第1話 負傷

馬車が走り、空に郵便鳥が、夜にはランプがぷかぷかと浮かび照らしている城内、眠りにつこうとしている夜に全くふさわしくない騒がしさが廊下に響き渡る。


「ああ! 姫さまっ! お待ちください! ソフィアさまっ!」


「やぁだ、待ってあげない!」


可愛らしい”ソフィア”と呼ばれた少女が走れば美しい銀髪が靡き、七色に光る瞳が楽しそうに笑っている。この国の者であれば誰もが平伏してしまうその姿がぴょこぴょこと楽しそうに廊下を走りまわり、侍女が追いかける姿をそれもまた楽しそうに時折チラチラと見るのだ。その時、どすん、と何かに当たり、痛めた鼻を少しばかり痛そうにさすってソフィアが一体なんだっただろうかと涙をうっすらとため、上目遣いに確認しようとした瞬間には、すでに彼女の視線は普段より幾分か高い場所にあったのだ。


「こらソフィア、彼女を困らせてはいけないよ。追いかけ回すのだって簡単じゃないんだ。もう寝る時間、良い子は寝ようね」


「兄さま、兄さまは寝ないの?」


「寝るよ。ただソフィアに忘れ物を届けにきたんだけどね、まさか部屋でなくこんなところで出会うとは思ってなかったよ。……君も大変だったね、ソフィアを部屋に連れて行こう」


抱き上げられたソフィアは暴れることもなく、兄の腕にすっぽりとおさまってはぁいなんて素直な返事を零す。労いを与えられた侍女は王子殿下に拝謁しますと短く挨拶をして、ねぎらいの言葉に感謝を述べる。相当疲れたのだろう。ちびっ子の体力を舐めてはいけない。息があがっている。


こんなのだから使用人たちの間では有名なのだ。稀代の仲良し兄妹であると。

王族の割に兄弟が少ない。後継が二人しかいない状況の中、仲良くするのは思いのほか大変なことなのだ。後継者教育と呼ばれるものはどちらも齢三つの時から施されているし、何かの感情が芽生えてもおかしくない話だがそれがまるっきりない理由としては、それは兄妹がこの二人だけであるからだとしか言いようが無いのだと、ティーンにお互いがなってそこそこ時間が経った時に二人はやっぱり同じ答えを返すのだ。


こんな仲良し兄妹が後世に語り継がれるナランハ時代を築き上げるだなんてことは、この時は使用人も、二人も、二人の父親である皇帝とて誰も想像なんてしていなかったのだ。





***





夏の短い夜の日。そろそろ寝ようかという頃に、皇宮内が騒然とした。あまりの人員移動に一体何があったのかと部屋を出ようとしたものの、外にいる護衛が今までにないほどの険しい顔で見張りをしていた。



「ねえ、イヴァ。何があったの?」



先ほど使用人同士で何が起きたのか報告があったのだろう。イヴァが騒然とした様子で血相を変えていた。ただ幼い子に何があったかなんて察する能力は持ち合わせていない。いくらそれが皇族の子であったとしても然り。その時に、普段であればありえないような慌てたノック音で扉が響いた。

なんだと扉を開ければ、そこにいたのはもう毎日のように目にしている皇族近衛隊の制服と甲冑を着た兵士だった。



「皇女殿下にご報告致します。王宮外にて乱闘が起こり、皇帝陛下がお倒れになりました」


「とう……さま? 父さまが怪我をなさったと言っているの?!」



お待ちください、外は危険です、お部屋に止まっていてくださいませ、皇女様、皇女様。殿下、殿下。ソフィア様、お止まりになってください。

心のままに体を突き動かした少女ソフィアは周りの声なんて聞こえず、ただ突っ走った記憶がある。後ろから護衛たちが追いかけてくるのも気がついていたし、捕まるかもとおもいもしたし、きっと本来であれば捕まっていた。


「父さまっ!」


人が集まり騒然としている皇宮医務室の部屋に駆け込む。小さな子供だ。大きな大人たちの足を掻い潜っていくなんて朝飯前。必死になって走ったその先に待つのが絶望だとわかっていながら飛び込んでいくのが子供だ。

はあはあなんて息を吐きながら、何本もの足を掻い潜った先にいたのは───



血塗れになっている父王ちちだった。



みんながなって水に包帯、消毒に塗り薬、糸や針。そして宮廷治癒師。指示されたものを大急ぎではこび、たった一人の人を助けるべく、必死に目まぐるしく動いていた。父の出血が徐々に、徐々に治っていくものの、決して目を覚まさない。その姿が酷く現実感のないもののように見えて、足が動かなかった。ただ、ただ呆然としていることだけが自分にできたことだった。



「ソフィア?! なぜこんなところにいるの! 誰かソフィアを……あなたも来ていたのね? アルベルト、ソフィアを連れて二人で皇后宮にこもっていなさい。あそこが一番安全よ。 こんなところは……あなたたちは見なくていいわ」



いつ現れたのか、母さまの声でハッとする。何も口にはできなかったけれど。そのまま兄さまに連れて行かれて、皇后宮で二人して籠った。警備が一番厳重であろう、母の私室で。実際に襲撃にあったところを見たわけでもない、血は止まりかけていた。それでもあの光景は齢五つの少女には……いや、齢いくつの大人であっても衝撃だろう。きっと、兄さまもショックを受けていた。でなければ、あの二人きり、部屋での沈黙が長く続くわけがなかった。あの、命の駆け引きのその瞬間、体がすくんだのだ。怖い。怖い、怖くて、怖い。本当にそれだけが頭を占領していくのだ。


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