47センチの聖域

シャル青井

土星紳士

 それは、フラフープというにはあまりにも巨大すぎた。


 まず想像してもらいたいのは、散歩コースである夕暮れの公園で、腰周りを囲む大きなリングをつけた身なりのいい紳士が歩いてくる光景だ。

 最初に思い浮かんだのは『土星』というあのわっかを纏った惑星で、それからしばらくしてフラフープという玩具を思い出した。

 ご存知だろうか、フラフープ。

 細く大きなチューブ状の輪の中に入って腰を振ることでそれを回すという遊具で、その単純さから幾度となく子供たちの間でブームになっては消えていくのを繰り返しいるアレだ。まあ想像通り、基本的にその光景は間抜けそのものだ。

 そんな間抜けな姿をした土星紳士が、今まさに目の前にいるのである。

 前方の紳士を避けようと脇に退くが、そのクソデカいリングのせいでさらにもう一歩移動しなければならない。

 だがその瞬間、紳士はニヤリと微笑み、スッとこちらの方へと一歩を踏み出してきた。

 それに合わせて目の前に例の輪が進路を塞ぐようにスライドしてくる。

 リングの分だけ紳士本人とは離れているので距離を詰め寄られたような圧迫感はないのだか、シンプルに通り道はなくなる。

 押しのけること自体は難しくはない。

 見たところリングの材質はプラスチックであるようだし、それが紳士に固定されている方法も、肩から吊るした何本かの紐によるものだ。

 むしろ問題は紳士の態度の方にある。

 あからさまに妨害の動きを見せられた以上、こちらからなにかを切り出さなければいけないらしい。

「紳士よ、その輪っかはいったいなんですか?」

 聞きたいことは無限にあるが、やはりここから始めるしかない。

 そして当然、待ってましたとばかりに、土星紳士は口角を吊り上げて言葉を返してくる。

「君は、【47センチの聖域】というものを知っているかね?」

「47センチの聖域?」

 そんな言葉に聞き覚えはなかったし、そもそも、こちらの質問の答えにもなっていない。

 もちろんそんな返しをしてくる人間の例に漏れず、紳士は反応を待つことなくさらに自分の言葉を続けていく。

「カリフォルニアにあるシェーキンス工科大学のニコラス・H・ファガーソン経済学教授が1999年に提唱した理論だよ。人間の肘から指先までの長さがおよそ42センチであり、そこに5センチを足したものが接触限界領域と定義することを基本としている。つまりこの47センチというのは、何気なく手を伸ばした際に、そこから意識すればなんとか届く範囲を示しているわけだ」

「はあ……」

 反応しないつもりだったのだが、思わず自分の肘に目をやってしまう。

 あらためて見てみると思ったよりも長く、その中でも手首から先、つまり掌と指が結構な長さを占めていることがわかる。

 とはいえ、そもそも42センチがどの程度なのかが見当もつかないのだが。

「そしてこの輪はまさに私の身体から47センチ離れたところに浮かんでいる。つまり【47 センチの聖域】を体現する装置というわけだな」

 紳士は得意気にそう語るが、こちらはまだなにも理解できていないのである。

「えっと、つまり、47センチの聖域というのは、人と人との距離のあり方ということですか?」

「よくわかっているじゃないか。そうだとも、元はマーケティング心理学の理論だが、私はそれを人間と人間との距離感そのものにも応用できると考えていてね、君も私との距離に、不思議な感覚を覚えているのではないのかね」

