第16話 喧嘩と和解と

 俺たちはどうも、皇后の寝室に入ったらしい。


 控えていた女官たちを追い払って、皇后は俺にそっと言った。


「郡王との不仲が聞こえて、帝都で我ら母子はやきもきしたのです。おそらく太后娘娘も。陛下の療養に南都はどうかと勧めたのは周王で、本宮に見てきて欲しかったのでしょうよ。郡王は本宮の皇后冊封に伴い、猶子として親王位に封じられるべきところを遠慮して郡王、それも末位の郡王で良いと述べたゆえに、郡王になってしまった。本宮は、二人の幸せを祈ってる」


 そのときのことだった。


 二人のいる部屋で、パーンと音がしたのである。


 引き続き、別のところで何かがガッシャーンと落下した音がした。誰か、びっくりしたんだろう。

 俺は皇后と顔を見合わせ、恐る恐るもとの部屋に入ると、周王が郡王に馬乗りになっているのだ。

 小声で早口だが、この近さなら聞き取れる。


「……二度と言うな。瑶瑶の記憶が戻らぬとは、もう二度と言うな」


 その瞬間、形勢が逆転した。

 軽々と周王はひっくり返され、腕をねじり上げられたのだ。


「親王殿下は、もう一度夫人を落馬させよとおっしゃるのですか?」


 周王は悲鳴をあげた。


「痛っ!……そうではないっ!……」


 俺が郡王に駆け寄り、郡王が気を取られた隙に、周王は腕を引き抜き、叫んだ。


「本王は!諦めぬ!」


 そこで皇后に気づき、二人は取っ組み合いをやめて、俺は郡王を、皇后は周王を立たせた。


「……今日はもう、お帰り。その顔で陛下に会うと、心配なさいます」


 皇后に言われて見上げると、郡王の口の先が切れていた。


「ではまた明日にでも」


 郡王はそう言って俺を引っ張った。



 階段を降りるときは、さすがに輿を使った。

 だが、輿の上でもずっと郡王の大きな手を繋いでいて、馬車の中でもずっと手を繋いでいる。

 馬車が動き出すと、俺は言った。


「俺は趙小瑶で、趙小瑶は俺だ。大切だと言ってくれて、うれしかった」


 郡王はぐっと俺を抱きしめて頬ずりをして答えた。

 濃くはないが、ヒゲの剃り跡がチクチクして痛い。


「本王の小瑶……」


 いくら圭に似ていても、いや、圭なんだが、俺、つまり「原田正人」の記憶のない趙小瑶は、九ちゃんを選ばないだろう。


 趙小瑶と郡王は全く同じ思考をしている。

 周王を守る。

 それを読める俺は、やっぱり、趙小瑶なんだな。そして、郡王には耐え難くそそられる。

 きっと、趙小瑶も耐え難くそそられただろう。


 だが、郡王ははっと俺を引き離した。


「四十の、」


 男だ。そう、男だ。

 俺の体は女になってしまったが、俺が男であることには変わらない。いわゆる、性同一性障害状態なのだが、郡王に理解ができるだろうか。


「……記憶の中に、夫人や子がいるのだろうな、」


 言って大丈夫だろうか。


「……十八で知り合い、二十一から三十九までずっと生活を共にした人がいた」

「……それが小瑶の夫人だな」


 俺は首を振った。


「……相手は、男だ」


 郡王は俺から手を離した。

 気持ち悪かったのだろうか。それとも同性愛は犯罪だろうか。


「……今、周王の気持ちが、ようやく理解できるようになったと思う」


 あれ?


「……これが嫉妬か、なんと嫌な気分だ」


 あれ?ハンターの目になってないかい?


「……うまくいかなくなって、別れて、郷里に戻って、生活を立て直そうとしたところで、こうなった」

「うまくいかなくなって別れただと?小瑶を捨てたのか?」


 ものすごい剣幕だ。

 二十歳、若い。

 そして柔軟だ。


「別れを切り出したのは俺だ。どっちの方がより悪いかというよりも、あ、疫病の話をしただろ?あれだ。疫病に関連して、言い争うことが多くなって、最後の一年間はほとんど顔も合わせなくて、終わったんだよ」


「……終わっている……その者を、思わぬか?」

 

 しょっちゅう思い出していたが、ここのところ圭のことを思い出さなくなってきた。


「最近では、思い出しもしない」


 嘘じゃないぞ。

 頭の中大混乱なんだもん。


「本王の気持ちに向かい合ってくれるかい?」


 俺はおずおずと、郡王の下唇を吸おうとしたのだが、馬車がひっくり返ったかと思った。


 郡王の息は熱くて荒い。筋肉質の体は熱い。

 気がつけば俺はがっしりと頭を固定されて、抱きしめられ、激しい口づけをされている。

 ちょっと血の味がして、唇なんか腫れ上がりそうなのに、脳天までとろける……と思っていたら、馬車の前が開いた。


「でん、」


 御者はそこまで言ってすぐに前を閉めた。

 俺たちは我に返ったが、俺は化粧をしていたんだよ。

 そうだ、口紅だ。

 口裂け女も裸足で逃げ出すぞ、こんな郡王を見たら。きっと、俺もそういう顔をしている。


「……な、南殿へ」


 恥ずかしいので俺たちは口を袖で隠しながら馬車を降りた。

 そのまま、郡王の寝室に入ったのだが、若いねえ。

 郡王はさっきの続きを始めた。俺もまだ火が消えてない。それだけでも十分に楽しいのに、とうとう郡王がぎこちない手つきで俺の衣装を脱がせようとするので俺は押しとどめた。


