白霧部隊


——バシャッ!


それまで深奥に沈んでいた私の意識は、頭から引っ被せられた凍り付くほどの冷水によって強引に覚醒させられた。


「は……っ」


ポタ……ポタ……。


髪の毛から滴り落ちる水滴。


痛い、凍える、心臓が悲鳴をあげている、未だ薬物の影響が残る脳みそが無理やり再起動させられた、思考も感覚も何もかもが鈍い。


手足は痺れ力が入らず、また厳重に全身を拘束されており鼻をかくことすら出来やしない、ストランドの所ではめられていた足枷とは比べ物にならない。


首から下の一切の自由を封じる拘束具、それを着用させられて椅子に座らせられている、当然ながら立つことはおろか身動きひとつとる事は出来ない。


控えめに言っても最低の気分だ。


そして。


そんな最低の気分を更に最低最悪に貶める存在が、私の目の前で空になったバケツ片手に立っていた。


「お目覚めですか」


白々しく、まるで宿屋の店主が客に言うような、あるいは仕えている使用人が主に向かって言うかのような丁寧で気遣いのある声が届く。


「おかげさまでな」


皮肉たっぷり、口元の端を歪め見上げながら言う。


「それは結構です」


ガチャン……とバケツが置かれる。


アルカ=マグヌス=ゾルトウェイトはかつて私がまだ英雄となる前、ただの一介の兵士であった頃、上から下った暗殺任務にて殺したはずの人物であった。


「貴女を生かして連れてきたのは少し気になることがあったからです、多少痛い思いをしてもらいますが我慢して喋ってもらいますよ」


懐から取りだした布の道具入れ、それを台の上にクルクルと広げてメスやらノコギリやらをひとつづつ並べていく。


……異常者め、当時から何も変わっておらぬな、昔からこいつは正当らしい理由を付けて他者を痛め付けたいだけのイカれた殺人鬼だった。


どうせ今回も同じだ。


「それでは質問をさせて頂きます、貴女は一体何故この街にやってきたのですか?」


右手に持ったメスが、早くそれを使いたくて仕方がないというふうにゆらゆらと揺れている。


私は奴の目を見て答えた。


「お前の顔を踏むためだよ」


その瞬間ゾルトウェイトはにっこりと笑って、私の顔面を拳で殴り付けた。


ビチャッ……。


今の一撃で鼻が折れた、血が垂れ流しになる、口の中に溜まった血を男の足元目掛けて吐き捨ててそのピカピカの靴を赤く汚してやる。


「貴女がこの街に来た時、一緒に居た方達は誰ですか?」


ニヤリ、と笑って再び奴の顔を真っ直ぐ折れぬ心で見つめてこう答えた。


「お前の母親の浮気相手じゃよ」


またしても顔面が殴り抜かれる、激痛が脳髄を駆け巡り視界がチカチカと七色に瞬いて歪む、白い部屋の床に赤い飛沫が散った、だが殴打は止まらない。


右、左、また右と衝撃が往復して回る、歯が折れ口の中が切れ顔中が血みどろになろうとも彼は私を殴り続けた。


このまま殺されてしまうのではないかと思いながらも今の私には抵抗する術がない、せいぜい意識を失わぬよう努めながら脱出の機会を探るのみだ。


気が遠くなる程の時間が過ぎ、やがて暴力は止まった。


「どうでしょう、なにか思い出しましたか?」


血の着いた拳を布で拭いながら、さながら迷子の子供に母親の所在を尋ねるが如く声音で聞いてくる。


「下手くそな施術じゃな」


ガッ!硬い硬い鉄の詰まった踵で顔面をぶち蹴られる、顎の骨にヒビが入ったのが分かった。


「タフだろうとは思っていましたがこれは良い、たくさん殴ってもたくさん元気なままだ」


そして奴は私の足元にしゃがんで、まるで子供のように無邪気な笑顔を称えながらこう語った。


「これからあなたの腰から下の皮を剥いでいきます、少しづつ丁寧に、それでも何もお話いただけない場合は患部に塩を塗った後で露出した肉をにします」


メスの刃が肌を貫く、そしてグリグリとほじくるように乱雑に動かされる、神経が傷つき筋肉がズタズタにされていく。


激痛を味わいながら私は声ひとつ震わせることなく欠伸をかまして言い放ってやった。


「終わったら起こしてくれ」