 勝手にいかにも勝ち誇ったその言葉に不思議でもなんでもない苛立ちを覚えるが、それでも、紳士の言葉を否定しきれない自分がいるのも事実だった。

 そしてその理由を考えたとき、思い当たるのはやはりその輪、そしてそれにより生じている紳士との距離である。

 この、届きそうで届かない、近くでありながら距離があるという状況が、奇妙な距離感を作っているのだ。

「納得してもらえたようでなによりだよ。それでは、私はこの聖域を広めていく使命があるからね。君もぜひ、47センチを心に刻んで生きていくといい」

 勝手に満足して、紳士は横をすり抜けて何処かへ歩いていく。実際には輪の分だけ離れているので、横という感覚もない。

 そんな感覚だったから、見送るのも意識することなく自分もそのまま歩いていった。


 帰宅後、日中に遭遇した不思議な紳士を思い出して【47センチの聖域】について検索したとき、その真の異常さが始まった。

 検索結果に『47センチの聖域』などまったく引っかからず、シェーキンス工科大学もニコラス・H・ファガーソン経済学教授も存在しなかったのである。

 つまりあの土星紳士は、なんの根拠もない輪をつけて、まったくのデタラメをベラベラと口にしていたということになる。

 それを思い知り、逆に紳士についての目撃例をSNSなどで検索してみる。

 だがそれも引っかからない。あれだけ目立つ異様な姿であるにも関わらず、目撃例の一つも出てこないのだ。

 では、自分が出会ったあの土星紳士はいったい何者だったのだろうか。

 思い出そうとしても、あの輪のことばかりが出てきて肝心の紳士の輪郭がぼやけている。

 それが恐ろしくなり、逃げるように眠りにつくことにした。

 あの出来事も、夢の一つだったと言い聞かせるように。


 だが朝になると、事態は、世界は、あまりにも思いもよらぬ方向に進んでいた。

 書き換えられていた、という方が正しいだろう。

 それを最初に目撃したのは、昨日の深夜に配信されたお気に入りの配信者のアーカイブを確認していたときだ。

『みんなはさ、【47センチの聖域】って使ってる?』

 雑談の中で、不意にその言葉が飛び出してきた。

 こちらの驚きなど意に介すこともなく、さらに動画は続いていく。

『あの輪っか、いいよね。街とか歩いている時に人との距離が近すぎると思っていたからさ、あれが広まってくれたおかげでだいぶ過ごしやすくなったのはホントありがたいのよ』

 変わらないフランクな喋りで日常が語られる。

 何気ないシーンの切り取り方の巧さも感想の馴染みやすさも、いつもの配信と同じ。

 ただ、そのトーク内容だけが自分の世界に異常さを突きつけてくる。

 なんとか内容を理解しようとするが、【47センチの聖域】というノイズが脳を支配して、彼が何を言っているのか理解できなくなっている。

 これがアーカイブであることに思い至り、シークバーを戻してもう一度その雑談の頭に戻る。

『みんなはさ、【47センチの聖域】って使ってる?』

 聞き直してさらに恐ろしいことに気付く。

『知っている?』ですらなく『使ってる?』という言葉。日常にすでに溶け込んでいる【47センチの聖域】。

 コメント欄を確認しても、そこにあったのは【47センチの聖域】への賛否であり、誰も存在を疑うものはいない。

 そうじゃないだろう。

 もう一度、47センチの聖域について検索する。

 結果

 フリーの百科事典の【47センチの聖域】のページ。

 ニュースサイトが伝える【47センチの聖域】の情報。

 ネットショップで販売される身体から吊るすタイプの大きなリング。

 まとめサイトがまとめる【47センチの聖域】へのアンチの声。

 溢れてくる。 

 世界に【47センチの聖域】が解き放たれている。

 ここは、俺の知っている世界ではない。

 考えて考えて考えて、もう一度【47センチの聖域】を検索窓に打ち込む。

 だが次は、もう一つ『人物』というワードを追加する。

 ズラッと現れるニコラス・H・ファガーソン経済学教授。

 そうではない。

 ワードを『日本人』に変える。

『なぜ日本人は【47センチの聖域】に惹かれたのか』

 そんなことはどうでもいい。

 名前がわからないので画像検索に切り替える。

 大きなリングを纏った老若男女の画像。

 スクロールしていくが目的の人物は見当たらない。

 知らないコンサルタントや大学の教授が次々に現れるばかりだ。

 その一人ひとりの顔を目を凝らして確認する。

 いない、いない、違う、違う。

 どれだけネットの海を潜っても、あの土星紳士は出てこない。【47センチの聖域】が現実になったのに、あの紳士は幻と消えた。

 もはや、この現実を受け入れるしかないのだろうか。

 いや、そうではない。

 本当の世界を見つけるため、俺は部屋を飛び出していった。

 

