第15話 母親たち

 俺がぐるぐると考えている間に、俺たちは皇后宮に移動していた。


 皇后が女官の手を借りて椅子に座った。それが合図だったのか、周王と郡王が跪いたので、俺も跪いた。


「安渓県君、」


 皇后は俺の方を向いた。額に傷がないか俺は見てしまう。


「はい、皇后娘娘」


 俺の裾を引っ張ったのはどっちだ?周王か?郡王か?

 皇后は体を椅子の後ろの方に投げ出して、呆れたという顔をしている。


「……何か大きな過ちをしてしまったのでしょうか……」


 皇后は頷いた。


「あの小瑶が記憶を失ってしまったというのは、本当のようですね」


 俺はさっき皇后がやったように床に頭をぶつけるべきなんじゃないかと思って勢いをつけようと、体を少し後ろに倒しかけたところで、両脇から体を固められた。八と九はタイミングばっちりすぎじゃないか。


「申し訳ありません。何を間違えたのか誰か教えていただけませんでしょうか」


 郡王が答えた。


「そなたは本王の正夫人であろう。本王は先の皇后宮で生まれ、後に李皇后に育てられた話はしたな」

「はい」

「その養育の恩ゆえ、貴妃であられた頃には母妃(ぼひ)とお呼びしたのだ。今は皇后に冊立されておられるゆえに、」

「嫡母庶子ですか!」


 郡王は頷いた。


「母后(ぼこう)娘娘にご挨拶申し上げます」


 そう言って俺はゆっくりと頭を下げた。


 前近代の家族関係を引きずった日本の旧民法にも嫡母庶子の規定があった。戦後になくなるのだが、民放改正前に発生した相続に絡んで問題になったことがある。


 この嫡母庶子とは、男が外に産ませた子を認知したが、子の生母ではない女が男と法律婚を結んでいた場合に発生する関係だ。なお、男の婚姻と庶子の認知は前後を問わない。男が妻の没後に別の女と再婚したら、庶子から見ても後妻は嫡母にあたる。


 つまり、姜皇后から生まれた太子は嫡出子だ。姜皇后の生前には第八皇子も第九皇子も庶子だ。

 だが、姜皇后没後の李皇后冊立で、太子は嫡出子の地位を失わない。第九皇子は準正として嫡出子と同等の扱いを受けることになる。


 一方、第八皇子が庶子であることには変わるまい。李皇后は新たな嫡母なのだ。


 真面目だったかは別にしても、こんなわけのわからない状況になっても、役に立つのだから法学部を卒業していてよかったなと思う。


 ただ、夫の家族関係が妻にも及ぶのは面倒だなあと俺は思うがね。



 さて、李皇后はいかなる人か。


 被害妄想的なところがある人ならば、俺が大いに侮辱したと捉えることだろう。後妻に向かって庶子の妻が、お前は姑ではないと言い放ったようなものだから。


 皇后は立ち上がり、まだひざまずいている俺の手を取って立ち上がらせて言った。


「本宮(ほんぐう)で良かった。別のお方がこの皇后位にあれば、県君は罰を与えられかねぬゆえに」


 どう捉えるべきなのだろうか。


 つまりだな、「私は気にしないけど」と言う人がいるじゃないか。あれは「己は大変気にするのだ!」と暗喩する人と、「気にする人も少なくないので注意しろ」と警告している人がいる。どちらにせよ、気にしているのだが。


 李皇后は、一身に寵愛を受けたというが、俺は四十男なんだよなあ。十八歳の息子がいる女は四十前後で、顔を見れば若い頃どんな顔だったかの想像がつく。

 美人というよりも、どちらかというとちゃきちゃきの下町っ子だったのではないだろうか。

 いわゆる、「おもしれー女」枠で寵愛を得た。一方、大変な苦労もしただろう。その経験から警告を発しているんじゃなかろうか。


 皇后は続けた。


「この目で見るまでそなたが記憶を失ったとは信じられなかったのです。丁寧に育てられたそなたは、賢く、礼節をよく知った。それが人前で郡王におんぶされてじろじろと見られた上に、本宮に叱責されるような真似をするとは」

「おそらく、穴があったら入りたいと思うほど恥ずかしいことをしでかしたということでございますか」


 皇后は一度目をつぶって頷いた。

 皇后は俺の手を取って、円卓の左隣の椅子に座るように勧めた。


 女の体になったから知ったのか、ここだからなのか、結構、ウェットな感触のコミュニケーションを取るものだ。


「県君、ゆっくりと記憶を取り戻していけば良いのです。記憶が戻らないならば、学べば良い。そなたの母君はかつて思わぬ縁を得て妃嬪の末席に加えられた本宮の良き友であり、良き師匠でもあった」


 趙小瑶の母親と!?

