆるされないと言うの。それは別にいいんだけど、邪魔はされたくないでしょう? だから時々少し“掃除”をするの」


 違う。違う。違う。


「ちょうどやらなきゃって思ってたところだったから、手伝ってくれて母さまむしろ助かっちゃった。あなたは昔から本当に気が利く子ね。でも次は全部きれいにするんじゃなくて、“いるもの”と“いらないもの”をちゃんと分けてからにしましょうね」


 ふふ、と甘やかすみたいに笑う吐息が耳をくすぐるのを感じながら、なんの言葉にもならない空気が、スラファトの喉の奥でひゅうと引き攣った。


 こんなはずじゃなかった。

 そんなつもりじゃなかった。

 スラファトは母を止めたかった。妹を人間のまま自由にしてあげたかった。


 これは、今まで決して母に逆らわなかったスラファトの一世一代の反逆で、ちっぽけな彼女の初めての意志で、どうかもう終わりにしてほしいという母への懇願だった。

 たとえこの一噛みが失敗して、母の手で殺されても構わなかった。


 しかし現実は、スラファトにとって失敗なんかよりもよほど残酷な結果であった。


 スラファトの全てをかけた覚悟は、覚悟とすら見なされなかった。

 殺されるどころか、怒られもしない。抵抗を、意志を、認めてすらもらえなかった。


 ただただ真綿で包まれる絶望に、そこで息が止まる閉塞感に、スラファトは己の中に芽吹いていた何かが死んでいくを感じた。


「それにしても随分元気に遊んだのねぇ、あちこちボロボロじゃない。あとで手当てしましょうね」


 母の温かい言葉がスラファトの心に染み込み、母の腕がスラファトの体を柔らかく包み、母の指がスラファトの髪を優しくいていく。

 その閉じた安心感にスラファトは深く息を吐いて、疲れきった体を母の身にゆだねた。



「……ごめんね、リュラ」


 普通の人間のままでいさせてあげられなかった妹に……本当の自由をあげられなかった妹に、最後に小さく謝罪して。

 あとはもう何も考えたくないと、スラファトは母の腕の中で目を閉じた。


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