フィクション・ポエム

三上芳紀(みかみよしき)

フィクション・ポエム

第一章(パラソルの火葬)


一.

ある人の才能が、開花するためには、開花するための条件が必要である。例えば、絵の才能がある人であっても、絵を描く機会に恵まれなければ、その才能が開花することはない。また、同時に、絵を描く機会に恵まれていても、その人に絵の才能がなければ、何も開花すらしない。ある町に、現代詩の大家がいた。そして、三人の子どもが、この詩人と出会った。三人の子どもの中で、一人は、詩人の家に遊びに行くことをすぐにやめざるを得なくなった。何故なら、彼女は、開業医の跡を医者となって継ぐために、子どもの頃から、一生懸命勉強をしなければならなかったからだった。後の二人は、小学校高学年の時期、ほとんど毎日、詩人の家で過ごした。詩の勉強に通ったわけではない。だが、現代詩の大家の家に遊びに通ったのである。詩人から何の影響も受けなかったと考えることは不自然であろう。現実に、二人のうち、一人には、詩の才能があった。だから、この後、彼は「若き現代詩の旗手」「現代詩の新鋭」として脚光を浴びることになる。才能があって、なおかつ、現代詩の大家が近所に住んでいたという条件があったからこそ、彼の詩の才能は開花した。そこから、ある人の才能が開花することは、奇跡的な出会いの結晶であるとも言える。だが、その出会いが奇跡的であることは真実であっても、そのことが、その人を幸せに導くのかどうかについては別の問題である。


桐原陽次の家の近所に現代詩の大家がいた。小学校の頃、その詩人のところに友だちと三人で遊びに行った。澄野美聡は塾の勉強が忙しいので途中から行かなくなったが、陽次と納見修作は、よくその詩人の家に遊びに行った。詩人は、白野塊と言った。詩人としての名である。本名は平凡な名前だった。その頃、五十代半ばだっただろうか。ごま塩頭の大柄な男だった。白野の家は、自宅とは別に詩作のための工房があった。広い庭に建てられた簡素な木造平屋建ての工房は、オープンな空間で誰でも訪れることができた。白野の人柄が表れた工房だった。陽次と納見は、いつも縁側に座って広い庭を眺めていた。それでも、ほぼ毎日、二人が工房を訪れられたのは、やはり、子どもだからだった。二人は工房にある書籍を読むわけでもなく、白野の創作の手伝いをするわけでもなかった。どちらかというと、創作の邪魔をしていたのではないかと陽次は、その頃を思い出すたび、そう思う。

ある時、白野は、二人に詩を作らせた。

陽次は、一行も書けないまま終わった。納見は、悩みながらも何かを書いた。

白野は、それを見て、「なかなか筋がいい」と褒めた。

白野が、他人の詩を褒めることはめったにない。彼は孤高の詩人だったからだ。彼の詩は、国内外で高い評価を受けているが、実際、その詩は難解で、専門家の間でも賛否が分かれているほどだった。

『心臓モッキンバード』という彼の代表的な作品がある。タイトルに興味を持ち、詩を読んでみると、万華鏡の描写が、原稿用紙十枚分に渡って延々とうたわれている作品に、多くの人が首を傾げる。その他にも、『メルクマール華氏摂氏』『成層圏メリーゴーランド』などの作品があるが、タイトルと作品のモチーフが全く一致しないものが多い。その白野が、納見の作った『パラソルの火葬』を褒めた。白野の影響を受けた難解な作品だった。

白野曰く、「プラグマティックだね」ということだった。

二人は、プラグマティックの意味が分からなかったので、後で辞書を調べたら、哲学用語で、実利的や実用主義的という意味だった。陽次と納見は思わず顔を見合わせた。作った納見自身、「僕のあの詩の、どこが実用的なんだろう?」と言っていた。


納見の家は、彼の父が化学薬品会社を経営していた。化学薬品会社とは広い範囲の分野に渡る会社である。具体的には、衣料品、ゴム手袋、雨ガッパ、乾燥剤のシリカゲル、トイレの液体洗剤、あるいは、研究実験用の様々な薬剤―薬剤は一般には入手できない―など、とにかく様々なものを製造している会社を経営していた。祖父が創業し、今、彼の父が社長であった。規模は小さいが、取り引き先は多い。品質が良いと定評がある。納見は、一人っ子であり、会社の跡を継がなければならなかった。

工場の中は、幾種類かの科学薬品を原料とし、製造過程の間に様々に形を変えながら、最後に、様々な製品となって姿を現す不思議な世界であった。だが、納見は、家業の化学薬品会社を敬遠していた。評判が良くても、小さな会社である。両親の苦労は絶えない。過去に取り引き先とのほんのちょっとした行き違いで、倒産しそうになったこともあった。大手の会社なら、あるはずのないことだった。その時のことは、納見の幼心にも深く残った。寒い冬の日のことだった。仕事が終わってから父が車でどこかに出かけた。夜遅くに、父は歩いて帰って来た。母が尋ねると「歩いたほうが健康にいいから、車は売ってきた」と父は答えた。車も売って金に換えなければならないほど会社は追い詰められていたのだった。結局、何とか倒産の危機は免れた。だが、その時以来、納見は、化学薬品会社を継ぐことに強い抵抗を感じるようになった。父の会社は、いつ消えてしまうかもしれない。それに、ひどくみすぼらしい感じがしたからだった。その日から、納見は、何者かになりたいと思った。“ここではないどこか”に行きたいと思ったのだった。


中学に入り、納見は美聡と同じ塾に通い始め忙しくなった。二人は机を並べて勉強した。二人とも優秀で良きライバルだった。陽次は、学校のハンドボール部に入り忙しくなった。面白そうだからと入部したら、非常に体力のいるスポーツで、毎日、練習でくたくたになって帰宅した。そのため、二人とも、以前のように白野の工房に遊びに行くことはなくなった。それでも、納見は週に一回は工房に行っていた。そして、三人は、地元の同じ私立の進学校A高校に合格した。納見と美聡は順当に、陽次は、何とかぎりぎりで合格した。陽次は、塾にも行かずに自分だけで勉強して、A高校に合格したことは偉いと、皆に褒められた。


そして、高校二年の秋だった。納見は、『現代詩世界』という現代詩の権威ある雑誌で最優秀新人賞を取った。夏休み明けのまだ残暑が厳しい九月の朝だった。

陽次がトーストを食べていると、隣で新聞を読んでいた父が、

「これって、ノウミ化学の息子さんで、陽次の幼なじみの納見君じゃないか?」

と新聞を見せた。

見ると、そこには確かに納見の顔写真があり、「現役高校生が『現代詩世界』最優秀新人賞受賞。期待の新鋭現れる」との記事があった。

「お父さん。この賞は、そんなに凄い賞なの?」

「父さんも、詩なんて無縁の人生を送ってきたから」

父の和将は、証券会社に勤めている。陽次には、父がどんな仕事をしているのか分からない。父が、パソコン一台で、驚くような高額の株式の取引をしているのかと想像することもあるが、そんな仕事をしているとは思えなかった。今、父はミニトマトを一つ口に入れた。毎朝、ミニトマトを三つ食べるのが父の楽しみだった。父は大人しい人だった。

「二人とも何を言ってるの。『現代詩世界』って言えば、現代詩の雑誌の中で一番権威のある雑誌よ。その雑誌の新人賞を受賞したんだから、納見君の詩は新人として最高のものだってことよ」

母だけが詩について知っていた。そして、説明してくれた。

母の抄子は、地元にある無農薬野菜の栽培農園で働いている。今、父が食べたミニトマトも母の働く農園で採れたものだった。だが、元々知識のないことについて説明をされても、頭で理解はできても、実感というものは、湧かないものだった。陽次は、それよりも、新聞に載った納見を凄いと思った。だから、朝刊をカバンに入れて登校した。登校すると、誰もが考えることは同じだった。生徒は皆、家から新聞を持って来ていた。その日、高校は、納見の掲載された朝刊で溢れかえっていた。皆、詩についてはよく分からなかったが、とにかく、納見が新聞に載ったことに興奮していた。

「テレビのニュースには出るのかな?」

「先生に聞いてみよう」

「昼のニュースとかなら、昼休みに見られるんじゃない?」

詩のことはさておき、この瞬間、納見は、彼がずっと望んでいた何者かになれたのだった。


二.

陽次は、今、美聡の家にいた。納見の受賞について話しに来た。学校で彼女と話そうと思っても、受賞から数日経っても、学校中が、納見のことで騒ぎになっているので、落ち着いて話ができない。だから、彼女の家に来た。美聡の家は開業医だった。表には、「澄野内科クリニック」と書かれた看板がある。数年前に、改築したクリニックの建物は、アイボリー色の壁に、すりガラスの窓が埋め込まれていた。ガラスは木製の外枠に囲まれていて、遠くから見ると、外枠が絵の額縁のように見えた。白いすりガラスは、これから何かが描かれるキャンバスのように見えた。そのように意図されたデザインだった。改築する前の、コンクリート造りの素っ気ない立方体の建物とは、まるで違う洒落た建物だった。だが、陽次は、昔のほうが好きだった。おそらく、子どもの頃の思い出が、沢山、詰まっていたからだろう。子どもの頃、よく病気をした陽次は、このクリニックに通うことが多かった。思い出といっても、医療機関の出来事だから、風邪を引いて、不自然に甘いシロップの風邪薬を飲まされたり、痛い注射を打たれたりしたことが中心で、これが思い出になるのかは分からないところがあった。陽次自身、そう感じながらも、思い出すと、何故か、懐かしい気持ちになるので、それらも、思い出の中に含めていた。今、クリニックは、彼を、いつも診察してくれた院長の長男に代がかわっている。名称が、クリニックではなく、「澄野医院」の頃の院長は、今の院長の父親だった。医院を開業したのも、この人で、優しい人柄が、患者からも慕われていた。陽次も、その人が好きだった。名前を澄野幸三郎といい、幸三郎先生と呼ばれ親しまれていた。今の院長は、昭弘というが、名前で呼ぶ患者はいない。それは、昭弘が、嫌われているということではなく、彼が、そのようなタイプの医者ではないということだった。


陽次は、クリニックの裏にある自宅の客間にいた。美聡は、冷たい飲み物を持って来ると台所に行ったまま、まだ戻って来ない。陽次は、その間、改めて、納見のことを考えた。納見は高校に入ってから、急に背が伸びた。それに比例して、女子生徒に人気が出た。納見は、元々、良い顔立ちをしている。だが、高校に入るまで、女子生徒に、さほど人気はなかった。だから、陽次は、良い顔に高い身長という要素が加わると、納見のように、女子に急に人気が出るのかと仮説を立ててみた。だが、通俗的な気がするので、彼は、その仮説を撤回した。でも、今回の詩の新人賞の受賞後、彼のいる二年三組の教室の前には、女子生徒が集まっていることを考えると、彼の女性ファンが更に増えたことは事実だった。ちなみに、陽次は、高校に入って身長が止まった。中学の時には、陽次は、順調に背が伸びていた。ハンドボールでよく運動していたことも影響していたはずだ。だが、高校にはハンドボール部はなかった。陽次は、他のスポーツに興味がなかったので部活に入らず、運動もしなくなった。だから、そのために、身長が止まったのかと思ったが、それも違う気がした。要するに、もう自分の身長はここまでなのだと思った。平均身長で、平均的な高校生の自分と、背が高く、詩才溢れる納見。幼なじみの二人が、高校二年生にして、随分違ってきたと陽次は思った。


陽次と向かい合わせに座った美聡に、彼女が持って来てくれたサイダーを飲みながら、

「納見の新人賞受賞ってどう思う?」

と彼は尋ねた。

「詩の受賞よりも、あの『バウハウス過日』の詩そのものに感動した。納見君に、あんな繊細な感受性があるなんて。私、彼のことを誤解してた。もっと野心の強い人だと思ってた」

美聡の言葉に、

「野心家は当たっていなくもないかな」と陽次は、笑ってから「それにしても、美聡ちゃんは、納見の詩が理解できるの?」

と言った。

美聡は、うなずいた。そして、

「小学生の時、私、塾の勉強が忙しくて、白野先生のところに通えなかった自分が悔しい。そして、納見君が羨ましい。もし、私も、白野先生のところで詩を勉強していたら、納見君のようになれたかもしれない。そう思うと悔しい」

と言った。

彼女の悔しそうな表情を見て、美聡が本気でそう思っているのが陽次に伝わった。

納見を本気で羨ましいと言う美聡を前に、陽次は彼女に言えない事実があった。それは、納見が、開業医の娘の美聡のことを妬んでいることだった。彼は、陰口まで言っている。

「美聡は、お祖父さんとお父さんが、完璧に作り上げたクリニックを継ぐだけだ。しかも、優秀な医大生のお兄さんが一緒に跡を取る。生涯安泰、いいご身分だよ」

こういうことを納見は、陰で陽次に露骨に言う。美聡の前で見せる紳士な笑顔とは違う彼の別の顔だった。

そのことを知っている陽次は、美聡の言葉に、

「人生って難しいね」

としか言えなかった。


陽次は、何も知らない美聡を気の毒に思った。同時に、納見のことも気の毒に思った。納見は普段、陰口を言うようなことはない。つまり、美聡に関してだけなのだった。陽次は、その理由を、この夏休みに知った。夏休みの間、陽次は、納見の化学薬品工場でアルバイトをした。夏休みも地元の医大合格のために必死で勉強していた美聡。勉強と詩の創作に打ち込んでいた納見。彼らと違い、陽次は、夏休みに特にすることがなかった。彼は、大学は指定校推薦で来年の秋、地元のB大学を受験することに決めていた。理由は、彼には、あまり経済的な余裕がなく、下宿生活、浪人ができないため、通学できるB大学を、確実に合格するために指定校推薦で受けることに決めていた。試験は、面接と小論文だけだった。彼の成績なら間違いなく合格する。だから、二人ほどは勉強しなくていい。そこで、陽次は、納見に頼んで、彼の父の化学薬品工場でアルバイトをさせてもらった。夏休みに入る前にアルバイト誌を見て、バイト先を探していたところ、納見の工場の募集があった。時給も待遇も平均的なものだった。だが、アルバイト経験のない陽次にとって、納見の父の工場は、安心して働けるという点で魅力だった。そこで、夏休み前、納見にアルバイトの件を相談した。納見は、事情を理解して彼の父に話してくれた。数日後、陽次は、ノウミ化学薬品会社の面接室で、納見の父賢作直々の面接を受け、即日、採用された。工場も見学した。

その時、陽次は思った。外から見るより、会社も工場も、ずっと小さい。それに、外観は塗り直されて、きれいだが、中は会社も工場も随分古い。陽次は、そう思うと、アルバイトが初めてで不安だからと納見に相談したが、そのことが果たして良かったのか不安になった。本当は、彼は断りたかったのではないか? でも、陽次のために、父に面接を頼んでくれたのではないか? そう思うほど、会社も工場もくたびれた印象があった。だからこそ、夏休みのアルバイトを経て、彼は、納見が、美聡の陰口を言う理由が分かるようになった。アルバイトに行く前は、分からなかった。でも、今は分かる。経営も厳しいであろう、小さな化学薬品会社の跡取りの納見は、地域に根ざし経営も安定した内科クリニックの跡取りである美聡が、ひどく妬ましいのだった。それは、本来、紳士である彼に彼女の陰口を言わせるほどの嫉妬だった。


陽次は、美聡の話を聞いて思った。納見は、妬んでいる美聡から、羨ましがられている。皮肉としか言いようがない。彼が知ったら、どう思うだろう? 陽次は、この場に、納見がいないことを残念に思った。彼は、納見を誘おうとも考えたのだが、納見は、二年三組の前の廊下で、集まった女子生徒の一人一人に、サインをしていた。もちろん、希望する男子生徒にも、快くサインをしていた。彼は、今、美聡のことを忘れられていた。納見は、今、彼が望んでいた“スター”になれた。だから、陽次は声をかけずに、学校を後にしたのだった。


陽次は、納見の記事が新聞に載ったその日こそ、気分が高揚したが、以降は、何故か、不安な気持ちになった。だから、今、美聡に会ったのだが、彼女からも明るい話は聞けなかった。美聡は彼女自身の悔しさを語っただけだったが、納見という人物は、いつも何故か、人を深刻にさせるところがあった。陽次自身も、美聡の家からの帰り道、再び、夏休みのアルバイトのことを思い出していた。納見の父賢作と母則子は、慢性的な従業員不足のため、いつも工場の製造ラインに入って働いていた。陽次が、ゴム手袋の製造ラインで働いている時、隣に則子がいた。

「桐原君。普段、修作は工場の話をしないでしょ?」

「そう言えば、そうかなあ」

「こんなちっぽけな工場みっともないって思っててね」

「そんなことないですよ。世の中のためになる製品を沢山、作っているのに」

「でも、あの子も、可哀そうだと思う。一生懸命勉強してるけど、その先が、うちの会社と工場だと思うと」

陽次は、何と言っていいか分からず、黙った。

それに気づいた、則子は、

「ほら。出来立てほやほやのゴム手袋」

と言って製造ラインを流れてきたばかりのゴム手袋を両手にはめた。そして、

「丈夫で長持ち。値段もお手ごろ。これが噂のノウミ化学のゴム手袋」

と彼女は、おどけてみせた。

ラインにいた他の従業員は、皆、笑った。則子は、日頃から陽気な人だった。

でも、陽次には、そのおどけた姿が、かえって痛々しかった。

陽次は、その時のことを思い出し、納見も辛いだろうなと思った。

そして、彼の美聡への嫉妬に対しても、否定しきれず、切なく感じたのだった。


三.

納見修作は、十七歳にして、初めて、自分の本当の人生がスタートしたと思った。全てが、痛快だった。

『現代詩世界最優秀新人賞』の授賞式が、九月下旬にあった。だが、納見は欠席した。代わりに、A高校の教頭の尾高が授賞式に出席した。授賞式の朝、納見の付添い人として同行する尾高の家に電話があった。

「教頭先生。僕、緊張のあまり気分が悪くなりました。とても、授賞式に行ける状態ではありません」

震えるような納見の声を聞いて、尾高も、これは無理だと思った。

『現代詩世界』を出版する現代詩世界社のビルがある街は遠い。特急列車で片道三時間はかかる。

「先生が君の代理として授賞式に出席します。だから、安心して家で休んでいなさい。先生が選考委員の皆様にも出版社の皆様にも、きちんとお礼を申し上げてきますから」

尾高は、納見の声を聞きながら、彼の代理として、授賞式に臨まなければと思った。

現代詩世界社ビルの三階の会議室で行われた授賞式では、

「納見君は繊細な青年で、この度の授賞式も、緊張のあまり気分不良となり、欠席する次第となりました。そのため、私が代理で出席することとなりました。彼に代わり、改めて、皆様にお礼申し上げます」

と、教頭が代理の挨拶をした。

選考委員長である現代詩の重鎮大宗青一から、

「なるほど、受賞作『バウハウス過日』をつくる青年らしい繊細さ。納見君の人柄が伝わってきます」

という言葉があり、出席者もうなずいた。

そして、選考委員の一人で、現代詩の“サガン”と呼ばれている小巻遼子が、

「今時の若者にしては、作者自身が、非常に良質なピュアネスを持ち合わせているようです。納見さんのこれからの活躍に期待が持てます」

と納見の欠席をむしろ、評価した。

もちろん、その場を取り繕うための小巻の言葉ではあったが、納見の欠席は、かえって授賞式を盛り上げた結果になった。尾高は、ほっとして、また、特急列車に三時間乗って帰ってきた。夜遅くなったが、授賞式が無事終わり彼は安堵した。


ところが、次の日である。

翌朝の出勤時、昨日の疲れが残っている尾高は、栄養ドリンクを買って飲もうと、高校の近くのコンビニエンスストアに寄った。すると、本売り場のコーナーにA高校の生徒が集まっていた。何を見ているのだろうと、尾高も本売り場に向かった。そこには、今日発売された週刊誌が並んでいた。その中の一冊の表紙が、笑顔の納見の写真だった。

「納見さん。凄いね。表紙の顔写真に巻頭ロングインタビューだって。この前、サインもらってよかった。絶対、プレミアがつく」

女子生徒たちの話を聞きながら、尾高は、週刊誌を一冊手に取った。

そして、彼は、

「昨日の授賞式は何だったんだ。青年らしい繊細さと良質なピュアネスじゃなかったのか? 雑誌の表紙になってるじゃないか? いつの間に、こんなインタビューを受けたんだ」

と納見の顔写真を見ながらぼう然と呟いた。

週刊誌を一冊買った尾高は、それを持って職員室に入った。

そこには、既に、他の教師が購入した同じ週刊誌が机の上に置かれ、教師全員が集まっていた。

入ってきた尾高に、

「教頭先生。今朝、そこのコンビニで見つけて買ったんですが、納見、大丈夫でしょうか?」

教師の一人が言った。

尾高は、自分が買った週刊誌を、机の上に置かれた週刊誌に並べて置いた。納見の笑顔が二つ並んだ。それを見て、皆、ため息をついた。


全て、納見の悪戯だった。彼は喜びを屈折した形でしか表せないところがあった。

彼は、授賞式の翌日に発売される週刊誌だと知っていて、その週刊誌のインタビューを受けた。その上で、授賞式は緊張のあまり出られないと嘘をついて欠席した。そこに特に意味はなかった。ただ、どうなるか面白いからやってみただけだった。結果、教頭はもちろん、校長も困惑した。納見は、校長室に呼ばれた。『現代詩世界』の編集部、選考委員も困惑した。緊張のあまり授賞式を欠席したはずの翌日に、表紙が納見の笑顔で飾られている週刊誌が発売されたのである。一部の選考員から、故意にやったのではないかと疑惑の声まで上がっていると、A高校に編集部から問い合わせがあった。編集部も事情を説明するよう求めていた。

「次の日に君の顔が表紙になった週刊誌が発売されることを知っていて、わざと授賞式を休んだんじゃないかという疑惑が生じている。それに、週刊誌のインタビューを受けることそのものついて、事前に、学校に相談もなかった。納見君、事情を説明しなさい」

校長室の安っぽい応接セットの一方に教頭と並んで座った校長の森原が、納見に質した。

教頭の尾高は、何かをじっと考えていた。

「授賞式は、緊張して気分が悪くなりました。電車にも長く乗らなければならないと思うと、無理だと思いました。それで、教頭先生に、あの朝、電話をしました。週刊誌のインタビューを学校に無断で受けたことは軽率でした。何だか嬉しくて舞い上がってしまって。それと、授賞式の翌日が週刊誌の発売日だとは知りませんでした。とにかく嬉しさと不安が繰り返し襲ってくるような毎日に、何が何だが分からなくて」

納見の話は、最後の部分だけ本当だった。

彼は、喜びと不安が繰り返し襲って来る日々に戸惑っていた。それを舞い上がっているというのだとは、彼自身、これまで経験したことがないのだから、知らなくて当然だった。

納見の釈明を聞いて、

「大きな詩の賞を受賞することなんて誰にでもあることではない。君が不安定な気持ちになるのも仕方がない。事情を聞くと、不自然なところもないようだ。だから、学校のほうから、編集部には、君の話した通りを伝えて謝っておく。週刊誌の件も、今の君の置かれた状況を考慮することにしよう。但し、今後、雑誌のインタビューを受ける際には、事前に、学校に相談するように。いいね」

と校長は話した。

教頭は、

「納見君のことを高く評価してくださった選考委員の方たちに何とお詫びを言っていいかと、私は、考えていました。でも、君の話を聞いて、安心しました。今は、冷静になること。難しいと思いますが、こういう時こそ、慎重に」

とほっとした笑顔を見せた。

納見は、教頭の笑顔を見て、内心、ちょっと度が過ぎたかなと心が痛んだ。でも、自重する気はなかった。何故なら、これこそが、自分の本当の人生のスタートだと彼は思っていたからだった。だから、彼は、次の週には、学校に相談せず、サブカルチャー系の雑誌のインタビューを受けた。インタビューの内容は、詩とは関係のない内容で、ファッションの話が大半だった。雑誌の表紙を飾る彼は、若者に流行りのブランドの衣装を着ていた。要するに、そのブランドの宣伝のモデルとして話題性のある納見が選ばれただけだった。納見自身も、それを知ってインタビューを受けた。校長と教頭から、また事情説明を求められた。今度は弁解のしようもなかった。納見は謝罪した。だが、以降も、彼は同じようなことを繰り返した。学校側も、有名になるということは、こういうことなのかもしれないと、その内に何も言わなくなった。つまり、黙認するようになった。


そんな風に、毎日を愉快に過ごしていた納見の家に、ある日、電話がかかってきた。電話は、白野塊からだった。日曜日の朝だった。両親は、工場が休みなので、車で買い物に出かけ、誰もいなかった。十一月に入り、冷えた秋の朝の空気の中、学校の勉強に取りかかろうとしたその時だった。電話のベルが鳴った。取ると、白野の声がした。

「納見君。現代詩世界の新人賞受賞おめでとう。僕は、新聞も読まないから今まで知らなくて、遅れて申し訳ない。ついては、少し話したいことがあるんだ。今日、時間があれば、家に来てくれないか?」

白野の声は、いつもゆったりとしている。この時もゆったりとしていた。でも、そのゆったりとした声の中に、何かが含まれている気がした。納見は、

「はい」

とひと言返事をして電話を切った。納見は不安に思った。だから、すぐ陽次の家に電話をし、彼を誘って、二人で白野の家に行く約束をした。陽次には、白野が受賞を祝ってくれると伝えた。そうは言っていなかったのだけれど。陽次は、納見からの電話を切ると、すぐ美聡に電話をした。納見がいつも陰口を言う美聡を、彼に内緒で連れて行こうと思ったからだ。陽次は、今の状態では、納見も美聡も気の毒だと思った。陽次には、二人とも大切な友だちだった。だから、今日が解決のきっかけになるかもしれないと期待して美聡を誘ったのだった。


四.

