第9話 敬称を間違えて怒られた!

 庭を別の角度から眺めながら、郡王は火鉢の前に正座をし、俺に向かいに座るように促した。


 調子が悪いと、「ああ庭ですね!なんか東洋風なんでしょうね!」としか思わなかったが、調子が良くなってから見ると、葉のない木の、先に少し色があるのがわかる。


 火鉢には薬を煎じる準備がしてあった。


「政務府へ行かねばならないから、夫人の薬を煎じる間なら答えよう。続きは帰ってからだ」


 それで十分だ。


「まず郡王の名を誰も教えてくれない」


 郡王は小さく笑った。


「本王は、かく・こう。字がわからぬな。城郭の郭。こうは意気軒昂の昂」


 言われるがまま、俺は空中に字を書いた。


「年齢は、二十。当代の第八皇子である。泉北郡王に封じられた」


 周王が教えてくれたことと一致している。


「本朝では、東宮以外の皇子は親王か郡王に封じられるのだが、本王は一番下の従三品郡王であり、五人の皇子の中で一番末席に並ぶ」


 皇子は三人だけではなく、五人か。


「第八皇子だけど皇子が五人ということは、」


 郡王は頷きながら答えた。


「東宮含めて、上に三人。下に一人。それ以外は早世した。東宮以外では、一番下が一番身分が高い。あの二人はそれぞれ先皇后と現皇后生んだ嫡子だから、親王。それ以外は郡王に過ぎない」


 忠犬九ちゃんは息子の中では一番若く、皇后の息子だった。ただ、皇后は一人ではなくて、先妻と後妻の二人がいたことには気づかなかったね。


「だが第九皇子の周王は、八兄と呼んで俺の後ろにいることもある。正式には末席は本王なので、皇后不在の、私的な場ならまだしも、皇后のいる場や、公的な場で間違えてはならぬ」


 俺は頷いた。


「本王の生母はちょうひん」


 空中に字を書いてくれたのは「張嬪」。ああ、「妃嬪」と書いて「ひひん」と言うよな。


「すでに亡くなっているし、元々身寄りのない女だから縁戚もいない。母の名前を騙って王府を訪れる者がいたら、打ち払って良い」


 なかなか物騒なことを言うなあと思っていたら、郡王は何かを考え始めた

「他に何を言っておかねばならぬかな……」


 俺は聞くことにした。


「安渓県君とはどう言う意味なのかがわからない」


 火鉢の火が弱まってきたからか、郡王はシュロの葉を編んだようなうちわで扇ぎながら答えた。


「本王が封じられた地は、泉州という南方の地である。泉州に安渓県という地があるが、安渓県から上がってくる税収は夫人のものだという意味だ」


 わお。


「安渓は茶の名産地で、初夏と冬に一番良い茶葉が届くことになっている。王太医は茶は今の薬との相性が良くない故に控えられよと言い残したので、良くなったら、試すといい。うまいぞ」


 とうとう火鉢の墨火が消えた。

 郡王は優雅な手つきで竹のひしゃくで薬湯を掬い、木の器二つに注いだ。量が多い方にふうっと息を吹きかけようとしてやめた。


「息がかかるのも嫌だろうな」

「息がかかるくらいなら構わない」


 郡王はふうふうと息を吹きかけて、お盆に乗せてすっとこちらに寄越した。薬湯の上にはまだ白いものがいろんな形を作っては湯気になって立ち上るほど熱い。


「食後に飲むものではないが、たいして食べてないのだから、少し冷えた頃に飲むといい」


 郡王は自分の方に薬にふうっと息を吹きかけて冷まして飲んでみせた。


「あとでライチを出してあげよう。ライチは泉州の名産だ」

「大好きだ」

「知ってる」

「俺の記憶の中の俺も、この体の俺も、やっぱり同じ俺だ。胡蝶の夢」

「孔子だな」

 孔子だ孔子だと言われると、本当に、荘子ではなくて孔子のような気がしてきたじゃないか。


「本王は政務府に行った後で参内して、今日からは夫人は普段通りの生活を始めますと申し上げてくるから。続きの話は、帰ってきてからにしよう。残りは別の器にでも取っておいて、昼すぎにでも温めなおさせて飲むといい」


