パレードⅡ

 パレード初日の明け方、例の広場に来てみればやはりあの男は居た。今日もいつもの通り同じ場所から広場を描いている。ライとは特段に待ち合わせを決めるまでもなく合流出来た。男の前方への視界は広くかつ注意深い。そのため、遠くからでも画角に入れば認識されてしまう。それを避けるように、三人は男の定位置の後ろをかさかさと近寄ることにした。


 男との距離は五メートル。


 これまで見てきた通り、ライがはっきりとはできない性格のためにもう二、三歩進めばよいところを全く動かない。焚きつけた当人であるモネでも、手をポケットに入れ、辛抱強く見守ろうとしているらしい。しかし、かれこれ三十分である。さすがにしびれを切らしたようだ。ポケットから手を出し、その背を叩いたのち、ライの二歩を一歩で越してみせた。集中していただろう男でも気づくほどの爆発音だ。男がこちらを認識する。遠巻きならまだしても、この距離で、この状況だ。もう男に用があることは明白で、ライも腹を決めた。


「やぁ、久しぶりだね。いや、この間から会うまでの期間を考えればそんなこともないのかな……」


 気まずそうに頭をかく。ただいつもの苦笑ではない。


「どうしたんだ、一体。そっちの坊主たちの差し金か。だとしてもよくわからないがな」


 男はなおもつっけんどんな返しであり、ライとまともに会話をする気がないことが伝わってくる。


「なんというか、その……さ、今更って感じだとは思うんだけど……ああもういいや!単刀直入に!なんで君はあの教室の先生をやめてしまったんだ!?それが気になって僕なんかが指導していいのかって、ずっと悩んで、結局開講したことを周知するポスターも全然貼ることもできてない」


 急に威勢がよくなったものの、ライの口調はどんどん沈んでいった。ライの言葉の後半に差し掛かった時、男が持っていた筆を折ったからだ。大事なのだろうに折った。やったのは自分だというのに惜しそうに折れた筆を眺め、脇に置いていた鞄に放り入れる。ため息をつき、振り返った顔は険しかった。


「そんなこと知ったことじゃない。大体、私が後釜に君を推薦したという事実なんてない。私がいなくなった。そしてアートアカデミーの連中が誰に後を引き継がせるか決めた。それが君だった。ただそれだけだ。自分ができないやつだと思うのは勝手で結構だが、その不足を他人のせいで埋めようとするその精神は醜いぞ。恥を知れ」


「なんだよ、それ。僕は心配だってしてるっていうのに!」


「心配だと?君の発言のどこにそんな要素があった?そもそも言ったところで分かりはしないだろ」


「それをするのが神美派だろ!?お前の方こそ自分の言ってることを理解されないからっていじけている子供みたいじゃないか!」


 お互いにぐっさりと刺さったようだ。ためらいがちだった距離はすでに眼前となっている。込み入った話になってきたが、ここでそそくさと離れてしまうと巻き添えを食らいそうである。それに面白くなってきたというのもある。二人は初期位置から微動だにせず、ただ存在を消した。ライと男の瞳には映っていないから成功しているはずだ。男は筋の張り巡った額をどうにか落ち着かせようと少し黙った後に口を開いた。


「ライ、君もあれを続けていればいやでも分かる。私たちは私たちのための絵を描けなくなっていく。描きたいものが描けない。全部がお手本だ。ひとえに教えるために。なぁ、ライ。私たちはなぜ神美派に来た。自らの精神を芸術でもって表現するためだっただろう。暮らしが安定しているにしても、私たちの求めたものはあの場所にはないのだよ。どうだ?私が連れて行ったそこの二人。教えていたんだろ。どんな絵を描いていた?」


「モネ君は見たものを鮮明に、整然と描いていた。リベル君は太陽ばかりだった」


「口ぶりからして何もわかっていないな」


「じゃあ!お前の今しているそれはなんなんだよ!毎日毎日変わりもしないこの広場なんて描いて何になるっていうんだ!」


 ライは全身をわなわなと震わせ、目は潤ってきた。


「モネは〝見たもの〟を、リベルは〝太陽ばかり〟を、描いていたんだろう?自主的に、能動的に。聞く限りではモネはノルマやらタスクやらで仕方なしにやっていたのだろうが、それでも手を動かすだけの価値のあるものを他の誰に言われずとも描いた。リベルは言わずもがなだな」


「お前はそれがしたかったっていうのか。それでも教室をやめる必要まではなかったじゃないか。授業外でただすればさ……」


「それは無理だ。あそこはなんだか知らないが、偉い奴という者らがいて、そういう連中のお眼鏡に適わなければ居させてはくれない。ひどければスラムに投げ込まれる。さっき言ったように、教師の役割は役割であって、そのお眼鏡云々は関係ない。だが、それは絵でもって表現しようとする者たちの下地を作る以上のことは求められない。描きたいものを描きたいように描くこと自体はできなくはないが、鼻持ちならんだろう。それに、一つケジメというのもある。抱くべきでない、私の下でどんどん自分の絵を完成させていく教え子たちへの嫉妬にきっちり区切りをつけて再スタートするためのな」


「ハハ、君は本当に昔から僕の先を行ってくれるね。僕なんか、どれだけ描きたいものを描いてもダメで、それだから基本ばかりやって来たっていうのにさ。お手本だなんて、それでさえ僕が言うにはおこがましい。贅沢な奴だ。くそやろう」


 絞り出すように言って崩れ落ちるライを見て、男は先ほど吐いたため息よりも大きなため息をまた吐いた。ここまで言ってもまだ駄目かと、もはや憐れみの目をしているようにも見える。そして、鞄から数枚絵を取り出し、下を向くライへ滑り込ませる。


「これが三日前、これが一昨日、これが昨日」


 さらに今しがたまで描いていた絵を見せる。


「これが今日。〝全く〟同じ絵か?」


 ライは首を振る。男は頷く。


「しかし、どれもタイトルは『日常』だ。私はな、日常の果てしないほどの非日常性を毎日同じ場所から同じ画角で描くことで暴きたいのだよ。だからこそ、私たちはこんなにも性懲りもなく世界を生きているのだと。毎日が実のところは違うから、美というのは潰えることがない。これこそが美の極致、根源なのだ。私はそれを自身で本気で思っている。

 ライ、君は描きたいものを描いてもダメだったと言っていたな。本当にそれは君が描きたいものだったのか?人受けのいいものを描いて、評価されたかった。だからといって、そのまま乗っかれば面目が立たないと思った。そうして君の描きたいものを描いた絵とやらは中途半端になってしまったのではないか」


 男はライの肩を担いで立ち上がらせる。


「君もあそこから出てみろ。楽しいぞ」


 ライはまだ泣いている。しばらく待って応答した。


「そうして……みるよ。なぁ、僕にもできるかな?」


「知らん。とにかくやってみろ。自分の目では粗悪でも探し歩けば良いと言って交換してくれる奴はいる。食ってはいけるとも」


「なら、やってみるよ」


「うむ。ああ、そうだ。私の『日常』はどうだった?」


 ライは満面の黄色いユリの笑顔を携えて


「くそみたいな絵だよ!」


 と言ってのけた。

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