近所なので白野の家の前で待ち合わせをした納見は、陽次が来るのを待っていた。すぐに陽次は来たが、何故か、美聡を一緒に連れて来た。納見は、一瞬、陽次をにらんだが、すぐ笑顔で美聡に挨拶をした。納見は、流行の最先端のライダースジャケットを着ていた。最先端すぎて、おしゃれなのか判断できないほどだった。陽次はカーキ色のダウンジャケット、美聡はあずき色のダッフルコートを着ていた。二人のおしゃれは、無難だが好感が持てるものだった。三人は、白野塊に会った。彼は納見以外の二人の来訪に一瞬、戸惑ったが、すぐ笑顔になった。白野は、丸首のクリーム色のセーターを着ていた。穏やかな人柄によく合っていた。美聡は小学生の時以来だから、最初、白野も彼女が誰だか分からなかった。陽次も、中学に入って以来、会っていなかった。だが、数年前のことだから、陽次を見て「やあ。久しぶりだね」と白野は言った。納見を見ると、白野は、「少し話があるんだ」と言った。納見は緊張した。


陽次と美聡は、今日は白野の家で納見の受賞を祝うはずではないのかと思いながら、ソファーに腰かけた。納見は作業机を隔てて白野に対坐した。白野の工房には、大きな本棚と沢山の本があった。陽次は、子どもの頃、それらが何の本なのか気にもしていなかった。それよりも、工房にある地球儀の立体パズルを組み立てることに夢中だった。今、高校生になって、改めて、工房にある本棚を見ると、詩に関する本より、圧倒的に建築工学の専門書が多いことに気づいた。陽次は、白野の難解さの根源を見た気がした。美聡は、庭に置かれている大きな冷蔵庫を見て、あれはオブジェなのだろうかと混乱した。陽次は、昔は、洗濯機が置かれていたと思い出した。

そして、納見は、それどころではなかった。

「お話というのは、何でしょうか?」

作業机の上には、納見が載った雑誌が並べてあった。

文芸雑誌からサブカルチャー誌までバラエティに富んでいた。

「君の載った雑誌は、これで全部になるのかな?」

白野の口調から、彼が怒っているのではないことが分かった。

納見は、ほっとした。離れた場所で聞いている陽次も美聡も、ほっとした。

「はい。そうです。これで全部です。でも、先生、僕の載った雑誌を全部、買って読んでくれたんですか?」

「そうだよ」

「何故ですか? 僕のインタビューなんて、先生が読むような内容でもないのに」

「そんなことないよ。興味深い内容だった。ただ、確かに、もう一つの理由もあって読んだんだけどね」

「もう一つの理由?」

納見は、思わず身を乗り出した。陽次も美聡も、二人のほうを見た。

白野は答えを、簡潔に言った。

「僕の名前が出ていないか調べたんだ」

簡潔すぎて、理由が分からなかった。そこで、

「何故、僕の名前が出ていないか調べたんですか? 出ていたら、マズいという意味ですよね」

と納見が重ねて尋ねた。

「そういうことだね。君のインタビューが掲載された雑誌を全部集めて調べたのは、僕の名前が出ていては困るからだ。僕の名前が出ていても構わないのなら、調べる必要がないからね」

白野は、いつもより、ずっと明確に話した。それだけ、重要なことだからだろう。

陽次と美聡は立ち上がり、作業机のほうに移動した。木の丸椅子を持ち出して、納見を挟んで座り、二人も白野と対坐した。白野は、三人が並んだ姿を見て、人は成長するものだと思った。そして、その分、自分は老いたのだと思った。それから、老いた自分には、若者に伝えるべき使命があるのかもしれないと思った。彼は語り始めた。

「雑誌のインタビューを全部読んで、僕の名前が出ていなかったから、ほっとしたよ。僕は、詩壇では黙殺された存在なんだ。はっきり言って嫌われ者だ。だから、納見君が、僕の家に子どもの頃から通っていたことが知られたり、場合によっては、僕の弟子だと思われたりすると、君にとって厄介なことになる。そのために、慌てて、全てのインタビューに目を通したんだ」

白野は、淡々と話した。

「そうなんですか。僕のために全部のインタビューを読んでくれたんですね。でも、先生のように良い人が、何故、詩壇では嫌われ者なんですか?」

「仲間を作らないから、嫌われるんだ。僕は群れるのが嫌いだから。でも、自分で言うのも何だけど、詩集の売り上げは、僕のほうが他の詩人よりずっといい。詩壇での評判は悪いのに、売り上げはいい。よけいに気に入らないんだろうね」

白野は、また淡々と話した。彼は淡白な人柄であると同時に、馴れ合いが嫌いだった。仲間を作りたがる人たちとは合わないだろう。それは、目の前にいる三人にもよく分かった。陽次に至っては、思わず、うなずきそうになり、慌てて、それをごまかしたぐらいだから。


五.

「納見君の『バウハウス過日』の選評や批評にも、見事に僕の名前が出て来ないだろ? 君の詩が僕の影響を強く受けていることに誰も気づいていない。それどころか、僕の詩は長く黙殺され続けている間に、忘れ去られてしまったんだ。残っているのは詩壇の嫌われ者白野塊っていう名前だけ」

そう言って、白野は皮肉っぽく笑った。

「でも、先生は、それでいいんですか? 自分の影響を強く受けた人間の詩が大きな賞を受賞して、注目を集めているのに、白野先生は、名前すら出ない。僕は理不尽だと思います」

「僕のことは、いいんだ。自分が黙殺されるのも覚悟の上で僕なりの信念を貫いた。結果、今の僕の状況がある。満足はしていないけれど、これでいいんだ。だから、君が、僕の名前さえ出さなければ、みんなが、幸せでいられる。僕も、静かに創作ができる。つまり、今後も、僕の名前を出すことは誰も喜ばないから、黙っておこうということさ」

白野は、まるで他人ごとのように話した。

だが、納見にとって、子どもの頃からの恩師である白野塊が、不当に評価を貶められていることが悔しかった。それに、納見のために、自分の名前を出すなと助言する白野を見ていて悲しくなった。

「白野先生がいたから、僕は、今、詩人として大きな賞をもらえました。その白野先生を詩の世界が、認めないというのなら、僕は、僕の受賞した賞を返上します!」

納見は、目に涙を浮かべて訴えた。

納見は、喜びに対しては、懐疑的になり、授賞式を欠席するような悪戯をするけれど、人の悲しみには、敏感に反応し涙を流す。彼のような屈折した青年なりの誠実さだった。

美聡は、納見が泣く姿を見て、

「納見君の気持ちだけで、白野先生は、十分に嬉しいと思う。あなたが先生のために涙を流す心を、この工房で育んでくれた。そのことだけで、白野先生は幸せだと思う。だから、賞を返上するなんて言わないで」

と優しく諭した。

その言葉に、納見は、

「美聡ちゃん。分かった。僕は心の中で白野先生の弟子だと思いながら、先生のためにも、詩をつくり続ける。だから、賞の返上なんてもう言わない」

とあれだけ陰口を言っていた彼女に素直に従った。

二人の姿を見て、陽次は、今日、美聡を一緒に連れてきて良かったと思った。美聡は、納見が思っているような人間ではないと分かってくれた。二人は、どちらも、陽次にとって大切な友だちだった。だから、二人ともに幸せになって欲しい。それが、陽次自身の幸せなのだから。陽次は、そう思いながら、黙って二人を見つめていた。


傍らに、三人を眺める白野塊がいた。

困ったなと、彼は思っていた。納見が、一人で工房に訪れると思っていたところ、陽次と美聡を連れて来た。二人がいては、本当に話したいことが話せない。もちろん、今、話したことも本当なのだ。白野塊は詩壇で黙殺されている。でも、本当に話したいことは、納見修作自身についてのことだった。しかも、それは、彼にとって、全く明るい話しではない。だから、他者の存在があってはならないのだった。

白野塊は、迷っていた。納見に、真実を話すべきか、それとも、やめるべきか。

真実を話してこそ、納見のためになると、今日、彼をここに呼んだのだが、自分のために涙を流している納見を見て、その考えが揺らいだ。白野塊は、迷わない人間であり、妥協のない人間だった。そこが、詩壇に黙殺される大きな要因でもあった。それも、一切気にせずここまで来た。だが、今、納見を見て、彼は初めて迷った。今から、彼は、嘘をつこうか、隠し事をしようか、とさえ思った。それが、納見の将来にとって良いことなのかどうかは分からない。でも、彼は、迷っていた。白野は、生まれて初めて情に流されていた。


六.

その日、白野塊は、本屋に入った。建築工学の本でも、詩集でもなく、多肉植物の本を探しに入った。彼自身は、あまり魅力を感じないのに人気があるところに興味を惹かれたのだった。白野は、植物の本のコーナーに向かう途中、文芸雑誌のコーナーの前を通った。そこで、表紙が納見修作の雑誌を見つけた。見間違いかと思った。だが、表紙に「現代詩世界最優秀新人賞受賞の納見修作インタビュー」と書かれているのを見た。白野は事態が理解できた。彼は、多肉植物の本を探すのをやめて、雑誌を買った。

急いで家に帰り、雑誌のインタビューを読んだ。納見らしく、インタビュアーが求めている通りの答えが続く、そつのない内容のインタビューだった。白野の名前も出ていなかった。白野は、ほっとした。念のため、パソコンのインターネットで検索すると、納見のインタビューの掲載された雑誌が十冊近くあった。その時が、十月の下旬だったから、受賞から一カ月余りの間に、納見はこれだけのインタビューを受けたことになる。白野は、納見が何の目的でこれほど沢山のインタビューを受けているのかを疑問に思った。白野は、全ての雑誌を、すぐネット通販で購入した。その日から、次々に届く雑誌に目を通し、自分の名前がどこにも出ていないことに安堵した。

「僕の名前なんか出そうものなら、彼の詩人としての道がいばらの道になるだけだ」

白野は、そう呟いた。

そう呟いてから、一番、肝心なことを確認していないことを思い出した。

納見が受賞した詩を、白野は、まだ見ていなかったのであった。

「納見君のためとはいえ、僕の名前のチェックのために、彼の作品をまだ見ていないのは失礼だった」

白野は、自嘲気味に笑った。パソコンで『現代詩世界』のホームページを検索し、最優秀新人賞の納見の『バウハウス過日』を読んだ。


最近、歳のせいか、独り言の増えてきた白野だった。だが、この時、彼は無言になった。

納見の作品は、初めから終わりまで、全て詩人白野塊の作品をなぞっているだけだった。一切、オリジナリティはなかった。納見がしていることは、例えれば、原版である白野塊の詩を、トレーシングペーパーを用いて、新しい紙に写し取る作業に似ていた。新しい紙にうっすらと写った白野の詩をペンではっきりと描く際に、納見の好きな色ペンを使って描いているようなものだった。つまり、白野の言葉を一つ一つ納見が選んだ別の言葉に置きかえただけだった。もっと具体的に言えば、受賞作『バウハウス過日』は、白野塊の『心臓モッキンバード』をトレースし、言葉を置き換えただけのものだった。この行為を創作とは呼べない。『バウハウス過日』を作品とは呼べない。但し、盗作とも呼べない。詩壇の人間は、そのことに気づいていない。『現代詩世界』の編集部も、選考委員も気づいていない。だから、彼に最優秀新人賞を受賞させた。白野塊の影響を強く受けている。あるいは、白野と同じ町の出身で、白野から詩の手ほどきを受けたことがあると分かったら、納見の受賞はなかった。それは、白野塊の詩が詩壇で黙殺されている理由と大きく関係があった。彼の詩集は、詩の愛好家よりも詩を知らない一般の人によく買われている。これを詩の世界の人間から見ると、白野塊は、専門家より、一般人受けする詩を書いている詩人という風に見なされる。そこから、白野塊の詩は俗っぽい、あるいは、それでも、あえて白野塊を好むなら、それは奇をてらっていると捉えられる。そこで、詩の世界の人間は、読む前から白野塊の詩を敬遠する。だから、白野塊は名前だけは皆が知っていて、実際には読んだことのない詩人という位置づけになった。そのため、今回の賞の選考過程においても、納見修作の詩が、白野塊の詩をトレースしたかのような作品であるのに、誰も気づかず、斬新な詩だと絶賛したのだった。白野は選考委員長の大宗青一の選評を読んだ。

「納見修作の詩は、彼以前に、彼と同じ詩があったかと、少なくとも、我が国の詩歴を遠く昔まで振り返ってみても、実にこれが見あたらないのである。突如現る! とは、まるで映画のヒーローのようだが、納見修作には、この驚嘆をもって賛辞とする」

大宗青一は、白野塊より世代が上の詩人だが、彼でさえ、納見の詩が、白野の詩をトレースした作品であることに気づいていないのを確認した。


七.

白野は、当初、納見の受賞を喜んだ。だから、自分の名前が彼の口から出ていないか確認した。確認してほっとした。だが、彼の受賞作を見て、自分の名前が出ていようがいまいが何ら関係のない納見の詩人としての致命的な欠落を見つけてしまった。否、彼は詩人にはなれない。これが正確な表現だ。白野は思い出した。子どもの頃から、納見は器用だった。だから、白野の詩のニュアンスを巧みに取り入れた詩を披露した。「パラソルの火葬」が代表的だった。だが、あれ以降も、納見の詩は白野の模倣だった。中学に入ってからも熱心に工房に通うので白野は手ほどきをしたが、納見の詩は、100%紛れもない白野塊の模倣作だった。高校に入り、勉強が忙しくなり、納見は工房に来なくなった。白野はほっとした。これで可能性のない努力をする青年を見なくて済むと。それが、「現代詩世界最優秀新人賞受賞」の文字を見た時、驚きと嬉しさもあって、彼の才能のことを忘れていた。

今、白野塊は、『現代詩世界』のホームページにある彼の『バウハウス過日』の一文字一文字をじっと見つめながら、小学生の頃からの納見を思い出した。彼に罪はない。彼に欠点があるわけでもない。偶然、彼には詩の才能がなかっただけだ。だが、十冊近く雑誌のインタビューを受けた彼の喜びを、白野が、これから粉々に打ち砕かねばならないのも事実だった。悪い夢から早く目を覚まさせなければならない。

「君には詩の才能がない。一時の夢を見たと思って諦めなさい」

「君の詩は全て僕の詩をトレースした模倣作だ」

もっと優しく彼に諦めさせる言葉を探そう。

白野は、詩壇との格闘の末、今、孤高の詩人となった。決して、本意ではない。ただ、これまでの人生において詩人としての才能の枯渇を感じたことは一度もない。沢山の消えていった詩人を見て、その辛さは知っている。だが、白野自身は、創作で悩んだことはあっても、自身の才能に疑問を感じたことはない。だから、納見にどのような言葉をかけていいのか分からなかった。

「みんなから見たら、嫌な奴なんだろうな。だから、嫌われるんだろう」

還暦を過ぎた白野には、十分に自覚があった。


彼は立ち上がり、ともかく、納見に連絡を取ろうと、彼の家に電話をした。電話には誰も出ず、しばらくすると会社の事務所に転送された。

「はい。ノウミ化学ですが?」

父賢作の忙しそうな声が聞こえた。

白野は、納見の両親が、全く詩に関心がないことを思い出した。受賞のことにも関心がない様子が伝わってきた。白野は、無言で電話を切った。納見が雑誌のインタビューを受け続けている理由が、分かったような気がした。白野は、日を改めて、電話をすることにした。ふと子どもの頃の納見を思い出した。


八.

美聡が、納見を慰めている間、白野は、色んな思いが頭の中を巡っていた。

納見が気持ちを取り戻したのを見ると、頭の中の思いをふり払い、白野は、

「納見君。美聡さんの言ってくれた通りだよ。君の優しさに僕は感謝の気持ちでいっぱいだ。僕のことはもう気にしなくていい。それより、君の話をしよう」

と語りかけた。

「僕の話って?」

納見とともに陽次と美聡も白野の顔を見た。

白野は、また困ったなと思った。それでも、話をし始めた。

「実は、君の受賞作『バウハウス過日』を読んだ時、率直に言って、僕の『心臓モッキンバード』の模倣作だと思った」

「確かに、白野先生の影響を強く受けているので、自ずと似てしまいますが? それが問題でしょうか? 模倣作というのは、どういう意味ですか? もしかして、盗作という意味ですか?」

そう言うと納見は狼狽した。両脇の二人も狼狽した。

「いや、盗作じゃない。安心していい。盗作じゃないんだ。でも、非常に問題があると思った」

「非常に問題がある? 先生。何を言いたいんですか? はっきり言ってください」

「先生。僕たちも、聞きたいです。納見の受賞作にどんな問題があるのか? 彼の生涯を決定するかもしれない受賞作です。教えてください」

「私も、知りたいです」

納見だけでなく、陽次と美聡も、白野に教えてくれと迫った。しかも、陽次の「生涯を決定するかもしれない」という言葉に、白野は怯んだ。そうなんだ、彼の言う通り、この受賞は納見の生涯を決定するかもしれないものだ。しかも、今から、自分が納見に言うひと言で、その可能性そのものを潰すことになる。それが、正しいことであっても、彼の悲しみは大きい。会社と工場の経営だけで精いっぱいの彼の両親は、彼が大きな詩の賞を受賞したことにも関心がない。仕方のないことだが、彼はさみしいだろう。

白野は、十月の下旬に納見の家に電話をした時のことを思い出した。誰もいない自宅から会社に電話が転送される時、電話の呼び出し音が変わった。電話が転送される時、いつもそうなる。プチっという音がして、トゥルルルルと呼び出し音がより機械的になる。白野は、知り合いの家に電話すると、よく転送されるので知っていた。だが、あの時の白野は、呼び出し音の変化を聞きながら、納見は孤独なのだと感じた。


それでも、迷いを振り切るかのように、白野は、強く言った。

「君は僕の模倣作しか作れない」

納見の顔は青ざめた。陽次も、美聡も絶句した。

白野の話は、次のひと言で終わる。そのために納見を呼んだ。なまじ夢を見て人生を大きく踏み誤る前に、夢から覚めさせる。それが納見のためだ。だから、続く言葉は、「君に詩の才能はない。諦めろ」。これしかない。だが、その時、白野の頭に誰もいない納見の自宅の光景が浮かんだ。受賞を両親から祝われない彼を考えてしまった。結果、白野は、こう言った。

「今のままだと、ずっと、僕の模倣作しか作れない。でも、努力すれば抜け出せるかもしれない」

と、言葉を補足したのだった。

補った言葉は嘘だった。白野は、目の前の納見を悲しませたくないために、嘘をついた。

「白野先生。頑張れば、納見は、自分の作品をつくれるっていうことですか?」

陽次が尋ねた。

「難しいことだけれど、不可能じゃない」

白野は言った。彼は、ふっきれたように明るい笑顔に変わり、

「納見君。僕が君に伝えたいことはそれだけだ」

と言った。

「先生。難しくても、僕、やってみます。白野先生のために、白野先生の影響から脱します」

納見は紅潮した顔で言った。

「白野先生のために、白野先生の影響から脱しますって、何だか不思議な宣言ね」

緊張の解けた美聡が笑って言った。

「僕も、長い間、詩をやっているけど、初めて聞く言葉だね。ある種、詩的だな」

白野も笑った。

「納見。白野先生に出会えて良かったな」

陽次は白野を見つめながら、言った。

白野は、陽次の言葉は、一つ一つ、胸に痛く刺さると思った。陽次に詩才はない。だが、彼の正直な言葉は、真っ直ぐ胸に突き刺さる。笑顔の裏で、白野は、罪悪感を覚えた。


庭にあるオブジェなのか分からない冷蔵庫が、雨粒で濡れ始めた。十一月の冷たい雨が、芝も濡らした。雨はその後も降り続けた。三人は、白野から傘を持っていくように言われたが、近所だからと、そのまま走って帰った。雨はその後もしばらく降り続けた。町が眠る深夜に静かにやんだ。


次回第二章へ つづく


第二章(アクション&ポエトリー)


一.

