第8話 ソラリスの涙



ある日急に、この世界から愛する者が消えた。


僕があれだけ励ましたのに、彼には何一つ届かなかったようだ。


弱い彼に怒りもしたし、幻滅し、失望もした。


彼はただそこに在るだけでよかったのに。


でも僕だって彼から愛されていただろうから。

だから、あいにいくことにしたんだ。


前もって、きみはまだ生きていると調査済みだ。


きみには支えが必要だろう?

隣で支えていける僕が、必要だろう?


僕のことをすべてわかってくれたのはきみだけだったように、きみのことをわかってあげられるのも僕だけなんだ。


だから、いま、会いに行く。







「トーマさん、辛くない?」

「座ってるだけだ、問題ない」


ハルの基礎練習は、静物から生物に進化した。

僕という生身を使い、人間を描く練習だ。


皮膚の向こうには筋肉があり、その奥には骨がある。

皮膚はやわらかに波打ち、筋肉は波打つようにしなり、骨は確固としているのだ。


「ただ描いてるだけでもいいけど、色んなものをもっとたくさん見ることで、糧になると思うんですよ」

「うん、それはあると思う」

「だから、明日、土曜。どっか行きませんか?」

「うーん……」


土曜か。人がいっぱいいるんだろうな。

そんなところで気分が悪くなりでもしたら、今度は外に出るのも嫌になる。


「海を見に行きませんか」

「……海?」


正直、乗り気だ。

海は好きだし、今の時期なら人もほとんどいないだろうから。

記憶の中から潮風を取り出して、部屋に一陣、吹かせた。

思うだけで肌が焼け付きそうな、真夏の記憶だ。


「行くっ」

「おー即答」

「終日海を眺めるのが好きなんだ」

「へぇ奇遇、俺も結構好きっすよ」


ほんの一瞬の間に色を変え光を変え、瞬きするのが惜しくなるような。

いつまでだって眺めていたって飽きたりしない。


「何時?」

「ん?」

「何時に着く?」

「バイクでかっ飛ばすんで希望があれば聞きますよ」

「日の出前!」

「いいっすね」


ハルはくしゃりと笑い、じゃあ泊めてくださいね、と言った。

いつの間にハルの荷物が部屋には増えていた。


久しぶりの、大好きな海だ。

まさか、こんなになってから行けるだなんて、思ってもみなかった。

一瞬たりとも見逃したくないし、お弁当を持って行こう。

眠れないのはいつものことだけど、今日はいつにもまして眠れそうにない。





「まだ真っ暗っすね」

「今の時期はこんなものだよ」

「こんなもんすか」

「日の長さにつれ変わるものだから」


ざあ、じゃぶ、ぐるる。

白波が寄せては返し、しぶきを上げた。


砂浜はひやりと湿っている。

レジャーシートを持ってきて良かった。


「ハル、座る?」

「うん」


一生ここにいたいな。

ここにいれば、インターホンも電話も鳴らなくて済む。

魚や鳥はなにかを奪うこともないし、死ねば海の底に行ける。


「竜宮城に住みたいとか考えてませんよね?」

「はは、なんだそれ」

「トーマさんなら竜宮城に人魚姫がいるとか言いかねないなと思って」

「はは……」


あれ?そんな昔のこと、ハルに話したっけ?

自分の記憶ほどあてにならないものはないので、話したのかもしれない。

いや、ただのハルの推測にすぎないのだ。


「……昔、僕が学生だった頃ね」

「うん」

「近所の本屋さんでバイトしてて、ある本にポップをつけることになったんだ」

「ああ、よく平積みされてるとこにあるやつ」

「そうそう、そのポップに人魚を描いたんだけど、どうにも寂しそうでさ」


いや、お客さんの誰かに言われたんだったっけ。

人魚が寂しそうだから、って。


「後ろに竜宮城を描いたんだよな」

「人魚も喜んだでしょうね」

「どうだろう、ただ、店長には怒られて、でも作者の人は気に入ってくれたみたい」


ハルは、少しだけ眠そうに眼を細めて聞いていた。

持ってきたブランケットをハルの肩にかけ、続ける。

不思議と、ずっと昔に覚えた歌でも歌うようになめらかに唇が動く。


「そこから少しずつ、僕の仕事が絵を描くことになっていったんだ」

「うん、トーマさんの絵、すごくキレイだった」

「高校を卒業して、ちょっとした縁で翻訳の仕事に就いて……」

「うん」

「絵と半々くらい……忙しかったけど、楽しかった」


若さゆえに体力的に無理をしたこともあった。

自分という限界に挑戦したくてバカをやったことも。


「そうして僕という人間が形作られてしばらくして……」


なにもかもを真似た誰かに、成り代わられて。


やっと口に出せたんだな、僕は。


「自分を見てるのか、その人を見てるのか、僕も誰もわからなかったよ」

「……ひどい話だ」

「僕がその人を気にかけていれば、もっと早くに止められたんだろうから、僕にだって悪いところはあったんだよ」

「ないよ、トーマさんには悪いところなんて」

「……気を遣わなくていいよ」


自分じゃ抱えきれなくて、こぼしただけだから。

掬い上げてほしいでもなく、ただこぼれただけ。


「ただね、そのことよりも……誰かに助けてほしいって言った時」

「トーマさん、辛いなら言わなくても……」


潮風に栄養はあるのだろうか、などと考えてしまった。

心はここにはないのだろうか。

どこにいったんだろうか、僕の心なのに。


「僕自身のことを見ずに『よくあることだから』って片付けられたのが一番悲しかった。その誰かの事じゃなくて、僕自身のことなのに、誰かが勝手に片付けちゃったんだ、どうでもいい、終わったこととして……僕の気持ちさえ決めつけて」