 郡王が去ると、小姓と一緒に海蘭が入ってきた。

「娘子ぃ」


 俺は薬を飲みながら、庭を眺めた。本来は水が入るのだろうか。水路なのかなと思うような深さの溝が掘ってあって、石橋までかかっている。

 遠くの方にたまにきらきら光るものがあると思っていたが、湖か何かがあるようだ。そこから吹き付ける風はまだ冷たいが、木々は芽吹く。


 春だな。


 ざっと頭の中に世界地図を広げるが、確か唐の都の長安、つまり中華人民共和国の西安は東京と変わらないか、東京よりも北部にあったような記憶がある。


 この南都はどこだろう。


 海蘭に聞いてもわかるまい。


 少し冷えた苦い漢方薬をぐいっと飲み干して、ドライライチを割って、中身をポンっと口に放り込んだ。

 ブニブニグネグネしてうまい。

 ここがどこだろうが、安寧に生き抜いてやる。現状把握しなくっちゃ。



 午前中に来たのは太后からの見舞いの使いだった。


 どうやら、王太医が俺を診察していたのは、太后命令だったらしい。俺の身分では診察もしてもらえないような相手のようだ。つまり、王太医の診察自体が太后からの見舞いだったが、平常の生活に戻したと聞いて、確かめに来たということだ。


 ところで、俺は!宦官を!初めて!見た!


 高い声で髭がなく、年齢不詳の爺さんをじろじろ見るわけにはいかない。日本のサラリーマンらしく、真面目くさった顔をして言った。


「聞くところによると、この趙小瑶、皇太后陛下には養育の恩を賜ったそうです。しかし、全て記憶を失い、別人の記憶を持っております。大変申し訳ありませんが、どなたか後宮の礼儀作法について教えてくださる方はおられないでしょうか」


 まさか、これで叱られるとは思いもよらなかったぞ。

 宦官は一瞬だけギョッとした顔をして、すぐにしかめつらしく答えた。


「県君のおられたところには皇帝はおられますか」

「はい。天皇と皇后がおられます」

「それぞれどのような敬称を用いるか伺えますか」

「天皇陛下、皇后陛下と申し上げます」


 宦官はわざとらしく目をくるりと回した。

 それを見て海蘭が膝をついて宦官に言った。


「こうこう。奴婢が娘子に申し上げていなかったのです。三后(さんこう)に用いるのは、じょうじょうの敬称と」



 ここ数日間の間、日本史と世界史、そして古文と漢文の大学入試レベルの知識を必死で思い出している。だって二十年以上前だぞ。


 日本史でいうところの「三后」というのは、一人の天皇に対して三人の「后(きさき)」を置くことができる。三人の正妻という意味ではない。


 太皇太后、皇太后、皇后の三つの位が「三后」だ。それ以下、例えばの「源氏物語」の「女御更衣あまた」の「女御」も「更衣」も、天皇に仕える立場でしかない。


 皇室出身者ではなかったら、立后して初めて、「宮」と呼ばれる。


 これが問題になったのが、平安時代の一条天皇時代だ。


 一条天皇が藤原定子を女御にした当時、先代の花山天皇には后はいない。だが先々代の一条天皇の父でもある円融天皇の皇后だった藤原遵子がそのまま「皇后」だ。


 一条天皇の即位に伴い、一条天皇の生母で円融天皇の女御だった藤原詮子が「皇后」を飛び越して「皇太后」になった。


 おまけに「太皇太后」として円融天皇の先代で円融天皇の兄にあたる冷泉天皇の皇后だった昌子内親王がまだ存命だ。


 この「三后」を引き摺り下ろしたのは、それまでに二回あった。


 奈良時代に光仁天皇の皇后だった井上内親王は光仁天皇を呪ったとして廃后になった。その次は平安時代に、清和天皇の皇后の藤原高子が皇太后だったときに姦通を理由に宇多天皇に引き摺り下ろされた。


 一条天皇時代、この三名の「后」には非がなく、そういうわけにはいかない。藤原道隆は皇后の別称の「中宮」を「皇后」と分離させて、娘の定子を中宮にし、四人の「后」を存在させた。


 これが後に道隆の弟の藤原道長によって、定子を皇后に、彰子を中宮にする布石になる。


 この大学入試レベルの知識はあるが、当然ながら平安時代の后への敬称はよく知らない。 


 清少納言は「枕草子」では確か定子のことを「宮に初めて参りたるころ」と書いていて、「宮」だったり、主語を消したような記憶がある。


 紫式部は「紫式部日記」では彰子のことを書くときに、やはり主語を消したと記憶している。


 ああ、俺の知識なんて、大学入試レベルなんだから。俺の夢の中だろうに、俺の知らないことを出さないでほしい。


 まさかここでの后への敬称が、現代日本と同じ「陛下」ではないとは知らなかった。


 後で海蘭に「じょうじょう」は「娘娘」と書くと知らされた。宦官への敬称は「公公」だ。


 申し訳ないと泣いて謝るのだが、大げさに謝られると、嘘っぽく感じれないかい?


 銀行でもあったな。派閥争いの中で、何かを意図的にか無意識にかは別にしても隠していることがあった。


 伝言ゲームの失敗くらいだったら、笑いはしなくてもあることだな、で終わる。

 しかし今回は下手したら命がかかる。

 日本では大友皇子も徳川忠長も死んだ。中国では李世民は兄を殺した。


 海蘭は信じない方がいいのだろうか。

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