三年生の五月になった。白野の家から傘を借りずに、三人が走って帰ったあの日から、半年近くが過ぎた。陽次は、風邪を引いた。初夏の陽気に、薄着をしていたら、体が冷えて風邪を引いた。陽次は夏を思わせる陽ざしに油断した。実際には、まだ冷える日があった。一週間ぐらい熱が続き、悪寒もする。今、それを診てもらうため、澄野内科クリニックの待合にいた。午後の待合には患者が少なかった。午前に患者が集中するのだ。いつものことだから、午後に都合のつく患者は、午前を避ければいいのに。そんなことを考えていると、陽次は名前を呼ばれ、診察室に入った。診察室には、美聡の父昭弘が白衣を着て座っていた。


美聡の父は、祖父の幸三郎と違って、中肉中背のがっしりした体格をしていた。幸三郎は、痩せて背の高い人だった。診察の時、雑談もする人だったが、昭弘は、雑談はしない。すぐに診察をして、「風邪だね。薄着で体が冷えたんだ。この時期は一日の気温差も大きいから」と言った。外出の際は、上着を一枚持っていくこと。家でも、薄手の羽織れるものを常備しておくこと。夜も冷えるので布団、寝間着もそれに対応したものにすること。それだけを伝え、薬は処方しなかった。

診察が終わり、陽次が椅子から立ち上がろうとすると、

「そういえば、納見君はどうしているんだい? 詩の創作は順調かな?」

と珍しく、昭弘は診察以外の話をした。

陽次は、昭弘の顔を見た。素朴な疑問のようだった。

「僕には、詩のことは分からないんですが、創作は順調だと思います」

「この町から、しかも、美聡の同級生から詩人が誕生するとは驚きだよ」

昭弘の言葉に、やはり、白野塊は忘れられた詩人なのだと陽次は思いながら、

「学校でも、納見はスターです。ただ、僕と同じで、みんな、詩については分からないようですが」

と答えた。

「それを言えば、僕も同じだよ」

昭弘は笑った。

陽次は、昭弘の笑顔を珍しく見た。よほど納見のことが誇らしいのだろうと思った。

「それはそうと、ところで、桐原君の進路は?」

「僕は、B大学に指定校推薦で試験を受けます」

「なるほど。A高校とB大学は長い交流があるからね。それなら大丈夫だ。学部は決めたのかい?」

「法学部にするつもりです」

「弁護士を目指すのか」

「いえ。特に理由はないんですが」

「理由がない? 理由がないのに法学部に行くのかね?」

昭弘は幸三郎の跡を継ぐために医学部に進んだので、理由もなく学部を決める陽次のような学生は分からないようだった。昭弘は、それ以上は尋ねず、代わりに、

「じゃあ、納見君はどうするんだろう? 詩人といっても、詩で食べていくわけじゃないだろう? 彼には会社がある」

と言った。

「はい。納見は、お父さんの化学薬品会社の跡を継がなければならないから、化学の勉強ができる大学に進むでしょう」

昭弘は、陽次の答えに、少しほっとしたようだった。

「私も子ども二人に自分のクリニックの跡を継ぐように言った親だから、本当は、こんなことは言えないのだけれど、納見君は大変だね。さぞ重責だろう」

「そうですね」

そして、陽次は、昭弘に礼を言って診察室を出た。待合の椅子に座り会計を待った。その間、先ほどの昭弘との会話について考えた。陽次は、納見についての話のかなりの部分をごまかした。話していて苦しいほどだった。会計にすぐ呼ばれた。彼は、支払いを済ませた。美聡にも、クリニックに来たついでに会おうと思っていたのだが、それもやめた。すぐにクリニックを出て逃げるように家に帰った。


同じ日、美聡は、医学部受験生用の模擬試験を受けに少し離れた街に電車で来ていた。駅の正面ではなく裏側に医学部専門の予備校はあった。二階建てのこぢんまりとした建物だった。この予備校は授業料が非常に高い。そのためもあり、美聡は、近所の進学塾で勉強している。定期的に行われる模擬試験だけを受けに来る。今、模擬試験の数学の問題を解きながら、美聡は、頭の片隅で、納見のことを考えていた。彼女は、集中力が高まった時ほど、問題を解きながら、同時に、別のことを考える。だから、今も、彼女は良い状態で模試に臨んでいる。ただ、納見のことは、良い内容ではない。そこで、美聡は急いで、頭の片隅の考えを消した。それから夕方まで、彼女は、模擬試験だけに集中した。納見のことを考えるのは、夕方の帰りの電車の中にしよう。今、彼のことを考えるのは、賢明なことではない。納見は、地元のラジオ局の生放送に隔週で出演している。彼は、そこで自作の詩も朗読している。その姿を思い浮かべることは、集中力を途切れさせることはあっても、高めることはないから。彼女はそう判断したのだった。


二.

納見修作は、現代詩世界社から、昨年の十二月に華々しく初の詩集を出版した。高校生受賞という話題性と雑誌のインタビューの効果がありよく売れた。年が明けて、三月に他の出版社から、二冊目の詩集を出版した。こちらは、前作より売り上げは落ちた。それでも、まずまず売れた。だが、納見は詩の創作よりも、それ以外の活動が目立った。雑誌のインタビューは引き続き沢山受けた。また、ラジオ出演をした。納見の詩に刺激を受けたという年配の男がパーソナリティを務める番組にゲストに招かれた。夜の生放送だった。パーソナリティは、地元で有名なリック柴本という元ロックミュージシャンだった。かなり強面の男だったが、納見とよく話が合った。納見は常に相手に話しを合わせるのが上手い。1960年代と70年代で、それぞれ一番好きなロックバンドを挙げたり、誰が世界で一番上手いギタリストかを話し合ったりする、よくある企画だった。

「ノーミーって呼ばせてもらうよ」

「ええ。お好きなように」

「ノーミーは60年代にアメリカで活躍したキャプテン・ローズデッドが好きだそうだけど、どのあたりが好みかな?」

「リックさんのほうがよくご存知だと思いますが、ブルージーで、なおかつパンキッシュな彼らが好きです。僕の詩も大きな影響を受けています」

「さすが、ノーミーだね。音楽を分かっている。本物には本物を見極める目があるってことだね」

「僕は謙虚じゃないから、その言葉、否定しません」

納見の最後のセリフがリスナーにウケたらしく、その出演をきっかけに、納見は、隔週でレギュラー出演が決まった。番組の最後に自作の詩を朗読することになった。

学校の生徒は、皆、ラジオを聴いた。校長の森原と教頭の尾高も聴いた。既に、納見のことは黙認を超えて放任になっていた。陽次と美聡も聴いた。朗々と自作の詩をうたいあげる彼に呆れた。白野塊も聴いた。詩の朗読の箇所になるとラジオを消した。彼の活動は、まだあった。ラジオ局で出会ったコンテンポラリーダンサーのカゲノと「アクション&ポエトリー」と題して共演している。納見が詩を朗読し、それに合わせてダンサーが躍るのだった。美聡が模擬試験を受けている予備校の反対側の、駅の正面にある大きな公園で「アクション&ポエトリー」は定期的に行われていた。美聡は陽次と一緒に一度、彼らのパフォーマンスを見た。当人たちは即興性を重んじているつもりだったが、実際には、思いつきでやっているようにしか見えなかった。面白半分で見に来た客も、面白くないので帰ってしまう。そんな感じだった。美聡は、模擬試験を受けに来る途中、二人に合わないかと思ったが、今日は、いなかった。


陽次も美聡も、白野の影響を脱する詩人になると宣言した納見を信じた。だが、今、納見がやっていることは、白野塊の詩を超えるための努力の正反対だとしか思えなかった。陽次も美聡も、納見は詩人として生きていくと覚悟を決めたと思っている。だから、ノウミ化学を継がないことになってもやむを得ないと思って応援している。それが、ラジオで詩の朗読をしたり、路上パフォーマンスをしたりしているのを目の当たりにすると、果たして、彼を応援していいのかと疑問を持つ。ラジオや路上パフォーマンスが悪いのではない。そうではなくて、納見の場合、明らかに詩作という本業を疎かにして、目立つことだけを選んでやっているようにしか思えないからだった。


納見の口から、父親と大喧嘩をしたことを聞いた。彼の両親は、詩の受賞に当初、関心がなかった。だが、詩集が出て、ようやく納見の受賞の意味が分かった。納見はプロの詩人でやっていくのかもしれない。そして、会社を継がないつもりかもしれない。納見と父賢作は、大喧嘩になった。だが、納見は父の言うことに一切耳を貸さなかった。そして、父と険悪になった。彼は家にあまり帰らなくなった。友人の家を泊まり歩いている。カゲノのダンススタジオにある休憩室でも寝泊まりしているらしい。ある日、会社の従業員の一人が、納見がラジオに出演していると両親に教えた。

夜、二人は、ラジオの生放送を聴いた。リック柴本と納見の会話を聴いたが、カタカナ語ばかりが出てきて、何を話しているのか分からなかった―サステナブル、シニシズム、オポチュニズム、トートロジー、パトリオティズム等々。最後に、納見の自作の詩の朗読があった。白野と同じく、そこで、二人はラジオを消した。それ以上、聴くのは、二人にも堪えられないからだった。


三.

六月に入ったある夜、納見は、ラジオ局から駅までの帰り道にある本屋のガラス窓を見た。納見の一作目の詩集の宣伝用ポスターがまだ貼られていた。彼が、赤いシャツを着て、真っ白な詩集を掲げている姿が写っている。このポスターが本屋に貼られているのを初めて見た時、彼は夢を見ているようだった。撮影の時、詩集を持つ角度が悪いと、何度もカメラマンに怒鳴られたこともきれいに忘れた。ノウミ化学が、いつ倒産するかもしれないと半ば神経症気味に恐れていることも忘れた。美聡のクリニックへの妬みも忘れた。この瞬間が永遠に続けばいいと思った。納見はこの世に生まれてきて良かったと思った。

だが、それは大袈裟だったとしばらくして気づいた。

納見は、店の灯りに照らされて、闇夜に彼の顔が浮き上がるようになっているポスターを見て、今は、苦々しく思った。

「いつまで貼ってあるんだ。他にも新しい本のポスターが沢山出ているのに」

ラジオ局からの帰り道に通る本屋は、あまり流行っていない古ぼけた感じだった。だから、納見のポスターも積極的に貼り続けているというより、貼りっぱなしで忘れている感じだった。彼はそこがよけいに恥ずかしかった。

「僕が、古ぼけているみたいじゃないか」

納見はそう口にして、はっとした。

納見は、昨年の十一月に白野塊に誓ってから、半年を過ぎた今、あることに気づいた。そのあることとは、詩人白野塊と全く反対のことだった。納見修作は、早くも自らの才能の枯渇に気づいたのだった。納見は、まだ本屋の前で、ポスターを見ていた。恥ずかしいのなら、早くその場を立ち去ればいいのだけれど、彼は、何故か、その場を離れられなかった。陽に焼けて色あせた自らのポスターには、彼自身への奇妙な訴求力があった。今の我が身をピタリと表している気がした。


納見は、電車にしばらく揺られ、ある駅で降りた。駅前には広い公園がある。ここで、定期的にカゲノと「アクション&ポエトリー」を行っている。駅裏に回るとカゲノのスタジオがある。カゲノが借りる前は、ジャズダンスのレッスンスタジオだった。プレハブ建築の安っぽい建物だった。今、カゲノはいないが、合鍵を持っているので、スタジオに入れる。スタジオに向かう途中に、医学部の専門予備校がある。模擬試験を受けに美聡が来ることも知っている。納見は、闇の中に建つ予備校の建物を見たが、美聡への嫉妬を感じることすらなかった。彼は焦っていた。そして、疲れていた。

スタジオのフロアーの奥にドアがあり、入ると休憩室があった。納見はすぐソファーに横になった。

「リックさんの話には、どうして、カタカナ語ばかり出てくるんだろう。今夜は、エシックスって連呼するから何だろうと思ったら、倫理学だってさ。普通に倫理学って言えばいいじゃないか」

小さな灯りだけの薄暗い休憩室で、納見は、愚痴を言った。

だが、それは些末なことだった。

問題は、彼が、詩をつくれないことだった。

「才能って、こんなに早く枯れるものなのか?」

納見は思わず声に出した。そして、ソファーから立ち上がった。

彼の疑問は当然のものだった。だが、彼は一つ大きな思い違いをしていた。

彼の才能は枯渇したのではなくて、彼には、そもそも詩人としての才能がないのだ。

恩師白野塊が、彼の悲しむ姿を見るのが辛くて、彼についた嘘が、こんなにも早く、彼に、現実となって降りかかって来ようとは白野ですら予想していなかった。いや、白野塊は、万が一にも自分の嘘が嘘でなくなることを願っていた。全く無いとは言えないことだったから。白野塊から見て、納見は白野の模倣作しか作れないとあの時点では判断した。あの時点では、それが真実だった。だが、その後、どうなるかは分からないのが人間である。“バケる”かもしれない。白野はそこに賭けていた。でも、それは儚い夢だった。


四.

澄野美聡は、納見修作が、『現代詩世界最優秀新人賞』を受賞した時から、羨望に似た憧れを彼に抱くようになった。恋愛感情ではない。何故なら、美聡の納見への思いは、宿命から逃れることを自らの力で可能にしたことへの羨望だったからだ。美聡は、納見が中学に入った頃から、自分を妬み始めたことを知っていた。経営の不安定な彼の家の会社と比べて、美聡の家のクリニックは安定しているという彼の嫉妬だった。だが、それは彼の思い込みも大きい。小さなクリニックの経営がいかに難しいかを納見は知らない。美聡の母摂子は、クリニックの事務長をしている。毎日、朝早くから夜遅くまで、パソコンと帳簿を見ている。新患、再診患者数の把握、診療報酬請求、薬剤及び医療材料の管理その他、数え切れない仕事をしている。それを院長であり夫の昭弘に伝える。昭弘と摂子の二人でクリニックの経営戦略を練る。その上で診察に臨む。ただ漫然と診察をしているわけではない。常に経営を意識している点では、クリニックも納見の会社と同じであった。美聡の住む町には同じような規模のクリニックが多い。患者の争奪戦という、医療機関における激戦区だった。だから、兄の道幸だけでなく、美聡にも医者になって欲しいと言われた。祖父も父も一人で診察をしてきたが限界がある。二人体制にしたいと言われた。納見が会社を継ぐのを宿命づけられているのと同様、これが美聡の宿命だった。


それだけに、詩の創作よりも、ラジオ出演やダンサーとのコラボレーションばかりに時間を使っている納見が、美聡は許せなかった。時間を使っているというより、時間の浪費だと思った。だが、疑問もあった。納見は、目立つことが好きだから、ラジオ出演などを好むことは分かる。ただ、彼は常に明確なヴィジョンを持ち、それに向かって無駄なく進む人物だった。例えば、同じ塾で勉強していて分かるのは、目標の大学、学部などは早くから決めており、その大学の受験の傾向に合わせた勉強を効率良くする。彼の的確な方法論は、美聡も見習っている。また、非常な努力家であった。だから、今、ラジオ出演やダンサーとのコラボレーションをやっていることは、彼の方法論に一致しないのであった。本来の彼なら、詩をつくり続け、詩集を出せるだけ出して、詩人としての実績を上げることを何よりも優先するはずだった。ラジオやダンサーとのコラボレーションは、その次に取り組むべきものである。だから、美聡は、単純に横道に逸れていると彼を批判するのには疑問もあった。


その日は、梅雨はまだ訪れず爽やかな一日だった。学校から帰った美聡は、客間の椅子に一人で座っていた。テーブルの上の携帯電話を手にすると、陽次の携帯電話に連絡をした。A高校は、勉学を疎かにするという理由で、スマートフォンの所持は一切禁止だった。従来型の携帯電話は、女子生徒は、夜間、緊急時等の連絡の必要性があり所持を許可。男子生徒は、申請を審査し必要性を認めた場合許可となっていた。だが、男子生徒が申請した場合、ほとんどが却下される。「塾が終わるのが遅いから、家族に迎えに来るように頼むため」と申請しても、「塾の終わる時間は決まっているので、概ねその時間に迎えに来てもらえば済む」と却下される。他にも色々なケースを申請しても却下される。高校は、女子生徒には必要性を認め所持を許可しているが、男子生徒には携帯電話を持たせたくないのだった。「勉強に集中させたい、無くても何とかなる」というのが、本音だった。実際、中学生の時には、スマートフォンを持っていた男子生徒も、高校で従来型の携帯電話すら禁止されると最初は戸惑うが、すぐに慣れるという事例も幾つかあった。だから、現状ではこの方針に変更はない。三年生になると、男子生徒も、受験で必要になると、携帯電話の所持が認められるようになる。陽次は、家に電話してもいないことが多かった。帰宅してから陽が暮れるまでの間、彼は、近くの運動公園でランニングをしている。彼の母は、毎日、無農薬野菜の農園で働いている。父は証券会社で働いている。だから、誰も電話に出ない。陽次にどうしても話がある場合、運動公園に直接会いに行くしかなかった。実際、美聡は、これまで何度も、陽次に会うために、自宅から運動公園まで行ったことがある。会えることは会えるのだが、ひどく面倒だった。その陽次が携帯電話を持ったのだ。美聡は、文明の利器というものに対して、常に懐疑的であり、携帯電話についても、利点よりも弊害を考えるタイプだった。だが、陽次に関しては、その恩恵を素直に感謝した。

陽次の電話に繋がった。

「何?」

「ランニングは?」

「もう終わったよ。公園の周りを十キロ走ったんだ。すっきりしたよ」

陽次は、家の近所を散歩したような気楽さで言った。そして、

「何か用があったんだろ?」

と再び尋ねた。

美聡は、

「はっきりとした用事じゃないんだけど、納見君のことでね」

と言った。すると陽次が、

「納見かあ。実は、あいつのことで僕も話したいことがあるんだ」

と言った。

「どうしたの? 何かあったの?」

美聡が尋ねると、

「何かあったってわけじゃないんだけど、とにかく僕では分からないことだから、君に聞こうと思ってたんだ」

と陽次が言った。

そこで、美聡は、

「詩についてのことね」

と言った。

陽次は「そうなんだ」と返事をした。それから、「話がしたいんだ。今から運動公園に来て欲しい」と言った。

美聡は、「すぐ行く」と答えた。

彼女は小さなバッグだけ持って家を出た。道すがら、彼女は、これならば、携帯電話を使わず、以前のように直接、運動公園に陽次を訪ねたほうが、早かったと思った。文明の利器に対する懐疑性というものは、こういう身近な事例で証明されることが多い。要するに、便利なようでかえって不便になった、ということだ。そう結論づけると、彼女は、爽やかな午後の町を陽次のいる公園に向かった。


美聡が運動公園に着いたのは、午後四時過ぎだった。六月の初め、陽が暮れるまでにはまだ時間がある。そのためか人が多かった。陽次と同じでランニングをしている人が多い。美聡は、陽次はどこにいるのだろうと探していたら、携帯電話が鳴った。陽次からだった。休憩所の近くの芝の上で休んでいると言った。広い公園で、彼と容易に会えるようになったのだから、携帯電話の存在を全て否定するものではない。彼女は、利点も認めた。以前は、待合せの場所に着いたら、彼が、再びランニングをしていたこともあった。そうなると、沢山のランナーの中から彼を探し出すのは困難だったから。


陽次は上下ジャージ姿で芝の上に座っていた。美聡が並んで座ると、

「この前、風邪を引いた時、君のお父さんに診てもらったんだ。薄着が原因だから上着を着るように言われたよ」

と上着も着ている意味を説明した。

「桐原君が、ちゃんと言うことを守っているってお父さんに報告しておく」

美聡は笑って答えた。それから、

「さっきの話だけど?」

と真剣な表情になって尋ねた。

「それを僕も話したかったんだ」

陽次からも笑顔が消えた。


六月に入る前のことだった。陽次は、その日は、運動公園に行かず、家で勉強をしていた。机の上の携帯電話が鳴った。納見からだった。電話を取ると、今から家に行ってもいいかと納見が言うので、かまわないと答えた。泊まるかもしれないが、いいかというので、少し考えてから、かまわないと答えた。

納見は、今から行くと言ってすぐに電話を切った。

陽次は、納見が、他の友人の家を泊まり歩いているが、自分の家には来ないことに気づいていた。陽次に、注意されることを分かっていたからだった。陽次は、二年生の夏休みに、納見の工場でアルバイトをした。以来、陽次は、納見の両親を慕っている。納見の両親も、納見に陽次はいい青年だと言っているらしい。だから、父親と大喧嘩をして以来、家に帰らない納見に不満があった。陽次の家に納見が訪れないのは当然だった。だが、彼は今から行くと言った。陽次は、よほど重大なことでもあるのだろうと思った。


玄関のチャイムが鳴ったので、陽次が、ドアを開けると納見が立っていた。気まずい顔でもするだろと思っていたら、そんな様子は全くなかった。納見は、何故か、焦っていた。まだ両親も帰っていなかったので、居間に案内した。納見は、カバンから自分の詩集を二冊取り出した。そして、こう言った。

「桐原。二冊を読んで、感想を言ってくれ」

「無理だって知ってるだろ。僕は詩が分からないよ」

「それでいいんだ。分からない桐原の真っ白な気持ちで読んで欲しいんだ」

納見は真剣だった。切迫感を感じさせた。

だから、陽次は言う通りに詩集を読んだ。一作目も二作目も最初から最後までしっかり読んだ。二時間近くかかった。だが、結局、陽次には、彼の詩が何を意味しているのかは分からなかった。でも、とにかく感想を述べた。

「詩の意味することは分からないけど、文章を読んで、一作目の始まりから二作目の終わりまで均質にできていると思う。二作目で乱調して質が落ちてきたとか思わなかった。やっぱり、お前って才能があるんだな」

陽次は正直な感想を述べた。詩の意味は分からなかった。その代わり、言葉の美しさや詩の構成に注視した感想だった。それは、納見が望んだ真っ白な気持ちで読んだ感想に近いものだった。だが、納見は、陽次の感想を聞いて、ぼう然とした。陽次は、納見が喜ぶのではないかと思っていたので驚いた。

もう陽が暮れていた。彼が来た時に、冷蔵庫から出したサイダーが生ぬるくなっていた。気も抜けて、ただの砂糖水になっていた。これを飲むと凄く甘いんだと、陽次は、コップの中の気の抜けたサイダーを眺めていた。納見が話し出すのを待っていた。だが、納見はぼう然としたままだった。陽次は、部屋の電器を明るくした。それから、

「どうしたんだよ?」

と言った。

その声に、納見ははっと我に返った。

「いや、何でもないよ。非常に参考になった。ありがとう。失礼するよ」

彼は立ち去ろうとした。

「泊っていくんじゃなかったのか?」

「ちょっと用事を思い出した」

「詩のことも大事だけど、お前のお父さんとお母さん。心配してるだろ? 家に帰ってお父さんと話し合いをしろよ」

陽次は、ずっと不満に思っていたことが噴き出した。かなり、きつい言い方をした。喧嘩になるかなと思った。それもやむを得ないと覚悟した。ところが、納見は、

「全くその通りだ。また、ちゃんと家に帰るよ。でも、今日はダメなんだ。すまん」

と返事をした。

「そうか。今日はダメなのか。じゃあ仕方がない。できるだけ近いうちに家に帰るようにな」

陽次は、肩すかしを食らったような感じになった。

納見は、そのまま急いで玄関を出た。

陽次は、自分も玄関を出て彼の姿を見送ったが、しばらくすると町の中に消えた。


先ほどまで、運動公園を照らしていた陽が暮れ始めた。

公園の芝の上に座って陽次の話を聞いた美聡は、

「意味深な行動ね」

と言った。

「僕もずっと気になっていたんだけど、美聡ちゃんも忙しいから、中々、話す機会がなくて。やっと話せてよかった」

陽次は、ようやく美聡に話ができたことでほっとした。美聡に伝えることが、彼の義務だと捉えていたからだった。そして、陽次は続けた。

「それにしても、納見が何をやっているのか分からない」

「合理的な彼が、何をやっているのか分からないということは、大きなトラブルを抱えていることを意味すると思う。無駄を嫌う人だから。そして、今の桐原君の話から、原因は、彼の詩そのものにあるという問題の核心が分かった。大きな前進だと思う」

「そうか。その通りだね。ひょっとして雑誌のインタビューとかラジオ出演とかで自分が見えなくなっているのかって心配してたんだよ。あいつは、そんな奴じゃないね。安心したよ」

「そうよ。納見君は、そんな人じゃない」

陽次が、幼なじみの納見を心配する気持ちが、美聡にはよく分かった。彼女も、納見が華やかな世界に惑わされ自分を見失ったのではないかと疑いを持っているところがあった。そして、そう思うと、彼女も、とても残念な気持ちになったからだ。今、陽次の話を聞いて、美聡も安心した。ただ同時に、彼が、自分の詩の何に悩んでいるかを知りたいと思った。立て続けに二冊も詩集を出した納見は、創作に行き詰まっている。それは、十分に考えられる。結果、ラジオやダンスとのコラボに逃げている。ある得ることだ。だが、納見はタフだ。彼はそんな単純な動機で単純な逃避行動を取るような人間ではない。もっと複雑な原因がある。美聡は、納見の複雑な人間性を知っているだけに、安易な推察は控えるよう心にとめた。


六.

