第五章 LASTGAME
第34話 行ってらっしゃい
いつのことだろう。
遠い日の記憶を、僕は夢で見ていた。ぼんやりと霧がかった白黒の風景で、夢の中とは思えないほど頭が冴えていた。冴えているからこそ、僕にはここが夢であるということがはっきり分かったのかもしれない。
「ねえ、なおや」
幼い声が聞こえた。それは、小さな女の子からだった。白いワンピースを身にまとった女の子。僕はその子と、ラベンダーが咲き乱れた道を歩いていた。
「きれいだね」
「そうだね」
手をつないで歩きながら、
「ねえ、ラベンダーの花言葉って知ってる? 繊細、優美、疑惑、沈黙、なんだって」
と彼女に告げた。母に植物園に行くと伝えたところ、よかったら、雛乃ちゃんに教えてあげなよ。きっと喜ぶわよ。女の子はこういうの、好きだから――。そう言って、教えられたものだった。
雛乃は僕の言葉を聴き終わったあと、じぃっと何かを考えているようだった。
それから、「ふしぎだねぇ」といった。僕が何がと尋ねると、言葉の意味が分からないから、不思議なんだと彼女が言った。確かにその頃の僕にも、四つの言葉の意味は難しすぎてよく分かってなどいなかった。
しかし今にして思えば、言葉の意味以上に、この取り合わせを不思議に感じる。
繊細で、優美という綺麗な言葉に、なぜ疑惑や沈黙などという言葉が続くのか。
よく分からないまま、僕は完全に目が覚めた。
黒い携帯電話に、今日の集合場所と時間が届いていた。
この場所から、動きたくない。
不意に、そんな感情が浮かんできた。
解決の糸口は確かに掴んだが、それは途切れた糸だった。自分が消えてしまってもいい。その代わり、ゆっくりとベッドの上で寝転がっていたい。そんな投げやりの感情が浮かんでは消えていく。
その気持ちを雛乃の泣き顔で振り払い、起き上がった。
着替えを済ませる。服装は、ハーフパンツと半袖パーカーにした。履きなれたスニーカーの靴紐を結ぶ。決して解けないようにときつく結ぶ。
「……直くん」
ありえない声が聞こえたのは、そのときだった。嘘だろ。まさか。そう思いつつ振り返ると、そこに姉が立っていた。
小さな背丈と長い髪。服装は水色のパジャマ。顔色は相変わらず優れない。明るい家の中でみると、なおさらだった。
「お姉ちゃん……っ」
上ずった声がでた。自分の胸が急速に、暖かな何かで埋め尽くされているのが分かった。彼女は――一歩を踏み出したのだ。小さいけれど、確かな一歩を。
「直くん……頑張って……っ。何もできないけど、応援、してるから……っ」
姉の声は震えていた。足も震えていた。自分の部屋から出るだけで、彼女にとっては苦痛なのだ。それでも、僕に伝えてくれた。その事実だけで、いつもよりほんの少し頑張れるような気がした。
先程まであった、ベッドで寝転がっていたいという投げやりな気持ちは消えていた。
「ありがとう。行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
くしゃっと姉が顔を崩した。それが笑顔だと気付くまで、数秒かかった。
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