 その話は聞きたい。


 女官が円座に茶と菓子を置いたのだが、郡王が女官にそっと何か耳打ちした。


「母后娘娘、母と親しかったのですか?」


 皇后は微笑んで頷いた。


「本宮は出産前の話を二人にしたことがない。県君は母君から聞いていたのかもしれぬが忘れているならば、三人とも本宮の若い頃の話は知るまいなあ」


 女官が二人ほど再び入ってきた。小さな火鉢の上にこれまた小さなやかんを置いて、火をつけた。

 もう一人は別の小さな火鉢の上にこれまた小さな陶器を置き、水を注いで黒い物体を置いて下がっていった。


「郡王、何を?」

「母后娘娘、王太医には薬を飲んでいる間は茶は避けた方が良いと言われておりますゆえ、われら夫婦は黒糖生姜にてご相伴いたします」


 皇后は微笑んだ。


「郡王まで?」

「本王には少しのぼせるだけですし、一人だけ茶を飲めぬのはなんとも寂しいものでしょう」


 皇后の右側に周王が座った。


「本宮も生姜湯が欲しい。いくら暖かい南都でも体が冷えがちなのじゃ」


 そして任せなさいとばかりに立ち上がって火鉢の方へ行って、袖を捲り上げて生姜湯の方を箸でかき回し始めた。


「我ら三人の子がここに集い、本宮が皇后になるとは、あの頃は思いもよらなんだ」


 流れるような手つきで、今度は湯を二つの茶碗に注いですぐに茶海に捨て、また注いで二人の皇子たちの前に置いた。


「冬の女人には生姜湯が良いと教えてくれたのは、胡玲瓏(こ・れいろう)姉さまだったし、茶の淹れ方を教えてくれたのは、張婉児(ちょう・えんじ)姉(ねえ)さまだったのじゃ」


 俺たちは顔を見合わせた。張婉児は、張嬪つまり泉北郡王の生母だし、胡玲瓏は趙小瑶の母だ。


 皇后は、生姜湯を竹の杓子で茶碗に注ぎ、一つを俺に勧めて座った。


「本宮はもともと商家といっても、小さな商いをする貧しい家でしかなかったのだが、太后娘娘が私的にお使いになる目的の布を納めていた。その縁で一度後宮を見てみたいと母についていったら、陛下との縁ができて妃嬪に封じられることになった。これまた縁あって、女官の姉さま、太后の姪の姉さまと親しくなり、三人で桃園の誓いではないが、梅園の梅花の下で生涯の友情を誓った。本宮は小さな商家の娘なので、そろばんを弾くことはできたが、琴だのなんだのは仕込まれておらぬ。それもあって、いろんなことをしでかし、笑われた。胡姉さまにはいろんなことを教えていただいて、太后娘娘が仕立てられた嫁入り道具の一部まで本宮が李嬪として体裁を整えるために譲ってくださった。張姉さまには姜皇后の叱責にかばっていただくこともあった。一番のみそっかすが、皇后にまでなったが、恩を返す前に二人とも亡くなってしまった。姜皇后の宮が封鎖される折に、太子殿下が東宮に引き取ろうとした第八皇子殿下を、なんとしてでも手元に引き取ろうとしたのは張姉さまの遺児だったからじゃ。胡姉さまは太后の寵愛深く、望めば貴妃にでも、異姓の郡主にでもなれたろうに、決して太后の寵愛を笠に着ることなくしておられた。本宮は己を律される胡姉さまを念頭に置き、陛下に何かをねだったのは一つしかない。それが第八皇子殿下じゃ」


 そこで皇后はため息をついて生姜湯を口にした。


「張姉さまは出産後に姜皇后に子を奪われた上に、放置された。様子を伝えてくれるように金を握らせた産婆が本宮のところに駆け込んできたが、本宮は数ヶ月前に御子を流してしまったばかりで、皇后宮に見舞いに行くこともできず、産婆は太后宮に行くこともできなかった。だが、胡姉さまが本宮のところで連絡を待っておられたので、胡姉さまが太后令を持って乗り込まれ、張姉さまを太后宮に持っておられた殿舎に引き取られた。張姉さまが息を引き取られたのは、胡姉さまの元。太医曰く、胡姉さまが張姉さまに生姜湯を飲ませなかったら、その死はもっと早かっただろうと」