美聡は納見が自身の詩に何か悩んでいることは分かった。だが、それが何なのかは依然として分からないまま七月に入った。急に蒸し暑くなった。夏が苦手な美聡は、早くも自分の部屋のクーラーをつけていた。クリニックが閉院してからも、父と母が受付の裏の事務所で仕事をしている。二階の彼女の部屋から、事務所の灯りが見える。父も母も働きすぎだと彼女は心配した。これが、納見が妬んでいるクリニックの現実だと思った。彼女は、陽次が父から言われたことを思い出し、風邪を引かないように薄手のパーカーを羽織って机に向かった。英語の参考書を広げた。それから、机の上のラジオをつけた。今夜も、納見がラジオの生放送番組に出演する。普段、“ながら勉強”はしない美聡だったが、納見の出演するラジオだけはつけたまま勉強をする。

地元の中古自動車チェーン店のコマーシャルと、これも、地元のスーパー銭湯のコマーシャルが流れた。どちらも、安っぽいコマーシャルだった。天気予報が流れ、明日も暑いと伝えた。リック柴本の番組開始まで、まだかなり時間があった。美聡はラジオを早くつけすぎた。だが、彼女は勉強に集中しているので、ラジオの音は耳に入って来ない。オープンニングタイトル曲である、リック柴本が歌う「ロックンロール・エアポケット」が流れるまで、彼女の集中は途切れない。


生放送前のラジオ局のスタジオで、リック柴本が、納見を呼びつけて言った。

「詩の朗読だけじゃ、つまんないってリスナーの声が多いんだよ。だから、今日はオープニングから出ずっぱりで頼むよ」

「二時間の生放送で、出ずっぱりって。何を話せばいいんですか?」

「そこは君の詩の才能を活かしてくれよ。詩がつくれるんだから、ラジオで話すぐらい大したことないだろ?」

リック柴本は親しくなるにつれ、横柄になった。彼には、スタッフも、何も言えなかった。納見は、出会った頃の気さくなリック柴本が、本当は、こういう人物だったのかと失望した。自慢の鋲が沢山打たれた革ジャンも、真夏だから着ていない。Tシャツ姿のリックは、いつもは革ジャンに隠れているぜい肉がモロに見えた。納見には、リックが、だらしない牛のように見えた。


ベテランのスタッフによると、彼は、昔、人気のあるロックバンドのヴォーカルとして活躍していた。作詞も担当していた。ところが、ある日、彼らのマネージャーが、リック柴本より若く、ビジュアル的にも優れた男を連れて来た。スカウトしたとマネージャーは言った。バンドの人気に翳りが出ていた。テコ入れだった。マネージャーは、バンドの新陳代謝が必要だと言った。リックをクビにして、若い男をヴォーカルに据えようとした。リックもバンドのメンバーも反対した。そこで、マネージャーは、男の作詞した歌詞を全員に見せた。リックは負けたと思った。他のメンバーは急に黙った。

「バンドが生き残るためにはこうするしかないんだ。リック。長い間ありがとう」

マネージャーはリックに握手を求めた。

リックはバンドのメンバーを振り返った。皆、黙っていた。リックは皆の無言の求めに応じて握手をした。そして、彼はバンドを辞めた。


「それから、色々やったけど、上手くいかず、この町に帰ってきてラジオの仕事でようやく成功したんだ。だから、納見君が、高校生詩人として世に出たことが妬ましいんじゃないかな」

突然のリック柴本の提案に、納見は戸惑った。そこで、ベテランのスタッフの一人が、背景にある事情をそっと教えてくれた。つまり、リック柴本から納見への嫌がらせであった。

「だから、上手くやってね」

肝心の上手くやる方法は教えず、スタッフは去っていった。

リック柴本についての話は、あまり参考になる話ではなかった。それより、今の話から、ベテランスタッフですら、何もできないことが分かった。そこから、スタジオ内の力関係が、改めて理解された。


納見は、何かが違って来ていると思った。

彼は、何かが狂い始めたと思った。

彼が求めていたものとは、違うものばかりが手に入る。

これは成功なのだろうか? それとも成功の代償なのだろうか? それとも、全てが失敗なのだろうか?

納見の考えが核心に近づいたところで、ラジオの生放送の開始時間になった。


七.

オープニングタイトル曲の「ロックンロール・エアポケット」が流れ、ラジオの生放送が始まった。

結局、事前に対策は思いつかなかった。納見は、リック柴本に対坐し、番組が始まった。

「リック柴本のロックンロール・エアポケット」と彼がタイトルコールをした。

「今夜の生放送は僕の最高のパートナー。ノーミーこと若き天才詩人の納見修作君が、オープニングから生出演だよ。ラストのポエトリー・リーディングまで二時間ぶっ通しの生出演。ノーミーに聞きたいことが、リスナーのみんなにも沢山あるはずだ。じゃんじゃんメールを送ってね。どんな難しい質問、プライベートな質問にもノーミーは全開で答えてくれるよ! オーケーカモン!」

冒頭から、リック柴本はリスナーを煽った。プライベートな質問には答えないことは、番組に出演する際に、納見からスタッフに申し入れたことだった。それも無視した。

当然、ありとあらゆるメールが送られてきた。

リック柴本は、できるだけ意地悪な質問を選んで納見にぶつけた。

「ノーミー。リスナーさんからの質問だけど、いつもノーミーの詩の朗読を聞いていて、デタラメにつくってるんじゃないかって思うってあるけど、どうなの?」

「いえ、違います。しっかりと構想を練って長い時間をかけてつくっています。デタラメじゃありません」

「なるほど。でも、こんな意見もあるよ。テキトーにつくって、あれだけ詩集が売れるなんて詐欺だぜ。あっ! ごめん。これ、嫌がらせのメールを間違えて読んじゃった」

納見は、リック柴本の露骨な嫌がらせに、彼の人格を疑った。

スタッフが、慌ててコマーシャルに切り替えた。そして、リック柴本に注意した。納見は、気が動転した。人から、これほど直接的に悪意を浴びせられたことはない。また、彼自身、人にこれほど直接的な悪意を浴びせたこともない。美聡のことは確かに妬んでいる。陰口も言っている。だが、面と向かってこんなことはできない。それが、できてしまうリック柴本に恐怖を覚えた。

スタッフの注意を受けたリックは、普通の質問を読んだ。これ以上やるとマズいと思ったのだろう。ベテランのパーソナリティーだけに引き際も心得ていた。その後は、詩以外で何か興味のあることはとか、どんな映画が好きかとか、好きな女性タレントは誰だとか、月並みで無難な質問を読んだ。気まずかったスタジオの空気も落ち着いた。リックは、そこでふと、彼自身からの納見への質問をした。

「俺も昔、バンドをやってた頃、作詞をしてたんだ。アルバム一枚、十曲はあった。その詞を全部書いた。すると、段々、詞が乱れて来るんだ。後半になるほど息切れして雑になった。君の現代詩も、そういうことはあるの?」

元ロックミュージシャン・リック柴本からの真面目な質問だった。

スタッフは、やっと真面目にやってくれると安心した。納見がどう答えるか興味を持って聞いた。納見は、まともな質問を受け、まともに考え、まともに答えられるはずだった。だが、リックの質問を聴いた瞬間、納見の頭には、陽次の家でのことが鮮烈に蘇った。

「一作目の始まりから二作目の終わりまで均質にできていると思う。二作目で乱調して質が落ちてきたとか思わなかった」

陽次の言葉が蘇った。

『リック柴本のように乱調するはずなんだ。疲れが出るんだから。でも、僕はどれだけ創作しても疲れない。何故なら、白野塊先生の詩の型の上に自分の言葉を乗せているだけだから。僕は創作しているんじゃない。僕は先生の詩を僕の好きなように色づけしているだけなんだ。だから、リック柴本の言う乱調がないんだ。リック柴本が、どれだけ意地が悪くても、彼は、かつて自分で作詞をした。でも、僕は詩をつくっていない。僕は、さっきのメールにあった通り詐欺を行っている詐欺師なんだ』

そう思うと、納見は、口が渇き、声が出なくなった。

異変に気づいたリック柴本が、

「曲の作詞と現代詩の創作は、違うかな。じゃあ、ノーミー。コマーシャル明けには、いつもの詩の朗読を頼むよ」

と言ってその場を乗り切った。

コマーシャルに入ると、納見は、リック柴本に礼を言って、詩の朗読の準備をした。そして、コマーシャルが明け、詩の朗読をした。ラジオの二時間生放送は無事終了した。

「お疲れさん! これが、俺の鍛え方だから。愛の鞭と思って、くれぐれもいじめられたとか、パワハラだとか言わないように」

リック柴本は、何故か、得意げな顔をして言った。

納見は、何も言い返す力もなくスタジオを後にした。

「生意気な坊やも、この程度で潰れるようなら、その程度の人間なんだ。生き残ったら、あの時、俺がいたからってきっと感謝するぜ。なあ?」

納見のいなくなったスタジオで、リック柴本は、スタッフに同意を求めた。スタッフは、皆、聞こえないふりをした。納見は、ラジオ局を出た。リック柴本の嫌がらせより、彼は自らの詩の限界にぼう然とした。


八.

美聡は、ラジオを消した。勉強は全く手につかなかった。リック柴本の納見への嫌がらせに憤りを感じた。そこに、陽次から、電話があった。美聡は携帯電話を取ると、

「何あれ? いじめの生中継じゃない」

と陽次に抗議した。

「僕に抗議をされても。ラジオ局の関係者じゃないから。でも、確かにひどかった」

陽次も同意見だった。

それから、ひとしきりリック柴本とラジオ局の悪口を二人で言った。

「いつまで喋ってるの? お風呂入りなさいよ」

陽次の後ろで彼の母の声が聞こえた。陽次が電話を切ろうとした。

美聡は、慌てて言った。

「嫌がらせばっかりだったけど、あのパーソナリティー。一つだけ、真面目な質問してたよね。でも、その質問だけ、納見君、答えられなかった。何故だろう?」

「詩が乱れることはないかって質問だよね。僕も気になった。あいつが家に来た時、僕が、詩が乱調していないって褒めたら、逆にぼう然とした時の感じと似てた」

二人は、しばらく考えた。

陽次の母の声が再びし、「母さんが風呂に入れって、うるさいから、ごめんね」と彼は電話を切った。

美聡は、陽次が、あの日、公園で話してくれた納見のことと、今夜のことに共通する何かを考えた。あるような気がしたが、分からなかった。美聡は、ラジオをつけた。知らない男性パーソナリティーが、自分の人生における最高の恋愛体験を熱く語っていた。彼女はすぐにラジオを消した。それから、もう一度、共通する何かを考えた。薄っすらとだけれど何かが見えた気がした。


ラジオ局を出た納見は、力なく歩いていた。暗闇に灯りを感じた。顔を上げると、あの古ぼけた本屋だった。窓にはまだ納見のポスターが貼られていた。

納見は、暗闇に自分の顔が浮き出たように見えるポスターを見ると、

「ウソの俺が、ウソの詩を書きましたっていう証拠のポスターだ!」

と絶叫してその場から逃げた。

何事かと本屋の中から、年寄りの店主が顔を出した。辺りを見まわしてから、顔を引っ込めた。


町をさまよい歩いても、納見には行くところがなかった。結局、カゲノのスタジオにいた。休憩室のソファーでうなだれていた。

ドアの鍵を開ける音がした。

「納見。いるのか?」

カゲノの声がした。

納見は立ち上がり、休憩室を出た。照明のついた板敷のフロアーには、カゲノがいた。いつも黒のトレーニングウエアの上下を着ている。カゲノは、小さなコンビニの袋とペットボトルのミネラルウォーターを右手に持っていた。袋の中身は、いつもメロンパンと小さなドーナツだった。彼の夕食だった。朝と昼をまともに食べないので、これが一日の食事でもあった。フロアーにあぐらをかいて座ると、彼はメロンパンを食べ始めた。長髪を後ろで束ねている。背は納見より高い。痩せている。顔は鼻が非常に高く目も大きい。カゲノに初めて会った時、納見は、ピーターパンのフック船長のようだと思った。

カゲノは、このスタジオで、平日の昼間、高齢の男女を対象に、「健康コンテンポラリーダンス教室」を開いている。やっていることは、簡単なストレット体操と社交ダンスだった。教室の名前にコンテンポラリーダンスが入っているが、彼の独創のコンテンポラリーダンスとは全く関係のない内容だった。純粋に生活のための仕事だった。その他、町のカルチャーセンターの一室でも、同じ内容の指導をしている。

納見が、以前、教室の仕事について「面白いですか?」尋ねたところ、「面白い面白くないという次元の問題ではない。死活問題なんだ」と答えられた。納見は、自身の軽率な質問を反省した記憶がある。


「ラジオ聴いたよ。随分、いじめられてたな」

カゲノは立っている納見を見上げた。

「聴かなくていいのに。つまんない番組なんだから」

納見もその場に座った。フロアーの床は冷たかった。

「君を妬んでるんだろう。どうせ、昔、バンドで挫折したことを引きずってる。そんなとこだろう」

「カゲノさん。リック柴本のバンドって覚えてますか?」

「ヴォーカルが突然替わったことで話題になった。それが一番の話題だった。俺もそれしか覚えてない」

「替えられたヴォーカルが、リック柴本だそうです」

「そうだったかな。それも忘れてた。確かに、辛いな。君を妬むのも仕方がないな」

カゲノには、リック柴本のような経験はないが、年齢的に近い彼に同情した。おそらく屈辱を受ける前より屈辱を受けた後の人生のほうが、長いのではないか。

「辛い人生だなあ」

思わずもう一度、カゲノは呟いた。

カゲノは、リック柴本が納見を見て抱く思いは、嫉妬より、喪失感のような気がした。彼が失った多くのものが、納見を見るたび、蘇ってくるのではないかと思った。

「若さっていうのは、やはり、罪なんだな」

カゲノは、自分の失ったものを思い浮かべながら、そう呟いた。

納見は、カゲノが見つめる虚空に何があるのか理解することはできなかった。

彼は、ただ黙ってカゲノの言葉を聞いた。


九.

リック柴本の納見への妬みに、一定の理解を示したカゲノに対し、

「妬むのも仕方がないって。僕はたまんないですよ」

と納見は抗議した。

カゲノは、

「若くて才能があって成功したら、それだけでも妬まれる。そこにリック柴本のような過去があったら、尚更だよ」

と一定の理解を示した理由を説明した。

「でも、カゲノさんは、僕に対して、そういう気持ちを抱いていないですよね」

妬んでいませんよね、とは言いにくかったので、納見は、ソフトな表現にした。

「俺は、他人の成功なんて羨ましくない。自分の成功だって、その尺度をカネや名誉にしてないから。あくまでも、自分の舞踊を極めることが成功だから」

「ストイックですね。僕なんて、受賞してからずっと舞い上がって。その結果、今、こんなことになっています」

カゲノは、

「ラジオの仕事を辞めればいいだけじゃないか。詩の創作に打ち込めよ。俺とのコラボも、しばらく休んでいい。君には才能がある。何も落ち込むことはないじゃないか」

と優しく言った。

納見は答えなかった。否、答えられなかった。詩の創作ができないから、ラジオやあなたとコラボをしているとは答えられるはずがなかった。


黙ったままの納見に、カゲノは、

「あんまり深刻になるなよ。シンプルに考えろ。俺なんか見てみろ。何も無いけど、だからこそ自由だぞ」

と言った。

そして、立ち上がると、彼独自のダンスを披露した。バレリーナのように激しくターンを繰り返したかと思うと、急激に止まる。そのまま動かなくなる。表情もなくなる。突然、パントマイムを始める。更に、軽々と宙返りをする。その後、ひたすら、体を動かし、止まっては笑顔をつくる。この連続だった。前衛でもあり、伝統でもあるのだ。踊りの技術も見事だった。ただ、理解できる人が極めて少ないという問題があった。納見にも全く分からなかった。目の前で理解不能なカゲノの踊りを見ながら、彼の頭は更に混乱しただけだった。

「カゲノさん。すみません。一人になって考えます!」

納見は、スタジオを飛び出した。

カゲノが呼び止める声が聞こえた。でも、納見は振り返らなかった。

歩く間に、また同じ考えに襲われた。カゲノの踊りは理解不能だ。だが、完全に彼の独創だ。リック柴本の歌詞も新しいヴォーカルに負けたとはいえ、自分で書いたものだ。それが、自分の詩は、全て白野塊の模倣作。自分のオリジナルの詩は一つもない。


納見は、陽次に詩集を読ませ、彼の感想を聞いた時に、自分の詩が白野塊の完全な模倣作だとはっきりと認識した。以来、独自の詩をつくろうと努力した。だが、できなかった。納見は、生来、とても器用な人間だった。何をやらせても、すぐに出来るようになる。勉強でも、スポーツでも。彼は習得法を確立していた。全て取り込むのだ。勉強でも、スポーツでも同じだった。勉強なら、どの教科であれ、優れた参考書を買ってきて、全て暗記する。暗記するというよりカメラで撮影するように、参考書の全ページを頭に写し取るのだった。彼は人並外れて記憶力が良かった。後は問題集で、記憶が定着しているか確かめるだけだった。スポーツの場合も、優秀な選手の動きを写し取る。それを実践する。これが、納見の習得法だった。この方法で、白野の詩も彼は習得した。この時は、長い年月をかけて白野塊から直々に手ほどきを受けた。結果、納見は、白野塊の詩を完璧に模倣できるようになった。と同時に、納見は、白野塊の詩の模倣以外できなくなった。納見の人並外れた記憶力が、詩の創作の場合、災いした。白野塊の詩は、この世でたった一つのものである。勉強やスポーツとは違う。数式の解き方は全く同じでいい。むしろ、そうでなければならない。誤答になる。だが、白野塊の詩と、納見修作の詩は違わなければならない。影響を受けるのはいい。しかし、納見の詩は、白野塊の詩そのものであった。今、白野塊は詩壇で黙殺され、彼は忘れられた詩人だ。だが、彼の詩集は売れている。いずれ、一般の読者の中から、「納見修作の詩は、白野塊の盗作ではないのか? 盗作ではなくても、それ近いものを感じる。果たしてこれは納見修作のオリジナルと言えるのか?」こんな声が上がる。納見は、そのことを危惧していた。でも、独自の詩がつくれない。納見は、自分が詩をつくり続ける限り、永遠に白野塊の偽物であり続けることを知った。


夜の町を歩いていた。

納見は、カゲノのようにストイックに生きたいと思った。だが、残酷なことに、彼には詩才がないのだ。ストイックに生きようにも、彼はオリジナルの詩がつくれないのだった。だとすれば、リック柴本のように、何をしてでも、生き抜くことができるのか? 例えば、詩はつくらずに、詩人という看板だけを掲げ、その看板で食っていく。自分に問うてみた。無理だと思った。納見には、そんな図太さはない。それをすれば、家業のノウミ化学を継ぐことから逃げられるとしても、彼にはできない。リック柴本には悪いが、納見には、あそこまで、自分を捨てることはできないと思った。美聡は、納見のことを複雑な人間だと考えている。だが、それは彼の頭の良さのみを指している。美聡はそのことを知らない。複雑な英文を読解し、複雑な数式を解き、複雑な論理展開ができる。納見の複雑さは頭の良さに由来するものだった。 彼の心はどうか? 彼は誰よりも純粋な心の持ち主だった。規模は小さくとも、ノウミ化学薬品会社の社長の息子に生まれ、大事に育てられた彼は、所詮世間知らずのお坊ちゃんだった。美聡は彼の複雑な頭脳だけを見て惑わされていた。心はとてもナイーブな青年であった。

そして、今、ついに、彼のナイーブな心に限界が訪れたのだった。

「詩人納見修作を、この世に刻みつけてやる」

納見は、暗闇で呟いた。

「その夢が実現し始めたと思ったのに。全部嘘だった。騙されたわけじゃない。でも、騙された気がする」

彼は、また呟いた。

納見は、暗闇が一瞬明るくなった時、それが、車のヘッドライトだと認識した。反射的に、車に飛び込もうとした。だが、車が速すぎて、飛び込みそこねた。

「俺は、どこまで間抜けなんだろう」

納見は、自分に嫌気がさした。

彼はぼんやりと、立っていた。彼は、動かなかった。何故なら、どこにも行くところがなかったからだった。


次回三章へ つづく


第三章(フィクション・ポエム)


一.

