第10話 紫薇

 夕方になる前にやってきたのは紫薇だ。


 木蓮が縁側に火鉢を二つ置いて、一つには薬湯を、もう一つにはお湯を沸かした。

 木蓮は言った。

「そろそろ娘子のお薬の時間です」

 そして茶葉を持ってきて続ける。

「ここ、安渓から娘子へと持ってこられた茶葉です」

 木蓮がお茶を淹れようとしているのだが、この人は言った。

「私がお世話いたしますよ」

 それで木蓮は下がった。


 今、紫薇が話す内容をまとめるとこうなる。


 元は後宮で太后に仕えていた女官だ。


 周王が言った通り、太后には妹が一人いたが、この妹という人が一人娘を残して早世する。それが、趙小瑶の母親なんだが、母方の伯母の太后の元で成長した。


 紫薇はその頃、趙小瑶の母親のねえやとして仕えたのだという。


 この母親が趙府に入る前にはすでに、女官の年季が明けていて、ある男と結婚したのだが、いつまでたっても子どもができない。肩身の狭い思いをしていたところ、趙小瑶の母親が離縁を勧めて、趙小瑶の世話をする乳母として手元に呼び戻したのだという。


 趙小瑶は母親が亡くなった翌年、母親同様に、後宮の太后宮に引き取られる。それに前後して父親の趙尚書は紫薇を「通房(つうぼう)」にしてしまった。


 通房というのは、お手つきの侍女のことだ。


 紫薇は木蓮が出した茶葉はそのまま紙をたたみ直して、俺の方にすっと置いた。


「父上さまをお責めにならないでくださいましよ。女っ気は他にはありませんので」


 きっと、以前もこの人はそう言ったのだろう。


 趙小瑶の性格がわからないが、顔に似合わず気の強いお嬢さまだったとしたら、父親が自分の乳母を通房にしてしまったことに腹を立てて、大伯母を頼ったのかもしれない。


 俺は四十だし、他人なので、冷静に判断する。


 紫薇は太后とは主従関係だったことがあり、後宮のことにも通じる。趙府についても、長年乳母として知っているんだ。きっと尚書は忙しくて、切り盛りする人が必要だったろうな、と思う。


 俺が答えないうちに、紫薇は続けた。


「石女(うまずめ)でございますから、子はおりません。趙氏全体のことはお嬢さまの伯父君にあたるお方にお任せしますし、お嬢さまが尚書の一人娘であることは変わりませんから」


 そう言って、温めなおされた薬湯を竹の柄杓ですくっては木の器に注いだ。 


 ふと思ったのだが、この趙小瑶は何かの「キー」になっている。


 例えば、財産だ。


 趙府にどれだけの財産があるかわからない。女子相続権がこの国にあるかも不明だ。しかし、郡王正夫人に県君として自由にできる財産があるということは、他に男子がいない場合に限るのかもしれないが、ある程度の財産を手にする可能性がある。あくまでもこれは可能性だが。


 そして、母親同様に、太后の元で育った娘だ。ひょっとして太后からの「何か」がある可能性がある。それは一度趙小瑶の母親に伝えられたものかもしれないし、趙小瑶本人に渡されたものかもしれない。

 