「……一人では、着られない」

「……本王も着せられぬ」


 いずれにせよ、顔はそのままにはしておけないので、拭き取ってくれた。


「……じゃあ、夜に」

「……待ち遠しい」


 別れ際に唇を重ねると、恨めしそうに郡王は俺を見送った。


 そそられる。

 たまらん。ぶちこみたい。

 いや、ぶちこむものがないんだが。



 俺が郡王の寝室を出ると、小姓が南殿の手前の東屋まで送ってくれた。

 東屋に海蘭たちが待っていて、俺を待ち構えている。


 北殿の俺の部屋に入ると、俺はぷりぷりしながら、今か今かと話を聞きたくてうずうずしている女たちに説明してやった。


「陛下にお会いする前に、皇后宮で周王殿下と郡王殿下が取っ組み合いを始めて、郡王殿下が口を切られたんだよ。周王殿下は大騒ぎだし、俺たちはそのまま帰ってきました」


 そして頭を振りながら付け加えた。


「ほんっとあの二人は信じられない。しかも、郡王ときたら馬車の中で俺の唇を吸いやがった」


 鏡の前で見れば、口紅がたぬき顔に広がった痕跡が残っているし、唇はたらこになりそうなほど腫れ上がっている。


「唇が腫れあがったじゃないか」


 髪の毛は郡王にぐちゃぐちゃにされている有様だ。水仙がかんざしを抜いて一つずつ丁寧に髪の毛を解き、頭皮のマッサージをしてくれるのが気持ちいいねえ。


「でも、多分南都じゅうが知ってますよ。郡王殿下が娘子をおぶって宮の階段を登られたって」


 俺は化粧を落とすために目をつぶっていたのだが、この声は桂花(けいか)かな。


「あれで母后娘娘に怒られたぞ。見せ物みたいだって」


 俺はさっき皇后宮で食べ損ねた茶菓子を思い出した。なんか月餅、といっても中村屋の月餅しか知らんのだが、あんな感じの生地で、中はなんだったのだろう。


「茶菓子まで食べ損ねた。何かないかい?」


 海蘭が大きめの柑橘類を出してきた。


「文旦なんてどうでしょう?」


 俺は体を揉みほぐされながら答えた。


「良いね!」

 最高だっ!


 夕方になり、南殿から小姓が来て問われた。


「お夕食にお越しになりますか」

「見せ物にされて、周王と喧嘩までしたやつとは一緒に食べたくないね!」

「食後の将棋は……」

「嫌だったら!」


 俺は夕食は郡王とは別にとり、侍女たちに薬を煎じさせた。

 春は暮れるのがだいぶ遅いはずだが、俺はまた眠気がきてさっさと寝ることにした。



 ベッドに入ってうつらうつらしているところで、ベッドの下からトントンと音がした。

 俺は薄い敷物を何枚もめくって、トントンと叩き返した。

 グッとベッドの板が開いて、中から沈香の甘い香りが漂った。


 音がしないように、俺たちは互いの唇を貪った。

 とろける。たまらん!脱がせたい!ぶちこみたい!


 だが、それどころではない。


 俺たちは敷物を戻して、郡王は剣を持ったまま、俺のベッドに横たわった。あまり大きくないベッドでぎゅっと抱き合うのはなんて幸せなんだろう。俺は沈香の甘い香りの中でとろけそうだ。


 絶対寝てたんだが、俺は郡王にほっぺたをつねられて起きた。

 外の大殿油は消えていた。


 寝室には、大きめの蝋燭台がある。

 神社仏閣の蝋燭立てほどではないが、それなりにたくさんの蝋燭を立てられる。


 郡王は寝室と縁側との間の小部屋にこれを引っ張っていって、火折子という、小さな筒を出して、小さな火を出した。

 俺は寝室から蝋燭をたくさん持ってきて蝋燭台に置いていけば、郡王が火を灯していく。


 外からは俺の部屋に光があるのがわかるだろう。


 それが合図だ。


 扉がそっと叩かれて、開いて黒い人影が入ってきた。


「瑶瑶……」


 俺は答えた。


「そんな大きな声だと、寝てる連中を起こしちまうじゃないか」


 そうだ。木と紙と布の建物だ。

 すぐ隣にいれば、中の人が普通に話している内容なら、聞こえてしまう。聞き取れなくても、男と女の声がするのはわかる。


 人影が近づいて、ぷんと沈香のスパイシーな香りが漂う。

 俺と周王は蝋燭台よりも少し前に置いてある円卓に座った。


「今日のことは、すまなかった」

「ふん」


 しばらくしてまた言う。


「しかし、諦められぬ」

 周王は頭を振って続けた。

「無理だ」


 俺は無慈悲に言った。


「すぐに挽回するのは無理だろうな」


「ひどいじゃないか、瑶瑶。可愛い顔をして」


 しばらくして、周王はかなり大きな声で言ったのだ。


「連れて逃げてしまいたい!」


 その途端、扉が開き、松明を持った男たちが乗り込んできた。

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