美聡は、一学期の終業式を終え、真夏の陽ざしを避けるようにして帰宅した。終業式では校長の森原が、「三年生の皆さんにとっては、この夏休みは受験の天王山と言われています」と挨拶をした。美聡は、校長は去年も一昨年も同じことを言っていた。よほど「受験の天王山」が好きなのだろうと思った。体育館に集まった全校生徒の中からも、「毎年同じこと言ってる」「今時、言わないよな」と同じような感想が聞こえてきた。終業式が終わってから、教室に戻った。担任のベテランの女性教師の話を聞いた。

「勉強は大切です。でも、人生にはもっと大切なことがあります。この夏は勉強一色になると思います。でも、友だちのこと、家族のこと、そして、もし良かったら先生のことを一日一回でいいです。思い出してください。そうすると、人生で本当に大切なものは何かを忘れずに二学期を迎えられます。では皆さん、二学期に元気な笑顔で会いましょう!」

そして、彼女は皆に手を振った。

「先生。二学期に笑顔で会いましょう!」

「先生も、元気でね!」

校長と違い、担任は生徒から好かれていた。

正門の前で陽次と別れた。陽次は、帰りにクラスメートのところに寄ると言った。納見は終業式にいなかった。真夏の午前に、公園で「アクション&ポエトリー」を行っているとは思えなかった。美聡は、姿のない納見のことが気になった。


終業式は一時間ほどで終わった。帰宅すると、クリニックは、まだ午前の患者で待合がいっぱいだった。午後に来られる人は、午後からにしたらいいのに、と彼女は陽次と同じことを思った。美聡は、母に用事があったので、待合を通って受付の奥の事務所に向かった。だが、事務所では、母が診察料をパソコンで算定するのに忙殺されていた。だから、彼女は、そのまま渡り廊下を通って裏の自宅に入った。二階の自分の部屋で勉強をしようと机に向かった。でも、すぐ勉強する気になれず、彼女は納見のことを考えた。

終業式を殊更、重視するわけではないけれど、夏休み前に、みんなに会える最後の日なのだから、出て来ればいいのに。ただでさえ、最近、学校を休みがちなのにと美聡は納見を心の中で非難した。でも、心配でもあった。


終業式から、一週間ほど経った七月の終わりだった。陽次は、母の働く無農薬野菜の栽培農園でアルバイトをしていた。昨年と同じく納見の工場で働きたかったのだが、納見のことを考えると、それはできなかった。迷っていたら、母が人手不足だと言ったので、働かせてくれるよう頼んだ。母が働いている農園なのだから、昨年の納見の父の工場以上に、安心して働ける。ただ、子どもの頃から知っている人ばかりなので、恥ずかしくもあった。「陽次君。大きくなったわねえ」「もう高校三年生? 昨日まで小学生じゃなかった?」と働いている人、野菜を買いに来る人のどちらからも言われた。作業をしている人が皆、装備している暑さ対策の装備を陽次も身に着けた。冷却帽子、瞬間冷却タオル、それに、冷却ファン付きウェアーもあった。服に小型の扇風機がついていて服の中に風を送るのだった。陽次は、効果を疑問視していたが、着てみると涼しかった。だが、真夏の陽ざしは、逃げ場のない暑さを容赦なく浴びせた。

彼は、思わず、休憩室に逃げ込んだ。母が振り返り、「水分補給をしなさい」と叫んだ。

陽次は、母の仕事の過酷さを身をもって知った。日頃から、運動公園でランニングをして体を鍛えているが、労働の過酷さは、その比ではないと思った。

「趣味と仕事は違うんだ」

陽次は、休憩室に置いてあるペットボトルのミネラルウォーターを一気に飲んだ。それから、窓から見える夏空を見た。遠い記憶が蘇ってきた。


陽次と美聡と納見の三人が、親しくなったのは、この農園だった。陽次は子どもの頃、よく母の働く農園に連れられて来た。母が働いている間、農園の中で遊んでいると、納見の母が、彼を連れて野菜を買いに来た。そこで、二人は友だちになった。同じように、美聡も祖母に連れられて農園に野菜を買いに来た。彼女の母は当時から、既にクリニックの事務で忙しかった。そして、三人は友だちになった。納見は、子どもの頃から、今と同じく、頭も容姿も良かった。同時に、既に自己顕示欲の強いところもあったが、本質的には優しい人間だった。

「無農薬野菜の敵は虫だ。そんな捉え方をする人がいるかもしれない。でも、虫だって生きているんだ。自分のことを害虫だなんて思って生きている虫はいない。好き勝手して地球を汚している人間が、一番の悪者さ」

小学生の時に、納見が、陽次と美聡に言ったのが、この言葉だった。その頃から、陽次の母は虫に悩まされていた。母は過度に虫を敵視していた。その影響で陽次も虫を敵視していた。だから、納見の言葉に衝撃を受けた。以来、虫を敵視することをやめた。美聡も、納見の話に感心した。

あの頃から、何が変わったのだろうと思う。陽次と美聡は変わっていない。納見は変わった。それは、昨年の秋に詩の賞を受賞した時からだった。

「もうすぐ一年になる」

陽次は呟いた。

呟きの中には、納見を止めなければならない。でなければ、彼はダメになるという危機感が含まれていた。幼なじみの陽次には、納見が危険な状態にあることが分かった。あの日、納見を責めるのではなく、受け入れてやれば良かったという後悔がある。あの日とは、彼が詩集を二冊持って陽次の家を訪れた日のことである。陽次は、納見の両親を慕っている。それだけに、両親の肩ばかり持ってしまったという後悔がある。納見の幼なじみとして、彼の立場にも立って考えるべきだった。

今、美聡は、医学部受験のために勉強に集中している。校長が、終業式でわざわざ「受験の天王山」と言うまでもなく、美聡にとって、この夏休みが勝負だった。これまでのように、彼女が、納見のために使える時間はない。陽次は、納見を助け、同時に、美聡を安心させられるのは、自分しかいないと思った。だが、納見が自身の詩で悩んでいる事実を考えると、彼は無力感に襲われた。何故なら、彼に詩を理解する力はなかったからだ。

もう一度、子どもの頃、納見と美聡と三人で、農園で遊んだことを思い出した。

そんなに昔じゃないのに、遠い昔に思えてしまう。

陽次は、真夏の青空を眺めた。青空は、いつもと違い、空虚な感じがした。


二.

八月も半ば近くになった。納見修作は、久しぶりに家に帰った。理由は、他に居場所がないからだった。友人の家をこれ以上泊まり歩けない。カゲノのスタジオにも、これ以上いられない。家に帰るしかなくなったのだった。ただ、もう一つ重要な目的があって彼は家に帰った。父との和解ではない。納見が帰った時、母則子が彼を迎えた。最初、喜んだ。でも、納見の様子が変だと気づいた。父賢作は、納見が帰ったと知り、早速、話をしようと会社から自宅に帰った。だが、則子に止められた。

「様子が変なのよ」

という則子の言葉を、

「気まずいだけだろう」

と賢作は無視して、納見の部屋に入ろうとした。納見は本棚にある本と押し入れにある本を全て床に放り出していた。必死で本を探しているようだった。二人は、納見に声をかけることができなかった。彼は殺気立っていた。


納見は、自分が白野塊の模倣作しかつくれない詩人だと知った。決定的だったのは、陽次に自分の詩集二冊を読ませ感想を述べさせた時だった。それ以降、自分は偽物の詩人だと思うようになった。加えて、白野塊の盗作詩人だと思うようになった。白野塊の盗作だという疑惑が生じるのは時間の問題だと思った。盗作ではないと言っても、世間は、盗作というセンセーショナリズムを好む。インターネットでも、納見修作は盗作詩人というバッシングと“炎上”が起るだろう。仮に、そうなった場合、納見のとるべき対応は、師の白野塊に頼み、盗作ではないことを白野から直々に発表してもらうことだ。「私の唯一の直弟子だ。盗作と疑われるほど作風が酷似しているのも、それだけ納見修作が、私の強い影響を受けているからだ」。そう白野に釈明してもらえば、世間も納得する。だが、納見は白野に相談に行っていない。彼はプライドが高い。万が一の場合、盗作ではないと証明していただけますかとは相談できなかった。


ただ、まだ事態はそこまで至っていない。納見が今なすべきことは、雑誌のインタビューを受けない。ラジオ番組の出演をやめる。カゲノとのコラボレーションをやめる。詩の創作を中止する。そして、『現代詩世界』の編集部に、「現代詩世界最優秀新人賞」受賞の『バウハウス過日』について、白野塊の影響が極めて強いことを伝える。果たして、受賞作として相応しいのか再考を依頼する。同時に、詩集の出版継続の可否をもう一つの出版社とともに検討してもらう。その後のことは、プロフェッショナルである出版社が判断する。納見は、再び、受験勉強に集中し、大学に合格すること。父の会社を継ぐのかどうか、詩をもう一度つくるのかどうか。それらは、大学に入ってから、ゆっくり考えればいい。もしかしたら、その時、詩をつくれば、白野塊の模倣から自ずと脱しているかもしれないのだから。


でも、彼は、全く違う結論を導き出した。彼の導き出した結論は、白野塊の詩の模倣者から、他の詩人の模倣者になるというものであった。彼は考えた。自分の詩に白野塊の盗作の疑惑の声が上がるのは時間の問題だ。ならば、それまでに、もっと話題性のある詩を発表すればいい。けれども、自分にはそれだけの力のあるオリジナルの詩をつくることはできない。そこで、自分の持つ奇妙な才能を活かす。つまり、模倣の才能を活かす。白野塊よりもっと忘れ去られた詩人の詩を見つけ出す。その詩を白野の詩と同じように模倣し、新たな納見修作の詩として大々的に発表する。上手くいけば、一作目二作目の詩集を忘れさせるほどの話題作となる。そうなれば、白野塊の詩の盗作疑惑が生じることなく、納見の詩は新しい作風に変化したと世間に認知される。大事なのは時間だ。白野塊の詩に納見の詩が酷似していることに気づく人間が現れる前に、新たな詩人の模倣作を発表すること。そのために、今、納見は、自分の部屋の本棚と押し入れにある詩集を片っ端から読んで、忘れ去られた詩人探しをしていた。


彼の結論は、幾つもの誤りを含んでいる。まず嘘に嘘を重ねているだけだ。次に、三作目の詩集を発表しても、それが前二作を超えることなど現実的に考えれば、不可能だとすぐに分かる。更に、納見は、白野塊の詩の模倣は無意識的に行った。対して、今度は、意識的に模倣を行う。出来上がった詩が、どのようなものになろうとも、納見の意識の上では、それは、まさしく盗作である。では何故、彼はこのような誤りの結論を導き出したのか? 理由は、どうしても父の跡を継ぎたくないから。ではなく、彼は華やかな世界で生き続けたいからだった。受賞した当初、彼はこれで会社を継がなくていいと思った。だが、その後、彼は変わった。これから、なすべきことは、全て目立たなくなるための行動である。雑誌に載らない。ラジオに出演しない。カゲノとのコラボもやめる。そして、最終的には、詩集の出版中止と詩人を引退する可能性さえ待ち受けている。彼が恐れる、ネットバッシングを回避するためにはそうするしかない。もっと本質的な問題として、白野塊の詩の模倣作しかつくれない納見修作の苦悩に終止符を打つためにも、そうすべきだ。でも、彼は、生来目立ちたがり屋だった。しかも、受賞後の約一年間、雑誌やラジオといった詩の創作以外の活動で、華やかな世界特有の悦楽を知ってしまった。雑誌の表紙になっている自分を見た時の、心にパッと花が咲いたような喜び。たとえリック柴本から嫌がらせを受けても、ラジオの生放送番組に出演する時の独特の緊張感。これらには代えがたい魅力があった。納見は、華やかな世界特有の空気を吸った。そして、その空気の中毒になった。この空気を吸い続けたい。白野塊以外の詩人の詩を模倣してでも、華やかな世界に残りたい。消えたくない。中毒症状により、納見は狂気じみていた。でも、一見、狂気じみた彼の本質は、「自分をこの世に刻みつける」という青くさいけれど、高邁な理想から、「華やかな世界から消えたくない」という、ひどく凡庸な願望に変質していた。凡庸な願望に変質しただけに、執着心が強くなったと言えるのかもしれない。


納見の部屋のドアを少し開けて、彼の様子を見ていた両親は、そのまま静かにドアを閉めた。

「修作は病気になったのかしら?」

則子の言葉に、

「確かに、様子はおかしい。だが、修作は何かの本を探しているようだ。目的があるんだろう。とにかく、しばらくこのまま様子を見よう」

賢作は、そう答えた。

則子はうなずいた。だが、目的があるにせよ、修作の様子は普通ではない。大きな不安を抱いたまま、彼女はドアを離れた。賢作も、自分で言ったものの、本当に修作に目的などあるのかと疑問を抱いたままドアを離れた。その間、納見は、両親が、ドアの隙間から覗いていたことにも気づかなかった。ドアを閉め、二人が去ったことにも気づかなかった。今、納見の中には、凡庸な願望と執着心しかなかった。


三.

美聡は、これまでの人生で、最も勉強に集中していた。夏休みの間、塾に行く以外は、ずっと自分の部屋で勉強していた。納見が気になり、夏休み前は勉強に集中できなかった時があった。その遅れも取り戻さなければと夏休みに入ってから、勉強に集中した。最初は、焦りもあったが、次第に、勉強以外のことに惑わされなくなった。納見のことも、陽次のことも、忘れている時間が多くなった。クリニックの経営状態も、将来、兄とともにクリニックを継ぐことも忘れ、無心で勉強した。そのうち、一日の間の一定時間、勉強中に、勉強以外のことが頭に浮かぶようになった。彼女の集中力が高くなっている証拠だった。亡くなった祖父のことを考える時もあった。亡くなった祖母のことを考えることもあった。祖母は祖父より早く病気で亡くなった。祖母に連れられて、陽次の母が働く無農薬野菜の栽培農園に野菜を買いに行ったことを思い出した。まだ小学生の頃だった。

「無農薬野菜の敵は虫だ。そんな捉え方をする人がいるかもしれない。でも、虫だって生きているんだ。自分のことを害虫だなんて思って生きている虫はいない。好き勝手して地球を汚している人間が、一番の悪者さ」

あの時の納見の言葉を今でも覚えている。美聡は、とても感動したことを覚えている。あの頃は、楽しかったなと彼女は思った。幸せだったかどうかは分からない。今も幸せなのかは分からない。誰もが、自分のことを羨むが、美聡自身は、責任感だけで生きている。そこに幸せを感じる余裕はない。あの頃も、既にそうだった。納見と陽次は、白野塊の工房に遊びに行けた。でも、自分は塾へ行かなければならかった。その時も、将来、父の跡を継ぐためという責任感で塾に行っていた。嫌だと逃げる余地はなかった。二人が羨ましかった。そこまで考えて、ふと白野塊の『心臓モッキンバード』の詩が頭に浮かんだ。彼女は数式を解いていた。だが、同時思考が成り立っていた。数式を解きながら、『心臓モッキンバード』の詩を思い出していた。万華鏡を覗いた光景だけでなく、万華鏡そのものの描写までが克明になされた不思議な詩だった。微細に描写される詩を初めて読んだ時、美聡は、空しい気持ちになった。後に、白野塊にそのことを伝えると、「生きることは空しさとのたたかいだからね」と笑顔で言った。

美聡は、白野塊に魅了された。彼の詩集も全部持っている。


そこで、もう一つのことが頭に浮かんだ。納見修作の『バウハウス過日』だった。白野塊の模倣作とは一体どういうことだろう。彼女は、数式を解く手を止めた。本棚から白野塊の詩集と納見修作の詩集を取り出した。それぞれの詩集の『心臓モッキンバード』と『バウハウス過日』のページを開いた。並べて比較した。納見の作風は、白野の作風に極めて似ている。子弟なのだから当然だ。詩の深み、スケールの大きさともに圧倒的に白野の作品のほうが上だ。実際、並べて比較すると、納見の作品は、白野の作品の足元にも及ばなかった。それでも、高校生でこれだけの詩をつくれるのは凄いと美聡は思った。肝心の模倣の検討に入った。読んでいるだけでは分からない。そこで、美聡はそれぞれの詩を朗読した。

美聡は、重要なことに気づいた。なるほどと思った。白野塊は、納見に対して、模倣作と言った。だが、彼女は、納見の詩は、半分は盗作、半分は納見の自作で完成されていると考えた。彼女は、詩を歌に例えて考えた。白野塊の作曲したメロディーに納見が作詞した言葉を乗せている。それが、納見修作の詩だと思った。全ての詩のメロディーは予め白野塊が過去に作曲したメロディーなのだ。詩の構成、韻律、詩が持つ世界、ムードなど、それらがメロディーに該当する。その上に乗っている白野塊の歌詞を取り払う。そこに、納見が新たにつくった歌詞を乗せる。それが、納見修作の詩だった。現代詩の大家白野塊が作曲したメロディーに歌詞を乗せる。作曲の作業を省くことができ、超一流の作曲家のメロディーが使える。楽である上に、常に優位性―アドバンテージがある。この行為を法律で罰することはできないだろう。目に見える言葉を盗用したわけではないからだ。本当の楽曲ならメロディーの盗用も成立するが、納見の行為は、可視化できない。美聡は考えた。故意にやったわけではないだろう。子どもの頃から、白野塊直々に手ほどき受ける中で、知らぬ間に身についたのだろう。彼は、たとえ、法律で罰せられないとしても、故意に、白野塊の“メロディー”を使うことはない。何故なら、彼は人一倍プライドが高い。倫理観以上に、彼のプライドがそれを許さない。美聡は、倫理観よりも納見の人間性の本質に答えを求めた。一般的に考えて、プライドは倫理観を包含している―あんな卑怯なことをするのは、私のプライドが許さない等。彼の人一倍高いプライドは、強い倫理観も包含していると彼女は考えた。これまでの納見を見てきた美聡の妥当な判断だった。

但し、それは、これまでの納見の話であった。


美聡は知らない。納見は、もうプライドも捨てた。彼は、今、故意に誰かのメロディーに歌詞を乗せようとしている。彼は、美聡が思っているよりも、ずっと速い速度で堕落している。彼の好む華やかな世界には、人を堕落させる空気がある。納見は空気の中毒になった。彼はその世界の永遠の住人になりたいとさえ思っている。彼は、虚構―フィクション―に魅入られたのだ。そのために、彼は更に問題のある手段で問題のある詩をつくろうとしている。そして、これこそが、「フィクション・ポエム」なのである。虚構の世界に魅入られ、その世界の永遠の住人になりたいと願うあまり、彼は、禁忌を犯す。その結果、生み出される詩こそが、「フィクション・ポエム」なのだ。納見は、一年前の秋、現代詩で最高の権威のある「現代詩世界最優秀新人賞」を受賞した。それから、わずか一年で、虚構の詩―フィクション・ポエム―を生み出そうとしている。もし、美聡に詩がつくれても、彼女には、「フィクション・ポエム」はつくれない。同じく陽次にも、「フィクション・ポエム」はつくれない。「フィクション・ポエム」は、虚構の世界に魅了された人間だけがつくれる。だから、納見修作にしかつくれない。そして、それはとても不幸なことなのであった。


四.

友人の家やカゲノのスタジオを泊まり歩くのをやめ自宅に帰った納見は、自分の部屋の本棚と押し入れにある本を全て調べた。そして、彼は、一冊の色褪せた本を見つけた。『二十世紀を彩る現代の詩人』という本だった。古書店で買ったらしい。だが、いつ買ったか全く覚えていない。十人の詩人の詩が掲載されている。納見は、一人も知らなかった。実際、無名の詩人ばかりだった。インターネットで検索しても、極めて情報は少なかった。納見は、何人かの詩を読んだ。良し悪しではなく、自分が利用できるかどうかを見た。

「良いのが無いな。時代性を感じさせる現代詩ばかりだ。これを、今の僕がつくったとしたら、不自然になる」

納見の意識は、完全に“盗作”の意識だった。

彼は、白野塊の模倣作を無意識的にでもつくった人間だ。いざ意識的に模倣作をつくろうと思った時、その方法を体が覚えていることに気づいた。美聡のように分析しなくても、直感で分かった。

「これはいい」

納見は一人の詩人の詩を選んだ。我別白亜という名の詩人だった。名前の読み方が載っていなかった。「がべつはくあ」か「わべつはくあ」か迷った。どちらも違う気がしたが、便宜上「わべつはくあ」と彼は読んだ。インターネットで検索してもなかった。だから、正しい読み方は分からなかった。「わべつはくあ」の詩は、白野塊の詩とは全く違った。まずボリュームが少ない。難解ではあるが、白野の詩にある強い虚無感はない。漂うような虚無感だ。これが、当時の時代性かもしれなかった。でも、許容範囲だと思った。許容範囲とは納見が“盗作”する際の利用可能性のことだった。彼は、これは楽に使えると思った。本には十編の詩が掲載されている。それを全て利用する。同時に、インターネットの古書検索で、「わべつはくあ」の詩集を探す。必ずある。ボロボロの状態の本かもしれないが、根気よく探せばある。納見の経験だった。彼は外国の詩集や古典文学をこれまでにインターネットで検索し見つけてきた。状態の悪いものもあれば、新品同様のものも見つけた。だから、粘り強く探せば必ず見つかる。「わべつはくあ」も、無名ではあるが、『二十世紀を彩る現代の詩人』という本にまで選ばれた詩人である。彼の詩集及び彼の詩の掲載された書籍が必ずある。彼が、このようなことをする理由は、「フィクション・ポエム」をつくるためにできるだけ多くのストックが必要だからだった。ストックが無くなったら、次の詩人を探す。この繰り返しで彼は詩の“創作”を続けると決めたのだった。


早速、「わべつはくあ」の詩を解体した。美聡の分析に従えば、メロディーと歌詞に分解した。その後、メロディーに納見がつくった歌詞を乗せた。すぐに出来た。朗読してみた。これはいいと思った。白野の詩のような重厚さはないが、いかにも青年がつくったような軽快さがあった。

「よし。これでいこう」

納見は、残りの九編の詩を分解し、メロディーに歌詞を乗せていった。

納見は、活き活きとしていた。

何故なら、これで、まだしばらくの間、華やかな世界の住人でいられるからだった。

そのために、“盗作”という禁忌まで犯している。

彼は、自分の変化に気づいていない。彼は詩を創作する時、常に苦痛を伴った。楽しいと思ったことはなかった。白野塊に出会ったことを後悔したことが何度もあった。白野塊に出会わなければ、詩をつくることなどなかった。もっと楽に生きられたのではないだろうか? でも、初めて白野に詩をつくらせてもらったあの日から、もう戻れなくなった。創作せずにいられないから創作している。詩をつくる時、納見は常に葛藤に襲われた。だが、今、「わべつはくあ」の詩を模倣、否、盗作している納見に葛藤はない。子ども用の簡単なパズルを組み立てている感覚だった。ピースの少ない簡単なパズルである。悩む必要もないけれど、大人には、簡単すぎて面白くもない。かつての納見なら、詩の創作が、これほど簡単なものだったら、張り合いのなさにすぐにやめていただろう。彼は葛藤の中にこそ創作の喜びを感じていたのだから。それが今、何の張り合いもない作業―しかも、盗作―を嬉々として行っている。彼は愛していた詩を捨てたのだ。華やかな世界、つまり、虚構の世界の住人でいるために、「フィクション・ポエム」を選んだのだった。


十篇の詩が苦もなく完成した。

納見は、呟いた。

「いよいよ朗読会だ。僕の新作詩の発表に相応しい会がある」

彼は、既に新しい詩の発表についての計画が出来ていた。

彼は、朗読会当日の自分の姿を思い描いた。

「僕には栄光しか見えない」

納見は、確信を持ってそう言った。だが、彼は間違っていた。彼は、栄光しか見えないのではなくて、栄光しか見ないようにしているのだった。都合の悪い現実から目を背け、虚構の世界しか見ないようになっている証だった。彼は「フィクション・ポエム」をつくるに相応しい詩人になりつつあった。


第四章(チャールズ・チャップリン)


一.