「先に逝ってしまわれないで下さいね」


そして地獄が始まった——。


✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱


……あれから一時間が経過した。


私は、もはや生きているのか死んでいるのかすらも分からない状態になって、椅子の上でぐったりとしていた。


剥がされた足の皮、傷付けられた筋肉、へし折られた両手の指、切開され掻き回された腸、薬物による幻覚に切り取られた耳。


「これだけやってまだ何も言いませんか」


「……」


もう返答は無い。


「さすがにそろそろ潮時ですね」


ガシャン、それまで使っていた器具を台の上に放り投げ、元の色が何であったのか思い出すことも困難なほど血で汚れた己の腕を水で洗い流す。


「貴女から話が聞けたなら手っ取り早かったのですが仕方ありません、もし一緒にいたのが仲間だとしたらもうそろそろ助けにやってくる頃合です


彼らがどんな存在であれ、貴女と一緒に居たということはまともな方達ではないのでしょう、何を企んでこの街にやって来たかは知りませんが狩り標的を提供して下さりありがとうございました」


そんな戯言と共に耳に届くのは道具が片付けられていく音、いそいそと支度をしてここから逃げ出すつもりでいるのだ。


……無論、それだけで終わるはずはない。


「貴女は私の顔を見た、当然生かしておくわけにはいきません、出来れば戦場で決着を付けて差し上げたかったのですが残念です」


コツン、コツンと足音が近づいてくる、やがてそれは私の真ん前へとやってきて立ち止まり、恐ろしく冷徹な声が頭上から掛けられた。


「何か言い残すことはありますか?」


「——」


小さい声で、ボソボソと、辛うじて音として認識するのがやっとな程か細く言葉を発する。


「なんと?」


「……な、す」


ゆっくり息を吸って……呼吸を、整わない呼吸を整えて、咳き込みながら必死に声を絞り出す。


「は……な、す……しっ……てる、こと、話すから、いのち……いのち、だけは……」


「……なるほど」


少しの間が生まれる。


明日へと続く希望の訪れか、長らく立ち込めた暗雲が晴れるのか、夜闇が打ち破られロウソクが継ぎ足され、閉ざされていた道が遂に解き放たれたのか。


やがて。


「フッ」


失笑が降り注いだ。


「その手には乗りませんよ」


無慈悲にも、血管に差し込まれる注射針。


そしてそこから劇薬が注入されていき……


——ガギンッ!


破壊され、四散する両手足の拘束。


「……っ!?」


長らく、拷問の間ずっと、慎重に確実に、たっぷりと時間を費やして掛けられ続けていた負荷が、この鋼鉄のような拘束具の耐久力を削りきっていたッ!


拳が、ゾルトウェイトの顔面を打ち抜く。


「グッ……!」


ガラガラガラッ!音を立てて台と一緒に上に乗っていたものを巻き込んでぶっ飛ぶ怨敵、私が放った今の一撃はどうしようもなく『生きて』いた。


——顔を上げる、焦点定まる瞳で。


——立ち上がる、ふらつかないその足で。


——腕を伸ばす、墓穴から這い出でる亡者のように。


今この目に捉えるのは過去にやり残した不始末だ、私があの時しっかりと首を跳ねておけば起こらなかった出来事。


「……どうやって生き残ったのかは知らぬが、今度こそまことの死をくれてやろう」


拳を構えて敵を見据える。


「ハ、ハッハッハッハ!まだそんな風に動くことが出来るのですか!我ながらやりすぎなぐらい警戒を重ねたつもりでしたが尚も足らなかったようだ……!」


道具を蹴散らし、私程でないにしろ血だらけになった顔を拭って立ち上がるゾルトウェイト、奴は狂気的な笑みをこちらに向け腰から刃物を抜き放った。


「貴女に壊滅させられた我が古巣、白霧部隊の恨み、今ここで晴らさせてもらうとしましょう」


それが、私が見た奴の最後の笑顔だった——。


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