 郡王が呟いた。


「……皇后宮に殿舎を賜ったと……」


 皇后は首を振った。


「出産まではね……」


 皇后は生姜湯をすすっては、ため息をつく。


「本宮の二度目の妊娠では、趙夫人として同時期に胡姉さまも妊娠しておられてね。太后娘娘が太后宮で世話をしたいと引き取っておられ、丁度良いと本宮も太后宮に誘っていただいて、太后娘娘のおかげで無事に、安心して出産できた。胡姉さまは男児を、本宮は公主を望んだのに、反対だったと二人で笑ったが、張姉さまがおられればどんなに幸せかと二人で話した。太后娘娘が第八皇子殿下を可愛がっておられて、赤ん坊を見に連れて来られて、赤ん坊の二人を見て可愛いと言ったのを思い出す」


 最後に飲み干して言った。


「本宮は、貧しい商家の娘でしかなかったが、陛下のお目に止まったせいですぐに李嬪と呼ばれるようになった。しかし、張姉さまは貧しさゆえに後宮に下働きとして売られた子で、その才覚一つで皇后付きの女官になり、姜皇后によって陛下に差し出された。ゆえに、張貴人でしかなく、没後に皇子出産の手柄によって張嬪に封じられた。趙小瑶が将来の貴妃の位を約束されても、太子殿下を選ばないと聞いて、本宮はかの胡姉さまのお子らしい判断だと思った」


 俺たちは顔を見合わせ、周王が口を開いた。

「……瑶瑶が太子殿下を選ばなかった、とは?太子殿下が瑶瑶を側室にと申し入れられた直後に、わたくしも母后さまを通じて正夫人にと申し入れたではありませんか……それを太后娘娘が二人とも退け、申し入れすらしなかった八兄さまに……」


 皇后は周王の背中をさすった。

「あの太后娘娘が小瑶の一生のことを決めるにあたって、その希望をお聞きにならぬわけがないではないか。本宮も真剣に太后娘娘に、同じ時期に生まれた二人を是非にと申し入れた。しかし、小瑶本人の口から本宮も聞いたのです。第八皇子殿下と。本宮の申し入れにより、太后娘娘も、郡王正夫人よりも、親王正夫人の方が良いのではないかとおっしゃったが、第八皇子と。胡姉さまの娘らしいと太后娘娘と話したのだから、間違いはない」


 周王は震える声で聞いた。


「八兄さま……何か小瑶本人に……」


 郡王は、そっと茶碗を置いて、その場に跪いて手を前に組んだ。


「この郭昂、母后娘娘と親王殿下に誓って申し上げます。何も言ったことはありません。夫人が選択したとも聞いておりません」


 わかった。


 この男は趙小瑶を皇后や周王との縁を邪魔する迷惑な存在だと思っていたのか……。

 そりゃ、反抗期の十八歳の女の子には許せまい。うまくいかないのも仕方がないか。


 俺は本当に処刑されるかもしれない。


 だが、郡王は意外なことを続けた。


「しかし、この度落馬から昏睡している間、どれだけ大切な人だったかと実感しました。記憶が戻らぬと言えど、やはり趙小瑶は郭昂の愛おしい正夫人です」


 そして、深々と土下座をしたのであった。


 ほぉ……。


 この二人は、反抗期真っ只中の十八歳と、反抗期を終えかけた二十歳だったんだろうなと俺は思う。

 こちら、つまり趙小瑶が反抗的な態度を取らなかったら、おそらく郡王も素直になれる。

 逆もそうで、郡王が素直な態度を取っていれば、趙小瑶も愛情を返しただろう。


 そして、忠犬九ちゃんの反抗期は、結婚しないというあれだな。そのうち落ち着くんじゃないかな。


 周王は立ち上がり、郡王を立たせて抱きしめた。並ぶと心持ち、周王の方が背が高い。


「本王にとって、二人とも大切なのだ。八嫂との不仲を伝え聞いてぶん殴ってやろうかと思った……」


 皇后が立ち上がり、口の前に人差し指を立てて音を立てぬようにと合図をして手招きするので、俺もそっと後に続いた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る