八月も終わりが近づいた日曜日の午後、納見は、あるビルの前に立っていた。彼は、A高校の校章が左胸のポケットに刺繍された白の半袖シャツに学生ズボン姿だった。彼が見上げるビルは現代詩世界社ビルだった。早朝の電車に乗ってここまで来た。昨年の秋、「現代詩世界最優秀新人賞」受賞以来、約一年ぶりだった。授賞式は故意に休んで、教頭の尾高を困らせた。悪戯だった。その後、『現代詩世界』のインタビューがあり、一度だけ、このビルを訪れた。あの時の晴れやかな気持ちがふと納見の頭をよぎった。だが、過去のことだ。そのことは、もういい。彼は、過去の記憶をふり払った。彼が今日、このビルを訪れたのは、未来の栄光をつかむためだった。現代詩世界社ビルの一室で、定期的に詩の朗読会が行われている。プロの詩人と愛好家の朗読会であり、あくまでも趣味の集まりだった。とはいえ、主催者が、「現代詩世界賞」の選考委員長である大宗青一である。納見を最優秀新人賞に選んだ選考委員長だ。自ずと集まる人も限られてくる。同じく選考委員の小巻遼子もいる。それ以外にも詩人が参加している。愛好家もかなり現代詩に造詣の深い人たちである。納見は、新たに“創作”した詩を試すためにこの朗読会を選んだ。ハードルは高いほうがいいと考えてのことだ。

納見は、授賞式の時のことを覚えている。あの時、納見は、燕尾服のように見える背広を着ていた。上着が絞ってあって、ズボンが極端に太かった。チャールズ・チャップリンの衣装のようにも見えた。彼なりの賞への敬意とユーモアの気持ちを込めた衣装だった。だが、ひんしゅくを買った。前衛的な現代詩をつくるからといって、その詩人が、進歩的な人間であるとは限らない。むしろ、保守的な人間が多い。納見が授賞式で学んだことだった。白野塊のような常識的な人間を阻害する世界であることを、身をもって知った。だから、今日の朗読会は学生服で参加する。不本意だが、服装によって参加者に先入観を与えないため、そうした。

ビルの受付で、彼は名前を名乗った。

受付の女は、以前に訪れた時と同じ女だった。納見のことを覚えていた。

「納見さんですね。あの時の衣装は素敵でした。今日は学生服なんですね」

彼女は残念そうだった。彼女には、チャップリン衣装は好評だった。納見は嬉しく思った。彼女が普通なのだと思った。

「もし、この二名が訪れたら、会議室に案内してもらえますか?」

納見は、メモを渡した。

「承知いたしました。では三階の会議室へ。どうぞ。皆様、もうお集まりです」


納見は、エレベーターを使わず階段を上った。受付の女に渡したメモには、陽次と美聡の名前が書いてあった。朗読会に参加することをメールで知らせた。遠い街にあるこのビルまで来るのには時間がかかる。だから、無理だろうと思ったが一応知らせておいた。二人には、自分の新たな栄光の始まりを見て欲しいと思った。カゲノにも知らせようかと思ったが、彼は忙しいので、また、今度会った時にでも話そうと思った。リック柴本には、知らせるつもりはなかった。だが、少し迷った。何故、迷ったのか自分でも意外だった。全く嫌いというわけでもないらしい。納見は、人の心は不思議だと思った。彼は、そんなことを考えながら、三階の会議室の前に来た。納見の授賞式が行われた会議室の隣の小さな会議室だった。この室で、彼はインタビューを受けた。また、あの時の晴れやか気持ちが頭をよぎった。彼は、もう一度、記憶をふり払って、ドアをノックした。『過去はどうでもいい。未来の栄光をつかむのだ』。納見は自分にそう言い聞かせて、会議室の中に入っていった。


二.

三階の会議室に入ると、現代詩の重鎮大宗青一がいた。現代詩の“サガン”と呼ばれる小巻遼子もいた。納見は、二人を見て、懐かしさより、緊張感を覚えた。「フィクション・ポエム」が果たして彼らに通用するか? もっと、露骨に言えば、「わべつはくあ」の詩の盗作がバレずにクリアできるか? それを試しに来たことが、二人を見て実感されたからだった。他にも詩人がいた。奈良本純、紀美野美歌、二人は若手の実力派詩人だった。更に、一般の愛好家もいた。全部で二十人ほどだった。納見が予想していたより、多い人数だった。会議用テーブルと、その周りに椅子を置いて皆が座っていた。これは、「フィクション・ポエム」の実験なのだから、参加者は多いほうがいい。納見はそう思った。ドアをノックする音がした。振り返ると、陽次と美聡だった。二人も、納見と同じく高校の制服を着ていた。

「納見。メールありがとう。朗読会に間に合ったようだな」

「納見君。久しぶり。元気そうで良かった。新しい詩ができたってメールが届いたから、じっとしていられなくて」

陽次と美聡は言った。終業式を休んだ納見と、美聡が再会するのは、二ヶ月ぶり近かった。美聡は彼を見て、何故か、悲しくなった。

「二人とも遠いところまで、来てくれてありがとう。今日は新しい僕を見てもらえるはずだ。ところで、君たちも学校の制服を着てきたの?」

納見は自分と同じ学生服姿の二人に尋ねた。

「詩壇って何だから保守的な感じがしたから。だって、先生を黙殺しているところでしょ?」

「だから、二人で相談して」

美聡と陽次は声をひそめていった。

「さすが僕の幼なじみだね。だが、詩壇の保守性も、僕の今日の詩で一変するかもしれないよ。僕はこれまでの僕じゃないからね」

納見は、笑顔を見せた。

彼の笑顔を見て、美聡と陽次は、疑問を抱いた。納見は、苦悩していた。ラジオやコラボに逃げていたのも、白野塊の模倣作しかつくれない苦悩から逃げるためだった。それが、今日の納見を見ると自信に溢れている。それも不自然なほどだ。彼の自信の根拠は何なのか? 陽次と美聡は疑問に思った。白野塊の模倣作から脱したのならそれはいいことだ。だとすると、ある日、突然、脱したのか? 無いことではない。でも、自信過多ではないか? 二人にはその理由が分からなかった。彼の詩の朗読によって判断しようと思った。

「おい。そこの三人さん。何を立ち話している? おや? 君は納見修作君じゃないか」

大宗青一が納見に気づいた。

「あら。ちょうど一年前だったわね。その後もご活躍のようね。少々メディアに露出過多のような気がするけど」

小巻遼子も納見に気づいた。

「ほう。彼が納見修作君か」

「高校生とは思えない詩をつくると評判の詩人ね」

奈良本純、紀美野美歌も納見に注目した。

納見は、人から注目されると気分が高揚する。特にこういうシチュエーションは好きだった。

何故なら、自分が主人公だからだった。

彼は思った。

『僕が主人公でいられるこの状況をわずか一年で終わらせないために、僕は、盗作までしたんだ。僕はずっと主人公でいたい。受賞以来、もてはやされる悦楽の日々を永遠のものにするために、僕は、盗作までしたんだ。もはや詩なんてどうでもいい。陽の当たる世界の永住権が欲しいんだ』

大宗青一を始め、プロフェッショナルの詩人たちと対峙する彼は、権威ある賞を受賞した秀才高校生とは思えない幼稚なことを考えていた。「フィクション・ポエム」に魅了された人たちは、思考が単純化されていく。平たく言えば、徐々に馬鹿になっていくのだ。彼の思考も以前の彼より遥かに単純化されてしまった。彼は、単純化されただけ、迷いや不安を抱かなくなった。結果、彼は、根拠のない自信を抱いて朗読会の開始を待ち望んでいたのだった。


三.

紀美野美歌が自作の詩を朗読するため、立ち上がった。

納見は、会議用テーブルに着席した。彼は事前に参加申し込みをしていた。それを大宗青一が忘れていたのだ。大宗青一が選考委員長を務めた賞の受賞詩人であることから、彼は、大宗青一の隣に着席した。陽次と美聡は、納見の後ろの椅子に着席した。周りは詩の愛好家だった。年齢層は高かった。男女比は同数ぐらいだった。

「高校生で現代詩に関心があるとは今時、貴重な若者だ」

陽次が、隣の年配の男に褒められた。

「いえ、僕は全く詩が分からないんです」

と陽次は言おうと思ったが、やめておいた。

美聡も、高齢の女から、

「現代詩に興味があるなんて、偉いわね」

と褒められた。

美聡は、好きな詩人の名前を挙げて、女と少し話をした。彼女は喜んだ。美聡は、一番好きな詩人の白野塊の名前は挙げないようにした。

納見は、目の前に立つ紀美野美歌をじっと見ていた。紀美野美歌は若い。二十歳を少し過ぎたぐらいだ。大学を卒業したばかりだと詩の雑誌で読んだ記憶がある。どんな詩を朗読をするのか関心があった。それと、奇抜なファッションが気になった。ファッションショーで着るような服を着ていた。白の生地にプラスチックの丸い球が沢山ぶら下がっている細身のドレスだった。納見は、プラスチックの球を見て、ガチャガチャのカプセルを流用した気がした。小巻遼子も奇抜な服装だった。アマガエルのような黄緑色のワンピースに迷彩柄のベレー帽を被っていた。大宗青一と奈良本純は地味な背広とブレザー姿だった。納見は、四人を比較して疑問を持った。現代詩の女性詩人は、奇抜でなければならないのではないかと。同時に、男の詩人は地味でなければならないのではないかと。だとすれば、女性詩人の奇抜さも、実は、現代詩壇の不文律に従っているのではないのか? 「男は地味でなければならない。女は奇抜でなければならない」。ならば、やはり、かなり保守的な世界だと思った。だが、彼は実際に多くの現代詩人を知らない。だから、結論を出すことは保留にした。同時に、そんなことを考えている余裕のある自分に彼は気づいた。だが、彼は、自分が不安を抱いていないことには気づかなかった。


「では始めます。題は『既視感とペシミズムの上手な作り方』です」と紀美野美歌が、詩の題を読んだ。

納見は、何となくチャーミングな詩の朗読になる気がした。美聡も、陽次も同じだった。大宗青一も奈良本純も、愛好家も同じだった。だが違った。紀美野美歌が手に持った赤い創作ノートに書かれた詩をうたい始めると、納見も、その他のものも、あまりにも理解できない詩に、仰天した。詩の朗読は、延々十分以上続いた。その間、皆、あ然としていた。大宗青一などは、ぼう然としていた。世代間ギャップと受け止めるべきか、紀美野美歌の詩が、あまりにも凄まじいのか、判断がつかないようだった。

若い納見ですら、理解できないのだから、それだけ、紀美野美歌の詩が凄まじいということだった。納見は、オリジナルでこれほど凄まじい詩がつくれる紀美野美歌を内心羨ましいと思った。だが、彼は、もうそんなことはどうでもよかった。彼にとって、大事なことは、「わべつはくあ」の詩の“盗作”が、プロフェッショナルの詩人たちをも騙せるか。「フィクション・ポエム」の実験は成功するか、だったからだ。つまり、華やかな世界の永住権を手に入れられるかどうかが彼の今日の朗読会参加の目的だった。だから、紀美野美歌の詩がどれだけ凄まじかろうと彼には関係のないことだった。


「ご清聴ありがとうございました」

紀美野美歌が頭を下げると、ドレスについているプラスチックの球が、揺れてカチャカチャと音を立てた。

しんと静まり返った会議室に、そのカチャカチャという音が響いた。

大宗青一が何か言おうとしたが、言葉が出なかった。代わりに、小巻遼子が、

「凄い進化ね。一瞬間に宇宙旅行をしたような感想を持ちました」

と言った。

「ありがとうございます。小巻先生から、過分なお褒めの言葉を頂き恐縮です」

紀美野美歌は深々と頭を下げた。

ようやく、大宗青一が、

「今時の若い人にしては、大変礼儀正しいです。結構なことです」

と言った。誌の批評はできないようだった。

会議室にいる皆が、大宗青一を気の毒に思い、同時に、気まずい感じにならざるを得なかった。

「よし。次は僕だな!」

その気まずさを吹き飛ばしたのは、奈良本純だった。

奈良本純は、席から立ち上がった。

「では、朗読を始めます!」

奈良本純は、常に元気だった。元気さに、嘘臭いものを含んでいる印象を与える人物だった。


四.

三十代半ばの奈良本純は小さな劇団を主宰している。熱心な支持者がいる。彼は戯曲も書いている。演出もしている。その傍ら、詩の創作もする。詩集も発表している。世間の注目を集めている。元気である理由が分かる。今、ノリにノッテいるのである。だが、納見は、奈良本純について、ほとんど知らなかった。


一つの思い出しかない。昨年の秋だった。納見は、受賞してすぐリック柴本のラジオ番組に出演するようになった。ラジオ局に初めて入った時、出番が来るまで休憩室にいるよう指示された。休憩室から、ガラス越しにスタジオの中が見えた。リック柴本が笑顔で喋る姿も見えた。声は聞こえなかった。リスナーに語りかけているのだと分かっていても、一人で笑いながら喋る姿は奇妙に見えた。同時に、どこか痛々しくも感じた。休憩室の窓の外には夜の街の灯りが見えた。休憩室のテーブルには雑誌が置かれていた。高級女性ファッション誌、クロスワードパズル誌、週刊少年漫画誌、大衆週刊誌と統一性の無いセレクトだった。読むものがないので、一緒に置いてあったタウン誌を手に取った。ページを開けると、ラジオ局のある街の飲食店、ヘアサロン、接骨院などが最初のページから最後までびっしりと掲載されていた。興味が湧かないので、もう一冊のタウン誌を手に取った。薄い冊子だった。開くと、「ピアッシング・バッファロー」という文字と顔中にピアスをした水牛のイラストが載っていた。ピアッシング専門店の広告だった。ボディピアスの専門店でかなり際どいピアッシングをする店のようだった。納見は、この街ぐらいの大きさになるとこういう店もあるんだなと思った。施術後の実例写真があった。グロテスクなのですぐ次のページに移った。次は、タトゥーの専門店だった。モヒカン刈りの男の頭部にカメレオンのタトゥーが入った写真があった。納見は、このタウン誌はパンクロック・ファッションがエスカレートした人たちが読者層なのか? そんなコアな読者層があるのだろうかと思った。次のページからは、中古レコード店、中古オーディオ店、革ジャン中心の古着屋と穏やかになった。最後のページに、「リック柴本のロックンロール・エアポケット」の宣伝広告があった。納見は、ラジオ局にこのタウン誌がある理由が分かった。ひたすら店の紹介が載っているだけのタウン誌と違って、これは趣味性の強いタウン誌で面白いと思った。冊子を閉じると、背表紙に、劇団の公演案内が載っていた。『劇団・葉脈 秋公演』とあった。葉脈が微細に描かれたイラストが印象的だった。タウン誌の傾向からも、アンダーグラウンドな劇団だと分かった。主宰奈良本純とあった。ラジオ局に出入りし始めた頃の思い出だった。


納見は記憶力が良いため、初めてラジオ局に行った日の光景を細かく覚えていた。光景の一つとして、タウン誌に載っていた奈良本純の名を覚えていた。それだけだった。覚えているほうが珍しかった。

後ろに座っている美聡が、陽次に説明している声が聞こえた。

「葉脈っていう劇団で凄い人気なんだって。チケットも即完売。前衛劇で異例らしい」

「詩も創作するんだ。多才な人なんだね」

納見も振り返って、

「詩のほうも、前衛的なものなのかな?」

と美聡に尋ねた。

「そうだと思う。アバンギャルドな路線の人だって」

美聡の答えを聞き、納見は思った。

人を見かけで判断してはいけないが、奈良本純はアバンギャルドな感じではないなと思った。それに、ラジオ局で見たタウン誌の劇団広告のアンダーグラウンドな雰囲気もないと思った。ただ、外見で判断してはいけない。これからの詩の朗読で判断しようと考えた。納見は、会議用テーブルから離れて一人立った奈良本純を見た。今まさに朗読を始めるところだった。


五.

「では、私、奈良本純が朗読を始めます。『フォークナー狂気、痙攣』」

奈良本純は、朗読を始めた。演劇人だけあって声が良かった。だが、詩の朗読を始めてすぐ、これは似非アバンギャルドだと納見は気づいた。奈良本純はそのことに気づいていない。自らをアバンギャルドだと思っている。何を以てアバンギャルドか否かを決めるのは難しいが、奈良本純は違う。そのことに、皆、気づいた。陽次が小さな声で美聡に、「勘違いしている」と囁いた。小さな声だったが、奈良本純以外の全員の耳に入った。皆、どきりとした。美聡は頬が紅潮した。

大宗青一も、人気があるというだけで、詳しく調べもせず参加を認めたことを後悔した。

小巻遼子は、知らん顔をした。

奈良本純は、聴衆の反応など気にせず、

「ホルマリン漬けになった人工知能、ホルマリン漬けになった人工耳殻」

という一節を連呼していた。

「何のことだろう?」

陽次は小声で話しているのだが、何故か、奈良本純以外の全員に聞こえてしまう。

「静かに!」

美聡が言った。

納見は振り返って、

「僕にも何のことだか分からない」

と陽次に答えた。

皆、聞こえないふりをした。


「フォークナー。銀色に輝く耳殻を遮る!」

奈良本純は、右手を高らかに上げた。終了のサインだった。

納見は、『劇団・葉脈』もこれと同じだろう。今、何故、人気があるか分からないけれど、すぐに終わる。よくあるパターンだと思った。自分自身が、華やかな世界の永住権が欲しいとあがいていることを忘れ、クールに判断した。他の参加者も、納見と同じことを考えた。

大宗青一は会の主催者として、必死で美辞麗句を並べて、奈良本純を褒めた。

「アバンギャルドでありながら、決して、分かりにくさに陥らず、ポピュラリティも持たせつつ、広い聴衆の獲得に努めておられることが分かりました。演劇も同じ努力をされているのでしょう。大変な人気とのことです。素晴らしい。異端的な面も感じました」

現代詩の重鎮大宗青一からこれほど褒められるとは思っていなかったのだろう。奈良本純は感激した。

「大宗青一先生から、それほどのお言葉が頂けるとは、朗読会に参加して良かったです」

素直に感激する奈良本純を見て、大宗青一は彼を安易に参加させたことを申し訳なく感じた。

大宗青一の評価は、

「アバンギャルドに思えるけれど、分かりやすくて、一般的に受け入れられる。つまり、特に前衛ということでもない。前衛であったとすれば、かえって異端になる」

ということだった。

本当は褒めているわけではなかった。


納見修作は、奈良本純がいてくれて良かったと思った。紀美野美歌の詩は、抜きん出ていた。奈良本純がいなければ、納見は、紀美野美歌のすぐ後に朗読をしなければならなかった。彼女の後は厳しかった。紀美野美歌の余韻が残っている会議室の空気の中で、納見の「フィクション・ポエム」の実験をしたのでは、正確な評価が得られなかっただろう。奈良本純が間にいてくれたおかげで、空気がリセットされた。奈良本純は、実験前の中和剤として大変有意義な存在だった。

『人を見かけで判断することは、かなりの場合、有効なようだ』

納見は、自分の朗読の準備を始めた。

カバンから創作ノートを取り出した。「フィクション・ポエム」十篇が収まった新しいノートだった。

納見は、ノートを手に席を離れた。会議室の廊下側の壁を背にして立った。

「納見修作です。私の新作の詩の朗読を始めます。よろしくお願いします」

納見は、ゆっくりと朗読を始めた。演劇人の奈良本純よりも、よく通る声が廊下まで響いた。


次回第五章へ つづく


第五章(ラストワルツ)


一.

納見修作は、会議室の廊下側の壁を背にして新作詩『BCパセティック白夜』を朗読した。詩を朗読しながら、納見は、彼の朗読を聞く皆の反応を見た。かなりいい反応だ。だが、酷かった奈良本純の詩の後だから、評価が高い傾向にある。もう少し様子を見よう。納見は冷静だった。左手に持つ創作ノートは新しかった。前のノートは創作の労苦のため、ボロボロに傷んでいた。だが、今のノートは新しいとはいえ何の傷みもない。「わべつはくあ」の詩の“盗作”が、いかに簡単だったかを物語っている。納見が朗読を終えた。


「受賞して一年で、もう新しい挑戦をしている。素晴らしい。詩も以前より、君に相応しい若さを感じる。是非、他の作品の朗読もお願いしたいんだが」

大宗青一は、奈良本純を招いた自身の失敗を、納見の新作詩によって消し去ろうと必死だった。実際、納見の詩は、皆に好評だった。

「これだけ大胆に作風を変化させるとは見事のひと言」

小巻遼子が納見に微笑んだ。彼女が笑顔を見せる時、それは最大の評価だと言われている。

白髪頭の男は、

「さすが、現代詩世界最優秀新人賞を受賞しただけはある。巧さがある。彼は早熟なんだな」

と評した。

妻らしき女も、

「この人の言う通りです。若いのに、技巧を知っている。もちろん、技巧に走り過ぎてはいけないことを助言しますよ」

と好意的なアドバイスまでした。

紀美野美歌は、

「どこかノスタルジックな感じがいいです」

と言った。

納見は、ノスタルジックという言葉に、どきりとした。紀美野美歌は、「わべつはくあ」の詩の時代性を感じ取っている。重要なポイントだ。今後の参考にしようと思った。

美聡は、たとえ白野塊の『心臓モッキンバード』の模倣作であったとしても、『バウハウス過日』のほうがいいと思った。白野塊と納見修作は、同じ資質を持っている。重苦しいほどの論理性だった。だから、『バウハウス過日』には、納見自身も表現されている。だが、『BCペシミスティック白夜』は軽いと思った。納見が、表現されていない。美聡は、疑問を持った。納見の詩なのに、納見が表現されていない? 模倣作の『バウハウス過日』にさえ、納見が表現されているのに。どういうことだろうと思った。

「僕は、詩は分からないけど、前のほうが良かったと思う」

陽次が話しかけてきた。

美聡は、『桐原君も、やっぱり、同じ感想だ』と思った。口には出さないでおいた。


「では次に、『閃光ソラリス1960』の朗読を始めます」

納見は、冷静だった。だが、制服の半袖シャツの下は汗をかいていた。緊張していた。今、この瞬間に未来の栄光を手に入れられるかどうかが決まるからだった。手にも汗をかいていた。創作ノートが汗で湿っていた。納見は、二作目の詩の朗読を始めた。


出版社が休みの日曜日の今日、現代詩世界社ビルには、もう来訪者はないはずだった。詩の朗読会の参加者だけが来訪予定者だった。全員、予定通り参加している。でも、これから、ある人物がビルを訪れる。

その人物は、このビルと長く疎遠であり、もう二度と訪れることはないと自身でも思っていた。だが、納見修作が朗読会に参加していると知り、現代詩世界社ビルを訪れることにした。

孤高の詩人白野塊であった。


二.