足を投げ出し、砂浜に横になる。

海を縦に見ているみたいで、不思議な感覚だ。海がずっと近い。


「それだけならまだ良かったけどね……僕もう、絵が描けないんだ」

「……描け、ない?」

「本心を言うとね、描きたいよ、描きたくて仕方ないよ、でも、生まれてからずっとそうしてきたものを失くすだなんて、考えたくもなかったんだ」

「だから、描かない、って言ってたんだね」

「…………僕、どうしてこんなこと言ってるんだろう……せっかくハルが海に、連れてきてくれたのに……」


僕はいつまで経ってもおとなになり切れていなくて。

いつからこんなになってしまったんだろうと思うと涙が溢れて止まらない。


「あのね、トーマさん」

「うん?」

「少し、寝たらいいよ」

「え?」

「俺がずっと、ついてるから」


ぺしぺしと膝を叩いている。枕にしていいってことだろうけど……。

まあ、いいや……。たしかにすこし、ねむい。


「ずぅっとこうして眺めていたかったのに……」

「おやすみ、トーマさん」


射し始めた朝陽から僕を守るように手を広げてくれるハル。


ハルはいま、どんな風に笑っているんだろう……。

それだけを、確認したかったのに。


そうだった、お弁当を作ってたら眠る暇がなかったんだっけ…………。


ああ、なんだか耳にうさぎが乗っている気がする。





「お前が戦神マルスか」

「……誰?」

「どうでもよくね?お前は関係ないだろ?」


ここ1週間ほど、誰かにつけられていると思ってはいた。

今日もずっと1台の黒い車がついてきていた。

途中で消えたと思ったら、砂浜に現れたのは例の戦神とかいうやつじゃん?


黒い車はついて来てないみたいだし、好都合かもしれない。


ただ、トーマさんがいる前で騒ぎを起こしたくないな。


「あんた、自分がどれだけトーマさんを傷つけたか知ってる?」

「…………何か勘違いしてるんじゃないのか?」

「何とどう勘違いしてるって?」

「トーマの絵を盗んだのもトーマの真似をし続けたのも僕じゃない」

「そこまでわかってて、どうして傷つけたんだ」


腸がじりじりと煮えていく。怒りと憎しみを糧にして。


「僕はトーマを傷つけてない」

「じゃあお前、トーマさんのことを何もわかってないんだな」

「…………きみこそ、なんの関係があってトーマの横にいるんだ?」


トーマさんの頬をこれ見よがしにさらりと撫でると、戦神は目に見えて顔を歪ませた。醜い感情丸出しー。なさけな。


「お前にトーマさんは渡さない」

「……どういう関係だ、と聞いている」

「うわ、きっしょー。圧かけたら引き下がるとでも思ったかオッサン?」

「お前みたいな頭の悪いガキはそうはしないだろうな」


トーマさん。

俺さ、この世界すべてが憎いよ。

なにもかも汚くて醜くて、狡くて卑怯で、吐き気を催すほど。


そんな世界で描きたいものなんて、あるわけないじゃないか。


たったひとりを除いては。


「俺はトーマさんを守る。トーマさんを唯一の人にする」

「ガキの我儘が」

「お前みたいな頭の悪いオッサンには理解できないだろうな」

「…………お前、何者だ?」





「………………なんで」


何か話し声が聞こえる気がして、目が覚めた。


きっと最初に目に入るのは、優しい顔で笑うハルだろうと思っていた。


「トーマ!僕だ!マルスだ!花束は受け取ってくれたよな!?」

「う、わ……」


ハルが背に庇ってくれたおかげで、触れられることは免れた。


でも、なんで?

なんで……ここに?


「…………花束?」

「トーマ!俺が贈ったんだ、トーマのアカウント開設日だから」

「ぅぐ……」

「やめろ。お前はトーマさんにとって、恐怖の象徴でしかない」

「そんなわけないよな、トーマ?」

「………………なんで、ぼくの住んでるところ……夢じゃ……」

「トーマの発言すべてをさらって特定したんだ、住所は興信所を使ったけど」


そっか。

やっぱり、いいことなんてあっちゃいけないんだ。


足がひとりでに動き、ハルを振り払った。


頭には、たったひとつの言葉。


「死ぬなら今だ」


靴が泥のような砂を踏み揺らぐが構わず進む。


死ぬなら今だ。


ここですべて終わりにしたいんだ。


死ぬなら今だ。


冷たい水が動きを鈍らせても。


死ぬなら今だ。


波に飲まれ、体の自由が利かなくなっても。


だって、死ぬなら今なんだ。


今以下があるだなんて、悪夢が正夢になることより最悪があるわけないだろう。


だから、今死ぬんだ。


幸い、なにもみえない、なにもきこえない。


苦しみも痛みも麻痺して。


なにもかもいりません、もう望みません。

だからもう、なにもかもを終わりにしてください。


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