 この前考えたように、太后が次の皇帝選びに介入しているならば、「趙小瑶」に何かの役割がありかねない。


 もっと、具体的に言えば、趙小瑶のいる側を太后が支援するということだろうか。



 紫薇の用件は自己紹介ではない。俺があの、宦官に頼んだことの返事だった。


「娘子がいろいろお困りと伺いまして、このいじょうに説明できることは説明いたしますよ」


 確かに、昔からの仲であり、太后から見れば信頼できる相手なのだろう。


「まず、『いじょう』とは何なのでしょうか」


 紫薇は微笑んだ。


「お嬢さまのような嫡出のお子さまがたから見たとき、私のようなお父さまの妾のことを申します。字は、」


 書いてくれた字は「姨娘」だった。日本語では見ないなあ。


「姨娘」

「ここにおります」


 紫薇はにこっと笑った。


「敬称についてもっと教えてください。大失敗してしまったようです」


 聞いているのだろう。もちろんですとも、と紫薇が微笑んだ頃に、お湯を入れた方の鍋もポコポコと沸騰した。


 紫薇は別の竹の柄杓で、今度はピッチャーのような陶器の器にお湯を入れながら答えた。


「本朝の後宮では、三后が『娘娘(じょうじょう)』。それ以外の妃嬪からは『娘子(じょうし)』とお呼びします」


 ふと俺は楊貴妃を思い出して聞いた。


「貴妃のような方々や東宮妃もですか?」


 紫薇は頷いた。


「その通りです。王朝によっては、娘子のような郡王夫人もまた郡王妃と呼ばれることもありますが、本朝においては東宮妃以外の、皇子の正妻は、親王・郡王を問わず『娘子』です」


 面倒だ。本当に面倒だ。だが、こういうことの積み重ねで人間関係はスムーズに動くようになるのを俺は知っている。


「皇子には、親王と郡王がいるそうではないですか。敬称は変わりますか?」

「東宮と各諸王がたには同じく『殿下』を用います」


 ということは、周王こと九殿下は正しい呼び方なのだろう。


「親王の夫人もどこかの県君ですか?」


 紫薇は頷いて、薄い器二つをそれぞれ木の受け皿の上に置いて、少し冷めた白湯を注ぐのだ。


「今は東宮以外に親王はお一人です。第九皇子の周王殿下でこの方にはどなたもおられません」


 そして、一つ俺の方に木の受け皿ごとすすめた。


「東宮殿下は、先の姜皇后のお子ですが、この皇后はお亡くなりになっておられ、東宮妃娘子がおられます」


 俺はようやく苦い薬湯を飲み干したところだった。


「お薬を飲んでいる間は、お茶は控えられた方がよろしいそうですので、お口直しにお白湯を」


「郡王殿下から王太医にそう言われたと聞きました。姨娘はお飲みになればいいのに。大変うまいそうですよ」


 紫薇は手を振った。


「娘子がお飲みにならないのに、私が飲めるものですか。お元気になったらご馳走になりますから」


 そして空中に字を書きながら話を戻す。


「東宮殿下は第三皇子であられます。その上に、第二皇子の洪南郡王(こうなんぐんおう)がおられ、夫人は安義県君(あんぎけんくん)。他には第六皇子の潭北郡王(たんほくぐんおう)と、夫人の劉陽県君(りゅうようけんくん)です」


 二、三、六、八、九の五人の皇子がいる。


「今、陛下は太后娘娘と皇后娘娘を連れてこの南都に療養に来ておられます。太子夫妻は帝都に残っておられ、洪南郡王殿下は夫人を伴って東都におられますし、潭北郡王殿下はお一人で北都におられ、夫人は帝都におられます。先日周王殿下が帝都から来られましたので、今この南都で陛下につき従われる皇子は周王殿下と泉北郡王殿下のお二方です。」