現代詩世界社ビルの一階のフロアーには、納見を案内したのと同じ受付の女が一人でいた。他には誰もいない。出版社が休みの日曜日の午後に来客はない。平日は人の出入りが多いので、夏の外気がフロアーに入り、生暖かい空気が漂う。だが、人の出入りの無い日曜日のフロアーの空気は冷房が効きすぎて寒い。朗読会の参加者が会議室に訪れて以降、誰も来ない。彼女は、カーディガンを羽織って受付にいた。少しよそごとを考えていたら、突然、声をかけられた。

「すみません。今日、詩の朗読会が開催されていると思うんですが?」

驚いて来客を見ると大きな男だった。清潔な白のポロシャツを着ていた。髪の毛は白髪交じりで短い。

彼女は、現代詩世界社ビルの受付をしているからといって詩に詳しくはない。でも、彼女は、男の顔を見て、すぐに誰かが分かった。

「白野塊先生ですよね。私、先生の詩のファンです」

彼女は言った。

白野は、詩壇で黙殺されていても、ファンが多い。こういうことがよくある。それがよけいに、詩の世界の反発を買う。

「ありがとうございます。そう言っていただけると創作の励みになります。ところで、朗読会はまだ続いていますか?」

「はい。私が、ご案内します」

彼女は言ったが、白野は断って、一人で三階の会議室に向かった。彼は、かつて、このビルに頻繁に出入りをしていた。案内の必要はなかった。


白野塊は、美聡から、メールをもらった。

美聡が納見から朗読会の招待メールを送られた後、白野にも知らせるため送った。

「納見君が、詩の朗読会で新作の詩を発表するそうです。場所は~」

白野塊は、現代詩世界社ビルの文字をメールで見た。とても行けないと思った。行っても、向こうが入れてくれないだろうと思った。だが、しばらく考えて、白野塊は行こうと思った。

白野塊は、納見修作の師として果たさねばならない役目があると思った。

直弟子の納見修作が苦しんでいる。苦しみを長引かせているのは、師である自分が、彼に本当のことを言わなかったからだ。「君に詩の才能はない。諦めろ」。残酷だが、このひと言を言わなければならなかった。自分は逃げた。今からでも遅くはない。白野塊は、詩人納見修作を終わらせるためビルを訪れたのだった。


静かに階段を上った。歳月を感じた。白野は、自分がこの階段を最後に上ったのはいつだっただろうかと思った。三階まで上ると廊下を歩いた。当時のままのリノリウムの床は色褪せている。張り替えればいいのに。金が無いのだろうか。そんなことを考えた。納見の声が聞こえてくる。白野は緊張した。彼は声が聞こえる会議室に向かった。『私がこのまま会議室に入っていく。そして、納見修作は私の直弟子だと明らかにする。彼は詩壇から黙殺される。私と違い、一度、賞を受賞しただけの高校生詩人の納見の場合、黙殺が抹殺になる。彼は詩人として終わる』。白野は随分乱暴なやり方を考えていた。白野は自責の念に駆られていた。彼は納見の出演するラジオ番組を聴くたびに、納見が墜ちていくことへの危機を感じた。自分が一年前に、はっきりと納見に詩を諦めろと言っていたらと、その度に後悔した。白野は会議室のドアノブに右手をかけた。

『このまま、会議室に入る。そして、詩人納見修作を終わりにする』

白野が、ドアノブを捻ろうとした。その時、納見の新しい詩が、言葉まで分かるほどはっきりと聞こえた。

聞こえてくる詩は、白野塊の模倣作ではなかった。白野はとっさにドアノブから手を離した。声のする会議室の壁のほうに近づいた。

「納見君は、オリジナルの詩がつくれるようになったのか?」

白野は呟いた。

悪くない。だが、突然、私の模倣作を脱した上に、これだけのクオリティの詩がつくれるだろうか? 白野は、日曜日の誰もいないビルの廊下で、じっと壁の向こうから聞こえてくる詩に耳を傾けた。白野は、会議室への“突入”を中断し、朗々とうたわれる納見の詩に集中した。白野は、何かを感じ取っていた。


三.

『閃光ソラリス1960』の朗読が終わった。

納見は注意深く皆の反応を見た。皆、納得しているようだった。

大宗青一が言った。

「今の詩で君がこれから目指している方向性がよく分かった。なかなかのものだよ」

「あなたの資質まで変えることはできないから、無意識に以前の作風に戻る時があると思う。そのことに気をつけて。この方向性でいいと思う」

小巻遼子の言葉が、皆に納見の新しい詩が受け入れられたことを表していた。

美聡も、今の詩によって、納見が目指しているものが明確に分かった。だから、批判的に評価するのはやめた。陽次も同じ感想だった。

大宗青一が、

「まだ時間もあるし、せっかくだから、もう一作、朗読をお願いできるかな?」

と言った。

納見は喜んで次作の朗読の準備をした。

「では、本日の最後の作品の朗読を始めます。作品のタイトルは『ラストワルツ』です」

納見は、朗読を始めた。緊張も解けた。静かに勝利の喜びが湧いてきた。

未来への栄光を今、確かにつかんだ。この方法論によって、僕は、華やかな世界の永住権を得た。「わべつはくあ」の詩のストックをもっと探そう。ストックが無くなったら、他の詩人を探す。また、“盗作”をする。作風を一変させたと話題性を伴って再び発表する。おそらく、僕の寿命より、“忘れ去られた詩人”の“忘れ去られた詩”の数のほうが多い。今、僕は人生の勝者になった。

納見は、朗読する詩のことよりも、華やかな世界の永住権を得たことの喜びでいっぱいだった。

詩の朗読が、中盤まで来た時だった。

突然、愛好家の一人が、大きな声でこう言った。

「納見さんの新しい詩の朗読を聞いていて、ずっと思ってたんだけど、どこかで昔聞いたことがあるんだよなあ。何て言ったらいいのかなあ。替え歌を聞いているみたいなんだよ」

愛好家は、和崎という男だった。痩せた男で、大きな声を出すようなタイプには見えなかった。実際、普段は物静かな人物らしい。詩のことになると人が変わる。それだけ熱心な愛好家だった。

納見は、驚きで朗読がとまった。

「和崎さん。突然、大声で何を言うんだね。納見君が驚いてしまっているよ。納見君。朗読を再開できるかね?」

大宗青一が、和崎を注意し、納見に尋ねた。

「でも、大宗先生も、記憶にありませんか? 彼の詩は誰かの詩の替え歌みたいなんですよ」

「替え歌って言われても、詩は歌謡曲じゃないんだから、歌詞だけ替えましたっていうわけにはいかない。和崎さんの論理は成立しないよ」


納見は、体が硬直した。目の前で自らの“盗作”の手法が暴かれている。

美聡は、衝撃を受けた。目の前で自らの推理が再現されている。『心臓モッキンバード』と『バウハウス過日』を並べて比較したあの日。彼女は、詩を歌に例え、歌詞とメロディーに分解した。それを今、和崎という男が、「替え歌」という一語で見事に言い表した。美聡が言いたかったのも、「替え歌」なのだ。あの時、自分が小難しく分析した結論を一語で表せば、「替え歌」だった。納見の詩は、白野塊の「替え歌」なのだ。だが、彼女は、おかしいと気づいた。今、納見が朗読している詩は、彼のオリジナルの詩である。白野塊の模倣作、あるいは、「替え歌」でないことは、一聴して分かる。全く作風が違うから。でも、和崎は、今日の納見の新作詩の朗読を聞きながら、「替え歌」のようだと言った。どういうことだ? 美聡は考えた。一つの答えを導き出した。一つの答えしか導き出せなかった。納見修作は、白野塊とは別の詩人の“盗作”をしたのである。それ以外に無い。彼女は、納見は、ここまで堕落したのかと愕然とした。


会議室の中は混乱した。

「替え歌って盗作のことか?」

愛好家の間で、納見の盗作を疑う声がした。

「でも、彼の詩は誰かの詩を盗用しているとは思えない。少なくとも私の知る限りだが」

盗作疑惑に対して否定的な意見が上がった。

「そこが、私にも、実ははっきりと分からない。でも、どうしても引っかかる」

和崎が言った。

「職業詩人であり、詩の選考委員も務める私の立場としては、軽々に何かを申し上げられないのですが、盗用については、私も違うのではないかと思います。ただ、和崎さんのおっしゃることについて、実は、『ラストワルツ』の朗読を聞いて、私も同様の感想を抱いたのも事実です」

小巻遼子は、慎重にそう言った。

会議室の中には、様々な意見が飛び交った。収拾がつかない状態になった。

「替え歌なら盗作ということだ。元歌も、じきに分かる」

「肝心の元歌が分からない。作者も分からないのに盗作とは拙速な判断だ」

「だが、和崎さんだけじゃなく、小巻先生までもが同様の感想を持っている」


大宗青一が提案した。

「皆さん。こういうことではないでしょうか? 納見君の新しい詩が、偶然、皆がどこかで触れたことのある詩と似ていた。だから、一瞬、盗用かと思った。けれども、改めて、考えてみると、やはり、盗用ではなかった」

そして、同意を求めた。大宗は早く事態を収束したかった。もし、納見修作が盗作をしたなら、「現代詩世界最優秀新人賞」を与えた選考委員長の大宗の立場も危うくなる。納見以上に実害が生じる可能性がある。大宗青一は、誰よりも必死だった。納見のことなどどうでもいい。大宗は保身のために必死だった。


四.

大宗青一は事態を収束するため―保身のため―、皆を必死で説得した。

「どうでしょうか? この世には数え切れない詩があり、その中の詩のどれかに似ていることなど、偶然ではなく、必然的なこととすら言えます。あまり深刻に捉えないほうが良いかと思うのですが? 納見君の将来のためにも」

だが、大宗青一の見解は、あまりにも一般論的だった。納見の詩に対する疑いは、具体的に特定の誰かの詩に似ているという和崎の指摘から始まっている。ベテランの職業詩人小巻遼子も同意見だった。

「大宗先生。今、我々は、納見君の詩が、誰かの詩の盗作ではないかという話をしているんです」

「現代詩世界最優秀新人賞受賞詩人の盗作疑惑です。もし、事実なら、権威ある賞にも大きな傷がつきます」

愛好家の間から厳しい意見が出た。

大宗は、内心、『俺も、選考委員長としての権威に傷がつくことを恐れているんだ』と思った。穏便に済ませましょうとはこの雰囲気では言えないと悟った。


すると、愛好家の中から、

「あの。いいですか?」

という声がした。六十過ぎの男だった。男は立ち上がった。髪をきっちりと固め、黒縁眼鏡にストライプシャツを着たおしゃれな男だった。

皆、彼に注目した。

「小波さん。どうかされましたか?」

大宗青一は、まだ何かあるのかと、声を上げた小波に苛立ちを感じた。

「私、元歌の作者が誰か分かるんです」

小波が言った。

大宗青一はぎょっとした。

「誰なんですか?」

「今、活躍している詩人ですか?」

「何故、気づいたんですか?」

皆、口々に小波に問うた。

美聡も、陽次も、小波を見た。

納見修作も、小波を見た。納見は、小波をにらみつけていた。


小波は言った。

「『わべ・はくあ』です。夭折の詩人です。『我別白亜』と書いて、『わべ・はくあ』と読みます。非常に珍しい名前ですが、本名だそうです。わべつ、がべつではなくわべです。わべは私と同世代の詩人で、青春時代の思い出として今も詩を読むことがあるんです。だから、分かりました。納見修作君の『ラストワルツ』の元歌は、我別白亜の『青天驟雨』です」


納見の「替え歌」の元歌と詩人が判明したことで、会議室の中は更に騒ぎになった。

「小巻先生。先生が替え歌だと感じたのは、我別白亜という詩人の詩で間違いないですね?」

「元歌も詩人も判明した。完全な盗作だ」

「大宗先生。彼から現代詩世界最優秀新人賞を剥奪してください」

「現代詩史上の汚点だ。納見修作を詩壇から永久追放にしろ!」

愛好家の憤りは激しくなるばかりだった。

「まずしっかり調査をしなければなりません。真偽が定かではない今、盗作と決めつけるのはやめてください」

「皆さん。とにかく落ち着いてください」

大宗青一も小巻遼子も、ヒートアップする愛好家をどう抑えていいか分からなかった。

紀美野美歌と奈良本純は、愛好家の怒りに怯えた。

美聡と陽次は、納見を見た。

納見は、愛好家の激しい批判を浴びたまま、ぼう然としていた。

これで、全て終わったと彼は思った。そして、終わりというのは、こんな風に突然、やって来るものなのだと思った。


五.

納見修作に対する愛好家の怒りは更に激しくなる一方だった。一種の集団心理が作用していた。

「盗作詩人! 出て行け!」

「詐欺罪で訴えよう! この若者のためにも刑事罰が必要だ!」

「そうだ。世間を欺いた罪は大きい。詩の冒涜も許せない。訴えよう!」

「訴えよう!」

愛好家の怒りがピークに達したその時だった。

会議室のドアが勢い良く開き、白野塊が入ってきた。

「今日は朗読会とのことで、少し拝見させていただこうかと思いまして。私は詩人の白野塊です。事情があり詩壇と疎遠になっていましたが、今日、私は、随分久しぶりにこのビルにやってきました。変わりませんね。懐かしい限りです」

白野塊が現れると、愛好家は、納見のことより、孤高の詩人白野塊の突然の登場に心を奪われた。

白野塊は、詩壇を追放された結果、愛好家の間で、伝説上の人、あるいは、仙人のような扱いになっている。それが、かえって彼の価値を高める効果を発揮している。愛好家は、本物の白野塊に出会えた幸運を奇跡のように喜んだ。白野は自分が仙人のように扱われていることを、今日、初めて意識的に活かした。良い気分ではなかったが、納見のために我慢した。

「皆さん。納見修作君は私のたった一人の弟子です。彼に今、盗作疑惑が生じていることが、廊下まで聞こえてきました。私は、納見修作の師として、彼に生じた疑惑を晴らす義務があります。今から、私のお話を聞いていただけるでしょうか?」

白野の話を聞いて、

「納見修作君は白野塊先生の直弟子? 凄いじゃないか」

と愛好家は反応した。

一方、大宗青一は、

『納見修作は白野塊の直弟子? それを知っていたら、賞を与えることもなかった。こんな面倒なことにもならなかった。つくづく白野塊という男は厄介な奴だ』

と思った。大宗青一は、白野塊を詩壇から追放した中心世代の詩人だった。

だが、白野が、

「大宗先生。皆さんが、お話を聞いてくださるということなので、よろしいでしょうか?」

と言って、大宗を見、自分がこの事態を収束させると目で合図をしたのに気づいた。

大宗は、

「今日、参加されている皆さんは幸せです。白野塊先生にお会いできました。そして、直弟子納見修作君のために、お話までしてくださいます。是非、私も、お話を拝聴させていただきます。今日は、私の人生の記念すべき日になります」

これだけの言葉を並べた。

同時に、小巻遼子が、会議用テーブルを部屋の隅に移動させた。白野塊と納見が並んで座れるよう椅子を並べた。白野のほうに向けて座れるように愛好家の椅子を並べた。

大宗青一も、小巻遼子も、厳しいプロの詩の世界を生き抜いてきただけあって、したたかだった。白野塊、大宗青一、小巻遼子の三人の機転によって、納見修作の盗作疑惑追及が、いつの間にか、白野塊の独演会に変わった。

納見は白野塊の隣に座り、師の大きさを肌で感じた。ただ、白野が、このビルに来た本来の目的は何なのだろうかと疑問に思った。

その時、携帯電話のメールの着信音が聞こえた。ズボンのポケットから携帯電話を取り出して見ると、美聡からだった。彼女が今日の朗読会のことを白野に送ったメールが転送されてきた。美聡を見た。彼女は頷いた。

『白野先生は、僕を心配して、疎遠になっているこのビルにわざわざ来てくれたんだ』

美聡からのメールを読み、納見は、白野に感謝した。

本当は違った。白野の目的は、詩人納見修作を終わらせるためだった。

それが、今、変わった。白野塊は、大宗青一に納見の盗作騒動を収束させると約束した。

果たして、白野塊は、これから、何を話すつもりなのか?

白野は、思った。複雑な話しになるかもしれない。でも、正直に話そうと思った。

納見を説得する時に、つい嘘をついた。そのため、一年彼を苦しめた。噓をついた自分の罪だ。

今度こそは、正直に話そうと白野は思った。


六.

「私にも、納見修作君と同じように若い頃がありました。今ほど、体も大きくありませんでした。サーロインステーキ五枚分、ソフトクリーム十個分は体重が軽かったと思います」

白野塊が、冗談を言った。

納見は、白野が冗談を言うのを初めて聞いた。特に面白いとは思わなかった。愛好家は笑った。白野塊に会えた嬉しさからだろう。椅子に座る納見の隣で白野塊は立って話をした。


白野塊は、大学時代に、納見と同じ「現代詩世界最優秀新人賞」を受賞した。彼は、受賞と同時に、大学を中退した。両親には事後報告だった。勘当された。今も、絶縁状態のままだ。

「私は、迷わない人間です。それが良い結果をもたらす時もありますが、自分の人生を振り返ってみると、そうでない結果のほうが今のところ多いです。そして、これからの人生で、それが逆転することはないと思います」

白野は、祖父母の葬式にも出ていない。祖父の時は葬儀が終わってから、ハガキが届いた。白野が、詩壇の人間と酒を飲んで帰った夜だった。アパートの郵便受けにダイレクトメールと一緒にハガキが入っていた。祖母の時は、母の声で留守番電話に葬儀が終わったとだけメッセージが入っていた。白野は、両親から大きな期待を受けていた。それを大学中退という形で裏切ったことへの怒りはとけなかった。

白野は、祖父母の死を、悲しく受け止めた。だが同時に、ほっとした。これで、また自分のことを心配する人間が減ったと思った。彼は、子どもの頃から、愛情や友情が苦手だった。両親もそういう人間だから、似たのだろう。心が折れる、迷うということが極めて少ない。彼はタフだった。だが、そういう人間が詩人になれるのか? 彼は詩を創作する際、感情を重視しない。彼にとって詩とは技術的な修練の結果であった。詩とはテクニカルなものであった。それは彼が中退するまで、大学で建築工学を学んでいたことと関係があるのかもしれない。彼には迷いがない。技術のみで詩を創作する。白野は、詩壇にデビューして以降、大量の詩を発表した。両親とは更に疎遠になった。詩壇でも、まるで機械で量産するかのようにコンスタントに詩を発表する白野に反感を抱くものが出てきた。反感には嫉妬と恐怖心が入り混じっていた。

白野はタフだった。タフな人間は、二種類に分かれる。タフであるが故、弱い心に寄り添う者。タフであるが故、弱い心が許せない者。二種類のうち、白野は後者だった。許せないと思う代わりに、彼は人の弱さを見ないようにした。詩壇で白野に嫉妬と恐怖心を抱く詩人の弱さを見ないようにした。結果、彼は、詩壇を追放された。本来、彼に非はない。ただ、彼は気づいていて、気づかないふりをした。同輩の詩人で助言を求めているものがいることに気づいていて、気づかないふりをした。彼はタフであると同時に冷たかった。詩壇を追放されたのも、それが原因だった。彼に非がないとは言い切れなかった。


「大宗先生。白野先生を詩壇から追放したのは、他の詩人の嫉妬心ですか? そんなことが許されるんですか?」

愛好家の声に、

「追放なんて物騒なことではありません。当時のことは、私も、はっきり記憶していませんが、仮に、白野先生のおっしゃるようなことがあったとしても、ごく一部の詩人の感情的な問題だと思います。それにしても、白野先生。そんな話を、今、何故?」

大宗は慌てた。

「納見君とともに私も救済されるためです。そのための告解だと思ってお許しください」

大宗の問いに対して、白野は真面目に答えた。

あまりにも真面目に白野がそう答えたので、大宗は黙るしかなかった。

白野は、大宗の許しを得たことを確認し、話を続けた。

納見は「救済」という言葉に反応した。

『僕は救済されなければならないほど堕落した。だが、白野先生が救済を求めて告解をする? 先生は何をそれほど後悔しているのだろう? 先生はそれほど罪深い人なのだろうか?』

納見は、自分が白野塊のことをほとんど何も知らないことに、今、改めて、気づいた。


七.

「私は、ずっと見て見ぬふりをしてきました。私は、ずっと気づかないふりをしてきました。そのため、多くの人を傷つけてきました。その最大の犠牲者が納見修作君です」

皆、驚いた。誰もよりも、納見修作が驚いた。

「僕が先生の犠牲者って、どういうことですか? 僕は白野先生の名誉を傷つけています。悪い人間です。それが、先生の犠牲者だなんて」

納見の言うことはもっともだった。

白野は、納見の問いかけには答えず、話を続けた。

「私は、強い人間です。だから、弱い人間が嫌いです。私は人が悩み苦しんでいる姿を見ると、同情するよりも、面倒だ、関わりたくない、と思う冷たい人間です」


白野塊は、詩壇を追放されて、それを機に都会を離れた。今、住む町に移り住んだ。町を選んだ理由は、誰も知り合いのいない町だったから。それだけだった。

何年かすると、納見、陽次、美聡が遊びに来るようになった。美聡が来なくなってからも、納見と陽次は、毎日のように遊びに来た。ある日、二人に詩をつくらせると、納見に詩の才能があることが分かった。ただ、彼は白野塊の模倣作しかつくらなかった。白野は疑問に思った。だが、白野は納見に問わなかった。

一度も、白野は納見に、

「何故、君は、僕の模倣作しかつくらないの? もしかしたら、模倣作しかつくれないの?」

こう尋ねることはなかった。

何故、白野は納見に尋ねなかったのか?

理由は、たった一つ。面倒だから、それだけだった。

模倣の問題に触れたその先に、納見が抱える内的問題があったとしたら。尋ねることにより、必然的に関わることになる。面倒なことには巻き込まれたくない。だから、何も尋ねなかった。

白野は、その一つの理由で、小学生の時から、高校の初めまで何年も白野の工房に通い続けた納見に、一度も、模倣の問題を尋ねなかった。


白野の話を聞いた納見は、白野が先ほど「最大の犠牲者が納見修作」と言った理由が分かった。だが同時に、納見に、一つの疑問が湧いた。あの日、白野は模倣の問題に自ら踏み込んできた。何故なのか?