 その公園に足を踏み入れた瞬間に、全身を猛烈な違和感が走り抜けた。

 あまりにも静かすぎる。まるで別世界だ。

 昼下がりでありながらまったくの人の気配がなく、公園全体が不気味で不自然な静寂に包まれている。

 元々立地のわりに人気のない場所ではあったのだが、今の状況は明らかにおかしい。

 木陰の中にただ自分の足音だけが響く。

 そして昨日の小道にたどり着くと、何の気配も感じなかった公園の真ん中に、その紳士は立っていた。

 昨日と同じように【47センチ】のリングを纏い、土星のような姿で佇んでいる。

「……世界を変えてしまったのはあなたですか?」

 変わってしまった世界とは対称的に、なんら変化のないその姿こそが事態の起点であることを彷彿とさせる。

「そうとも言えるし、そうでないとも言えるな。どちらかといえば、君の方が世界に与えた影響が大きいということもできるだろう」

 煙に巻くような言葉で矛先をこちらにすり替える。

「どういうことだ」

「君は昨日【47センチの聖域】を検索しただろう。それにより、【47センチの聖域】が君の世界に解き放たれたのだ」

 土星紳士はそう言って笑う。

 だがまず、この紳士の言葉には最初から大きな欠陥がある。

「勝手なことを言うな。そもそも【47センチの聖域】はそちらが押し付けてきたようなものだろうが」

「まあ、君の意思に便乗する形になったのは少々申し訳ないところではあるがね。しかし【47センチの聖域】の普及に貢献できたのだ。君にとっても悪い話でもなかったんじゃないかな」

 こちらの言葉など意に介すこともなく、紳士は曇りなき純真な笑みをこちらに向けてくる。自分の行いが間違っているはずもないと信じきっている狂人の目。

 こうなった以上、必要なのは明確な拒絶であることを悟る。

「俺の世界を滅茶苦茶にしておきながらどの口でそんなこと言ってるんだ。お前の目的も正体も知らないが、お前の考える世界は、俺の世界とは相成れない、別物だ! 世界を元に戻せ!」

 その叫びに、紳士は少しだけ目を見開き、間を置いて小さなため息を漏らした。

「この理想を理解してもらえないとは、まことに残念だ。だが、それが君の選択だというのなら仕方ない。世界は君の臨んだものに戻ることだろう。そうだな、餞別代わりにこれを受け取ってくれたまえ」

 紳士はそう言いながら彼の周りに吊るされていたリングを外し、そのままこちらへとかけてきた。

 土星紳士はただの紳士になり、今はこちらが土星人間になってしまっている。

「それでは、もう会うこともないだろう。【47センチの聖域】をよろしく頼むよ」

 そう言い残し、紳士は昨日と同じように横をすり抜けて何処かへ歩いていく。輪の分だけ距離が離れているが、その輪は今は、自分の周囲に存在しているものだ。

 そして紳士の姿が見えなくなったとき、世界は不意に、元の姿を取り戻したかのように音や気配が帰ってきた。

 あれは、【47センチの聖域】とは、夢まぼろしだったのか。

 手元に残ったリングを見ながら、俺は改めて【47センチの聖域】について考え、スマートフォンの検索窓にその言葉を入力する。

 あっさりと、検索結果が表示される。

 次の一文は、フリー百科事典の概要の序文である。


『47センチの聖域とは、「人間の肘から指先までの長さがおよそ42センチであり、そこに5センチを足したものが接触限界領域と定義する」というものである。1999年、シェーキンス工科大学のニコラス・H・ファガーソン経済学教授によって提唱されたが、普及には至らなかった』

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47センチの聖域 シャル青井 @aotetsu

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