 やはり複都制だ。ただここは首都ではなく、「南都」というからにはおそらく南方を治めるための陪都だ。


 前近代の中国の各王朝は広大な国土を治めるために、しばしば複数の都を置いた。皇帝が常在する都が首都であり、その他は陪都である。


 例えば唐は難攻不落の長安を首都に、穀物が集まる商都の洛陽を陪都にした。

 北方が軍事の最前線になる時代や、北方の騎馬民族の国家では、今の北京に都が置かれることもある。

 宋のように皇帝が複数の都を移動することもある。

 当初は南京に首都を置いた明も、後に北京を首都に遷都し、南京は陪都になる。


 待てよ。


 明の北京への遷都は永楽帝だ。これもまた「靖難の変」によるもので、日本の壬申の乱同様に、叔父が甥を死なせた。


 ゾッとしないわけがない。


 今上の皇子たちの他に、先帝の皇子たちもまた帝位を争うのかもしれない。


 そこに今度は海蘭がクルミを持ってきた。


「ここ、王太医から娘子のおやつにクルミが良いと言われました。さっき割ったばかりでございます」


 この間海蘭はクルミを割っていたのだろうか。


「海蘭が割ったのかい」


 海蘭は、はい、と頷いた。


「いくつかお取り」


 海蘭は一つだけ取って下がった。


「もっと取ればいいのに。二人とも遠慮がちな」


 俺が言うと、紫薇は笑った。


「御覧なさいな」


 指差す皿には、全て形の綺麗なクルミばかりがある。


「割れたものはもうあの子の腹の中ですよ」


 そして、くっくと笑って続けた。


「親切にしすぎると、つけあがるものです」


 人を使うのは、確かに難しい。


 俺は聞いた。

「さっき海蘭が『ここ』と言っていたのはなんですか」


 紫薇は空中に書きながら説明した。


「姑姑というのは、本来は父方の伯母のことです。ただ、後宮では高位の女官に向けて低い身分の者が使う敬称として用いられます。この呼び方をされる者はあくまでも使用人の立場にあります。私は娘子の乳母という立場なので木蓮や海蘭は私をそう呼びます。趙府でも常にこのように呼ばれます」

 

 そして、俺はまた話を戻した。


「太子の生母の皇后がお亡くなりということは、今は別の方が皇后に?」


 紫薇は頷いた。名前については字を書きながら教えてくれる。


「数年前に姜(きょう)皇后娘娘が亡くなられました。昨年李(り)皇后娘娘が冊立され、この方が周王殿下のご生母です」

 そして少し間を開けてこう続けた。

「こちらの泉北郡王殿下はご生母を早くに亡くされ、幼い日は姜皇后娘娘が養育なさり、姜皇后娘娘没後は李皇后娘娘の元におられて元服なさった方です」


 あまりピンと来ないことに気づいて、紫薇は説明した。


「後宮は、複数の『宮』で構成されます。南都は陪都ですから、後宮といっても、臨時のもので太后宮と皇后宮の二つしかありません。帝都の後宮はこの郡王府の広さほどではありませんが、壁や垣根で分かれ、独立した屋敷のようなもので、普段から毎日のように互いを行き来しているわけではありません。太后が養育するというのは、太后の宮で育つという意味です。皇后が養育するということは、皇后の宮で育つという意味です」


 平安京の平安宮の図は見たことがある。弘徽殿があり、これが梅壺だ、これが藤壺だ、という、あれだ。一つずつが完全に独立しているようには見えなかったが、規模が違うのかもしれない。


「つまり、太子殿下と泉北郡王殿下はしばらく一緒に育ち、その後に泉北郡王殿下は周王殿下と一緒だったのですか?」


 紫薇は頷いた。


「姜皇后娘娘の皇后宮では、第八皇子の泉北郡王殿下と第三皇子の太子殿下は少し年齢が離れておられます。各宮の間はそんなに頻繁に行き来するものではないと申しましたが、年齢の近い皇子がたは一緒に学ばれますし、仲が良ければ自然に行き来することになりますでしょ。郡王殿下がご兄弟の中で最も親しいのは第九皇子の周王殿下です」


 各宮はほぼ独立しているが、皇子たちの行き来は、学校から帰って仲の良い友達の家に行くようなものか。


「周王殿下は日中は皇后宮におられますが、夜はこの郡王府でお過ごしでしょう?挨拶に来られたのでは?」


 近々どころか、ポジティブ忠犬九ちゃんこと、周王は現れたぞ……。あいつ……この郡王府にいるのかよ……。


 そろそろ帰る素ぶりをした紫薇は、最後に言った。


「太后娘娘の元にしばらくおられませんか。陛下のために太医たちが控えておりますし」


 俺が一蓮托生になっているだろう郡王が何を考えているのかがわからなくなる。それは困る。


 だってあいつが死ぬはめになったら、俺も死ぬんだろう?


 誰かの行動と一蓮托生になってるのに、その行動決定に俺が関与できないってフェアじゃないぞ。一緒にいれば何らかの働きかけることもできるだろうが、一緒にいなければそれもできなくなってしまうじゃないか。


 日本人らしく曖昧に笑って誤魔化そうとすると、沈香の甘い香りと共に邪魔が入った。


「夫人の面倒は本王が見る」


 泉北郡王が帰ってきたのだ。

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