「先生。一年前のことは? 僕が受賞した時、僕の『バウハウス過日』は先生の『心臓モッキンバード』の模倣作だと指摘しました。君は僕の模倣作しかつくれないと言いました。でも、その後、努力すれば抜け出せるかもしれないと言ってくれました。先生は僕の模倣の問題に自ら踏み込んできてくれました。でも、あれは嘘だったんですか?」

「えっ! 『バウハウス過日』は『心臓モッキンバード』の模倣作だって? 現代詩世界最優秀新人賞受賞作も盗作だったのか?」

愛好家の間から、悲鳴のような声が上がった。

白野は、

「皆さん。落ち着いてください。盗作ではありません。それにまだ話の続きがあるんです」

と自制を促した。それから、

「確かに、あの時は、途中から噓に逃げてしまった。僕の弱さだ。そのことで、一年も君を苦しませてしまった。その贖罪の思いで、今日、僕はこのビルを訪ねたんだ。場合によっては、模倣詩人納見修作を終わらせる覚悟で。でも、今、分かったんだ。僕の嘘は嘘ではなかった。そもそも、君が模倣作しかつくれないというのは、全くの君の思い込みなんだ。それが今の新作詩で分かったんだ」

と言った。

納見は、白野の答えに困惑した。話が独りよがり過ぎた。

皆も、白野の話の意味が分からなかった。

納見は、尋ねた。

「よく分かりませんが、つまり、僕はオリジナルの詩がつくれるということですか?」

その時、白野の話を聞いた大宗青一が、納見の質問に更に加えた。

「白野先生。今のお話は、納見君の盗作疑惑に深く関わる部分です。もっと詳細かつ具体的にお話し願います」

白野は頷いた。

「私は、廊下で納見君の新作詩の朗読を聞きました。驚きました。オリジナルの詩がつくれることに。私の模倣をもう脱したのだと思いました。でも、『ラストワルツ』を聞いた時、我別白亜の『青天驟雨』の模倣作だと分かりました。我別白亜は、私の同世代の詩人で、数少ない私の友人だったからです。『青天驟雨』は彼の遺作です。ただ、そこで、不思議に思いました。オリジナルではないにせよ、納見君は、私の模倣作ではなく、我別白亜の模倣作もつくれるのだということを。納見君は、子どもの頃から、私に直々に詩の手ほどきを受けたため、私の模倣作しかつくれない詩人になったのだと、私もつい先ほどまでそう思っていました。でも、私は気づきました。納見君は、私の模倣作しかつくれないのではなく、意識的に、私の模倣作をつくってきたのです。何故なら、私以外の詩、具体的には、我別白亜の詩も、自ら選んで、意識的に模倣したからです。つまり、結論として、彼は誰の模倣作でもつくれる。当然のことながら、それだけのことのできる彼が、オリジナルの詩がつくれないはずがないのです。彼は、自分は模倣作しかつくれない詩人だと、自分で思い込んでしまっているだけなのです」


白野塊が、廊下で『ラストワルツ』を聞いた時、納見修作は模倣作の詩人ではないと閃いたことを皆に説明した。論理的に考えてその通りであり、実際に、我別白亜の模倣作をつくった事実がそれを裏づけた。白野の分析を聞いて、誰よりも驚いたのは納見だった。でも、現実に、オリジナルの詩に挑戦したが、上手くいかなかったことなど、まだ納得できないところはあった。ただ、論理的には反論の余地がなかった。オリジナルの詩の創作は経験不足だから、まだ上手くつくれないという論理が成立するからだった。


八.

更に白野は重要な補足説明を加えた。納見修作の模倣の技術は非常に高度なもので、ある意味で、オリジナルの詩をつくるよりも難しい。模倣する詩の本質をつかみ、違う言葉によって、元歌を残しつつ、自らの色も織り交ぜる。白野にも、こんな高度なことはできないと言った。オリジナルの詩をつくるよりも難しい模倣作をつくり出せる納見修作が、自身のオリジナルの詩をつくれないはずがない。そして強調したいのは、納見修作は高度な模倣作がつくれる詩人であっても、決して、盗用、盗作をする詩人ではない。これが白野塊の分析の結論であり、納見修作の師として、直弟子を守るための結論だった。


白野の分析の後、すかさず、小巻遼子が発言した。

「現代詩世界最優秀新人賞選考委員として、申し上げます。今、インターネットで検索して、白野塊先生の『心臓モッキンバード』と納見修作君の『バウハウス過日』を比較精査しました。盗用は認められませんでした。従って、『バウハウス過日』は現代詩世界最優秀新人賞作品として何ら問題ありません。後日、選考委員全員で改めて、比較精査しますが、現時点で、選考委員の一員の私が見て、全く盗用が認められませんので、問題なしと申し上げて差し支えないと思います。また、念のため、亡くなった我別白亜氏の『青天驟雨』を検索したところ、個人の趣味のブログに引用されていました。納見修作君の『ラストワルツ』と比較精査したところ、こちらも、盗用は認められませんでした。尚、今、比較に使用した『青天驟雨』が、個人のブログに引用されていたものであるため、後日、正確な文献にある作品との比較を複数人で行います。それでも、詩の愛好家が几帳面に管理しているブログであるため、『青天驟雨』も正確に引用されていると思います。よって、現時点で、盗用を認めずと申し上げて差し支えないと思います。納見君の二作品は、あくまでも作風が似ているという次元の問題でした」

小巻遼子の素早い対応に、大宗青一が、

「ありがとう。さすが、小巻先生。迅速な対応に感謝します」

ほっとして礼を言った。

白野塊も、

「小巻先生。ありがとうございます」

納見も、

「ありがとうございます」

と頭を下げた。

皆が彼女に礼を言った。

「選考委員として、当然のことをしただけです。お礼なんて結構ですわ」

黄緑色のワンピースに迷彩柄のベレー帽を被った小巻遼子は颯爽としていた。

その姿を見て、納見は、女は奇抜でなければならないという不文律はない。彼女は、彼女の趣味であの衣装を選んでいるんだと、自らの現代詩壇への偏見を反省した。

納見は、自らの詩への屈折した思いが、詩壇への偏見につながっていたことに気づいた。


会議室の中は、リラックスしたムードになった。

「それにしても、一番分からないのが、納見君が、自分が白野先生の模倣作しかつくれないとずっと思い込んできたことだよ。実際に、我別白亜の模倣作までつくれた時点で、オリジナルがつくれるということに、気づかなかったのかね? その時点で、自分の思い込みを自分で打ち破ったんだから」

大宗青一が、特に納見を責めるというわけでもなく、素朴な疑問を口にした。

納見にも答えられなかった。自分でも分からなかったからだ。

白野が代わって答えた。

「私の模倣作しかつくれないというより、納見君は、オリジナルをつくることを無意識的に自分に禁じてきたのだと思います」

「せっかく詩の創作に興味を持ったのに、何故、そんなことを?」

大宗は、より理解できなくなった。

白野は、そこから彼自身の人生の悔恨と納見の人生を重ね合わせて語った。

彼は、納見の心のありようを知り、自らを深く省みた、悔恨を語った。


九.

白野は、両親と絶縁してもう長い歳月が流れた。彼自身も歳を取った最近になって、ようやく遠く離れた両親のことを案ずるようになった。高齢になった父と母について、気になる日がよくある。だが、長く絶縁状態が続いているため、関係を修復したいと思っても、簡単にきっかけがつかめない。電話をかけるだけでいい。分かっていても、それができない。

納見は違った。子どもの頃から、ノウミ化学を継ぐことを課せられ、反発してきた。だが、心の中では、常に、会社のこと、工場のこと、何よりも両親のことを気にかけきた。彼は、興味本位で始めただけの詩だったのに、自分に大きな才能があることに気づいた。それは、白野塊が、初めて詩をつくらせてくれた『パラソルの火葬』によってであった。他人を褒めない白野塊が、褒めたほどの作品である。たとえ小学生であっても、納見自身が、自分に秘められた才能を、あの詩を通して気づいたのは当然のことであった。


だが、納見には、両親のことがあった。家業を継ぎたくないと思いつつ、両親を見捨てることは彼にはできなかった。夏の暑い日も、冬の寒い日も、両親は工場で他の従業員とともに働いている。両親が働くのは、従業員の幸せのためだった。決して、経営状態が悪いわけではないが、規模が小さい。だから、いつ倒産してもおかしくない。同業の大手の会社に売却して系列会社に入ったほうが楽かもしれない。だが、それをすると従業員がリストラされる。だから、父と母は、毎日一生懸命働くのだった。納見は、父と母を誇りに思っていた。その気持ちが、詩才のある彼に、オリジナルの詩をつくらせなかった。創作すればするほど、彼は詩人になる可能性が増す。それも、一流のプロの詩人として独立できる可能性が高い。身近な例である師の白野塊のようになる可能性がある。子ども心に、そのことを感じた納見は、オリジナルの詩をつくることを自らに禁じだ。つくらないのではなく、つくれないと自らに思い込ませた。結果、納見修作は、白野塊の盗作詩人とまで、自ら思い込むことになった。それほどに、詩の世界と家業のはざまで、彼は苦しんでいた。彼がオリジナルの詩をつくらないのを貫き通したということは、彼にとって、本当に大事なものが、父と母であるということだった。彼も、従業員の幸せのために働くことを心の底で願っているということだった。

「私は、納見君を子どもこの頃から知っています。でも、彼がオリジナルの詩をつくることを自分に禁じていることなど全く気づかなかった。今、廊下で『ラストワルツ』を聞いた時初めて気づきました。私は、長い年月何をやっていたのかと自らを恥じます。私は、彼の師などと名乗れる人間ではありません」

白野塊は、自らの悔恨を滲ませて言った。

「今の時代を生きる人は、スマートだけれど、感情があるのかと不思議になる時があります。でも、白野先生の話を聞き、今の時代にも、納見君のような、随分、情愛の深い人がいるのだと私は感心しました。それに、白野先生、あなたも、随分、変わりましたね。若い頃のあなたは、ツッパっていて、トンガっていて、傲岸不遜なほどでした。詩壇を追われたのも、そういうところが反発を買ったからでした。でも、歳月の流れの中で、そして、納見君との交流の中で、あなたにも、人を思いやる心が育まれた。あの頃のあなたとは、まるで別の人のようです。あなたは、あなたが思っているような冷たい人間ではない。あなたは気づいていないだけです。あなたは優しい人間なのです。だから、あなたは、若者たちに愛され慕われているのです」

そう言うと、大宗青一は納見と、美聡、陽次の顔を見た。

白野も、三人の顔を見た。確かに、自分は、彼らに出会ってから、変わったと思った。

何よりも、自分より弱い者のために奔走するようになった。納見だけでなく、美聡にも、陽次にも、何か危機があったなら、自分は何を置いてでも、行動するだろうと白野は思った。

心の中に何も無かった自分は、彼ら三人から、人を思いやる気持ちをもらったと思った。

白野は、誰も知り合いがいないからという理由であの町に移り住んだことが、かけがえのない人たちとの出会いを生んだ幸運を思った。白野は、もう一度、三人の顔を眺めた。みんな瞳が澄んでいる。白野は、三人を見て眩しく感じた。


大宗青一も笑顔になった。後輩の白野塊の人間的な成長がよほど嬉しかったのだろう。白野塊のごま塩頭を見て、人間が成長するために要する歳月の長さを大宗は感じた。大宗は、是非とも、白野塊を詩壇に復帰させたいと思った。大宗は、憎んでもいない人間を憎んだふりをするのはもう終わりにしたいと思った。詩壇の誰もが同じ気持ちでいる。終わりにするのは、今日、白野に会った自分の使命だと彼は思った。


最終章(ロックンロール・アフタヌーン)


九月一日になり、二学期が始まった。始業式が終わってから、美聡、陽次、納見の三人は、白野塊に会いに行った。白野の自宅の門扉は壊れている。いつも開けっ放しだ。三人は庭に入った。自宅にも工房にも白野はいなかった。白野は詩壇への復帰が決まった。早速、会合に出席するため、早朝の電車で、現代詩世界社ビルに向かったのだった。

三人は、庭の芝の上に座った。無断で白野の家の芝に座っているが、門扉が壊れて開けっ放しになっている家なのだから、三人が座っていた方が防犯上安全だとも言える。まだ午前だった。例年より夏が早く過ぎ、初秋の晴れた青空と爽やかな風が心地よい日だった。


納見は、考えていた。白野塊の模倣作をやめて、オリジナルをつくろうと挑戦した。でも、あの時は上手くいかなかった。だから、我別白亜の詩を模倣しようと思いついた。それが、朗読会の日を境に変わった。朗読会が終わってから、二学期が始まるまでの夏休み最後の数日だった。納見は、試みにオリジナルの詩をつくった。それまでの苦労が何だったのかと思うほど、いとも簡単にできた。作品の出来はそれほどでもなかった。だが、次々と生まれてくるオリジナルの詩を眺め、納見は、呪縛が解けたと思った。彼は、家業を継ぐことと詩人になる夢の葛藤の中で、オリジナルの詩をつくることを無意識的に自分に禁止してきた。それを白野に解き明かされたことで、呪縛が解け、オリジナルの詩がつくれるようになったのだと思った。


それから、納見は、我別白亜のことを思い出した。二人に話した。

「朗読会の次の日、白野先生からメールがあって、我別白亜の詩が何編か送られてきたんだ。詩に対して真摯な男だった。けれど、二十代の終わりに病気で死んだんだって。風邪を放っておいたら、肺炎になって、あっという間に。注目され始めた矢先のことだったから、今、覚えている人もほとんどいない。先生も忘れていたぐらいだから」

「不運の詩人か。可哀そうな人だな」

陽次が言った。

美聡は、二人の会話を聞いて、納見は、幸運の詩人だと思った。

始業式の後、教室で、久しぶりに会った担任の女性教師のことを思い出した。夏休み前の終業式の日に、「勉強よりも大切なものを忘れずに」と彼女は言った。始業式の後、再び彼女は、「人生で大切なものは何ですか?」と問うた。一人の男子生徒が冗談で「勉強」と答えたら、「よし。忘れてないな」と彼女は笑って言った。美聡は、その時、朗読会のことを思い出した。納見は、美聡と陽次に朗読会への招待メールを送ってきた。彼が、どのような理由で二人を招いたかは分からない。納見のことだから、新しい自分が誕生した瞬間の証人にするため、そんなところだろう。でも、それは建て前だ。本音は不安だから来て欲しかった。友だちだから。もし、納見が二人に招待メールを送らなかったら、美聡から白野塊にもメールが送られなかった。だとしたら、今、納見は、こうやって一緒に芝の上でくつろいでいられなかっただろう。どうなっていたかを考えると恐ろしくなる。美聡は、納見が、混乱していた中でも、自分たちのことまで忘れていなかったことは幸運だったと思った。

そこで、改めて、美聡は、納見に尋ねた。

「納見君。これからどうするの? 詩人になるの? ノウミ化学を継ぐの? オリジナルの詩も、もう努力すればつくれるんでしょ?」

美聡の問いに、納見は、まず、

「決まっているんだ。じゃなくて、ずっと昔から決まってたんだ」

こう答えた。それから、詳しく説明をした。

「僕は、会社を継ぐために、オリジナルの詩をつくることを無意識に自分に禁じてきた。それが、朗読会の後、試しに、オリジナルの詩をつくってみたら、あれだけつくれなかった詩が、簡単につくれるようになったんだ。それで、僕は気づいた。オリジナルの詩がつくれるようになったということは、詩人になるんじゃなくて、詩人を諦めて、会社を継ぐ決意をしたからだってことに。ずっと昔から、そう思っていたんだ。ただ、決心がつかなかった。だから、オリジナルの詩がつくれない状態が続いた。心が保留の状態だった。それが、この前の朗読会で、決心がついた。僕は子どもの頃から思っていた通り、ノウミ化学を継ぐ。そう決心したら、オリジナルの詩をつくることを僕の心が許したんだ。我がことながら、人の心ってつくづく難しいものだって思わされたよ」

納見は、美聡を見て笑った。

素直な笑顔だった。いつもあった美聡への嫉妬が消えていた。

彼女は、そのことには気づかないふりをして、

「そうなんだ。ずっと昔から、もう決まってたんだ」

と言った。

すると、陽次が、

「母さんの働く農園で、自分のことを害虫って思って生きている虫はいないって言ったあの頃、もう決めていたの?」

と唐突に聞いた。

納見は、芝の上に寝転がった。青空を眺めながら、

「どうだろう。あの頃って何を考えていたのかな。あの話も思いつきで言っただけだから」

と言った。

「あの話を聞いて、虫を敵視するのをやめたのに。思いつきだったのか」

「私も、こんなに物事を多角的に捉えられるって凄いなって、それから、見習うようにしたのに」

陽次と美聡の言葉を聞いて、

「目立ちたかったんだよ。あの頃から。でも、もう懲りた。これからは控えるよ」

と納見は言った。

彼は秋の青空を眺めながら、何かを思い出しているようだった。


気づいたら、十二時前になっていた。美聡と陽次が帰ろうとすると、「ちょっと待って」と言って、納見が、カバンの中から小さなラジオを取り出し、スイッチを入れた。ちょうど十二時になった。十二時の時報とともに、「リック柴本のロックンロール・アフタヌーン」というタイトルコールが流れた。

「あれ。リック柴本が昼間の番組に出てる」

陽次の疑問に、納見が答えた。

リック柴本は、夜の番組が打ち切りになり、昼の時間帯の番組に異動になった。彼が、異動になった理由は、前の番組スタッフからパワハラで告発されたからだった。納見が二時間ぶっ通しで生出演した放送回も、その中に含まれていた。リスナーからの苦情が殺到したからだ。納見は前の番組スタッフの一人から、先日、そのことを電話で教えてもらった。

「納見君をいじめたあの放送は、やっぱり致命的だったんだ。それにしても、何となく変ね」

美聡は言った。

夜の生放送で聴いてきたリック柴本の声が昼にラジオから流れてくることだった。

納見も陽次も、美聡と同じことを考えていた。


「リックの今日のお薦め懐かしの一曲は、キャプテン・ローズデッドの『シニカル・カレッジタウン』だ。音楽には魔法がある。それは時代を超えて君に素敵な時間を与えてくれることさ」

ラジオから、時代を超えた音楽が流れてきた。

納見の一番好きな曲だった。美聡と陽次には、実験音楽のようにしか聴こえず、良さは分からなかった。


九月も少し過ぎたある日の朝だった。

桐原陽次が、朝食を食べていると、父が、朝刊を見せてきた。

「ほら、この記事。今年の『現代詩世界最優秀新人賞』は該当者なしだよ」

陽次は、父に新聞を貸してもらい、記事を読んだ。選考委員長の大宗青一の評があった。

「昨年、納見修作という高校生詩人が現れたことにより、これを機に、若い才能が、どっと溢れ出てくるかと期待をしていたのだけれども、それが見事に裏切られ、残念であった。何よりも、納見修作と比較して、勉強量が圧倒的に足りない。若き詩人たちの奮起を期待する。以上」

陽次は、思わず笑顔になった。

「納見君は、やっぱり違うわね」

母は言った。

父は、母が農園で栽培したミニトマトを一つ口に入れた。父は今朝も、ミニトマトを三つ食べた。


陽次は、朝刊をカバンに入れ、学校に向かった。

去年と違って、今日、学校に朝刊を持って行くのは、陽次だけかもしれない。

それでいい。あれからちょうど一年が経った。

あの時は、騒ぎになり過ぎた。

もう、騒ぐ生徒もいない。納見にサインを求める生徒もいない。

今年こそ、納見と美聡と三人で、ゆっくり記事を読もうと彼は思った。


美聡は、学校に行く前、クリニックの待合を覗いてみた。待合にまだ患者はいない。朝の静かな時間だった。夏休みの間、彼女は朗読会の一日以外は、全て受験勉強に費やした。けれども、この夏休みは、あの朗読会のためだけにあったと彼女は思う。校長の言った受験の天王山ではなく、担任の言った勉強より大切なもののための夏休みだったと改めて思った。もうすぐクリニックが開院する。今日も午前に患者が集中するだろう。午後に来られる人は午後からにすればいいのにと彼女は微笑んだ。それから、彼女は学校に向かった。


納見修作は、学校に行く前、部屋で携帯電話を見ていた。カゲノからのメールを読んでいた。カゲノは旅立った。少し前に携帯電話にメールが入っていた。昨日、気づいて読んだ。

「修行の旅に出ます。ダンススタジオは、あの予備校が借りるそうです。自習室として使うとのこと。

君が悩んでいる時、それも、苦悩という舞踊になる。いつも空を見上げて。カゲノ」

短い文章だった。

納見は、そこに、カゲノを見た。


芸術家に一般的な幸せは要らないのかもしれない。カゲノは舞踊しか要らない。

白野塊もそうだ。彼は詩だけだ。他には何もない。

納見は、オリジナルの詩がつくれるようになったが、自分は詩人にはなれないと思った。

「俺は、孤独に耐えられない。カゲノさんや白野先生のようには強くないから」

それから、自分が、ずっと模倣作しかつくれなかった理由に、家業と詩人の問題に加え、孤独への怖れがあったと気づいた。

カゲノに尋ねれば、白野と同じように、強さのために、失ったものも沢山あると言うだろう。でも、彼らは、いつも、冷たい。優しいのだけれど、冷たい。彼らは、芸術のために全て捨てることができる。恋人さえも捨てられるだろう。納見には、それができない。

今、開け放した二階の窓から、外にいる父と母の声が聞こえる。急病で欠勤する従業員から電話があった。午前と午後で父と母が交代でラインに入る相談をしている。二階まで聞こえる大きな声で話をするのは、工場で働くうちに習慣になった。大声を出さないと機械の音に負けてしまうから。納見は、立ち上がって窓から外を見た。製品の材料を工場に搬入するトラックが走る。早出の従業員が、父と母に挨拶をして工場に向かう。納見がもの心ついた時から、ずっと変わらない朝の風景だ。納見は、捨てられなかった。父と母を。そして、会社を。納見はこの風景を守ろうと思った。


納見修作は、学校に向かった。静かな秋の朝の道を彼は歩いた。才能と才能が出会う時、その出会いが必ずしも、人を幸せに導くとは限らない。納見修作も、そのために、長く迷い続けた。だが、彼は迷いを抜け出し、自分の歩むべき道を歩み始めた。彼は詩より大切なものを忘れなかった。彼は友を忘れなかった。彼も、朝刊に、自分の名前が出ている「現代詩世界最優秀新人賞」の記事を見つけた。今日も、陽次が、去年と同じように学校に朝刊を持って来るだろう。あの時は騒ぎになり過ぎた。今日こそ、陽次と美聡と三人で、ゆっくりと記事を読もうと思った。そして、今日こそ、三人で、ゆっくりと語り合おうと思ったのだった。



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フィクション・ポエム 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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