Ⅴ 前篇(下)

 

 師匠にシーナから眼を離すなと云われていた俺は、ちょうど曲の合間の休憩に差し掛かっていたのを倖い、バルトロメウスとシーナの後をすぐに追った。バルトロメウスは控えの棟で見かけていた折の青い衣裳ではなく、魔女たちのドレスを引き立てるためにか、金刺繍のある黒の上着に着替えていた。

 バルトロメウスはシーナの手を引いて広間を出ると、階段をつかって庭に降り、夜風にざわめく樹木がちょうど衝立となるような庭園近くの噴水の淵にシーナを腰かけさせた。

 水が涼し気な音を夜に立て、白い珠のような飛沫を飛ばしている。

「喉が渇いたのではありませんか」

 魔法杖で冷たい水の入った高盃を取り寄せ、バルトロメウスはそれをシーナに手渡した。

「ご親切に」

「バルトロメウスと申します」

「お名まえはホーエンツォレアン子爵および共に暮らしている侯爵から聴いております。ツォレルン家のバルトロメウスさま」

「アルフォンシーナ嬢ですね」

「わたしの弟弟子とそちらのブラシウスさまが親しくさせていただいております」

 バルトロメウスもシーナの隣りに腰をかけた。こっそり尾けていた俺は、気配を消し、噴水の裏手の繁みに身をひそめて二人の様子を窺った。覗き見みたいだけどこうするしかない。

「風が冷たくはありませんか」

「暑いくらいです」

「正式なヘタイラではなく見習いですか。ヘタイラに仮装させて舞踏会に送り込むとは、皇太后も乱暴なことを想い付くものだ」

「わたしの為を想って下さってのことです」

 水を飲み干したシーナは、もみくちゃにされて少し歪んでいた花冠を直そうとした。バルトロメウスが腕を伸ばしてそれをやった。シーナの頭から手を離すと、バルトロメウスは顔を少し引いて、シーナを見詰めた。

「失礼。これで元通りになりました」

「ありがとうございます」

「貴女は棄子すてごとか」

「はい」

「ザヴィエン選帝侯とはどちらで」

「北の方の邑で。そこで拾っていただきました」

「何か出自に繋がるものをお持ちではなかったのですか」

「なにも。棄子でしたから」

「生い立ちが不明では、寄る辺なく、お辛い想いもされたのではありませんか」

「いっこうに。弟弟子のテオともども、なに不自由のない倖せな暮らしを選帝侯からいただいております」

 一貫してシーナは儀礼的な対応をしていたが、意識的にやっているそのせいで、普段の取り付く島もないシーナよりも真面目に受け答えをしている感じになっていた。

「貴女は以前、大変な目に遭われたとか」

「ご親切に。あの折はブラシウスに助けて頂きました」

「その後、暴漢を手引きした主犯は見つかったのでしょうか」

 バルトロメウスの質問に対して、シーナは庭園の上に昇る月を眺めながら「まだのようです」と応えた。俺にはシーナが上の空で会話を続けていると分かるのだが、初対面の男なら、控えめな娘に映っているだろう。

「捜査が甘いのではありませんか」

 バルトロメウスの口調が強かった。

「許しがたいことです。獄舎に収監されている悪党どもをもう一度締め上げてみればいいのだ」

「バルトロメウスさま」

「わたしが行って懲らしめてやりたい」

 繁みの中で盗み聴きしながら、恐れていたことが現実となろうとしている予感に俺はおののいていた。想った通りだ。バルトロメウスは義侠心があり、騎士道精神に篤く、生い立ちの不憫な若い魔女、しかもシーナのような美人を眼の前にして、何かが燃え上がらないわけがないのだ。

 噴水の中には青銅の造花が飾られている。シーナの眼線が肩越しにその造花を見ていた。もちろんシーナは背後に隠れて盗み聴きしている俺の存在に気がついている。

 流れ落ちる噴水の飛沫を透かしてシーナの眼がまたたいた。俺への合図だ。


 そろそろ帰るわ、テオ。


「その件につきましては、侯爵と司法に任せております」

「いけない。怖ろしい想いをされたというのに、気遣いのないことをお耳に入れてしまいました」

「お話ができて愉しかったですわ、バルトロメウスさま」

 噴水の淵からシーナが立ち上がった。バルトロメウスも立ち上がる。

「そろそろ帰ります」

「もう? まだ誰とも踊っていないのでは」

「付添人のティアティアーナ伯爵未亡人は皇太后と積もるお話があるそうです。わたしは待たずに先に帰るようにと云われています。ご機嫌よう」

「舞踏会はこれからですよ」

「田舎の家では、小羊が眠る時分にわたしも眠るのです」

 小羊が眠る時分に眠るのは俺で、シーナは夜半過ぎまで起きている。扇で顔を隠しながら、シーナは欠伸の真似をした。

「もう眠たいの」

「分かりました」

「それではご機嫌よう」

「では、わたしの箒で伯爵家までお送りいたしましょう」

 繁みの中で俺は顔を上げた。アルフォンシーナは、バルトロメウスの顔を見つめ返している。

「悪漢に誘拐されたことを知りながら、お独りにするわけにはまいりません」

「ご心配をありがとうございます。御者と護衛と侍女が馬車には附いております」

 バルトロメウスは口笛を吹いた。箒がするすると彼の許に飛んできた。バルトロメウスはシーナに手を差し伸べた。

「アルフォンシーナ嬢。お送りします。こちらにお乗りなさい」

「もう少し遠慮深い方かと」

 初対面の男女が箒に二人乗りをして貴族の舞踏会から出て行くなど、魔界の社交界では許されないことなのだ。

「直截に云わせていただくならば、少し残念な想いでおります」

 シーナはさらに云った。

「わたしが棄子だからといって不作法にしてよいとお考えですか」

「男と踊りに来て、踊らずに帰るというのはね」

「皇后と皇太后にご挨拶に伺っただけです」

「それは名目でしょう」

「その仰りよう。ツォレルン侯爵家の家風なのでしょうか」

 いいぞ、もっと云ってやれ、シーナ。

「わたしの後見人はザヴィエン侯爵です。また、家庭教師の伯爵未亡人の評判にも関わります。ご遠慮させて下さい」

「不作法はどちらでしょう」

 バルトロメウスは笑っていた。

「噴水の後ろに貴女の騎士が隠れて盗み聴きをしているようですが」

 俺のことだ。バルトロメウスは気づいていたのか。

 シーナは一歩下がった。バルトロメウスは一歩踏み出た。

「男と女は二人きりで話をするものだ。誰にも邪魔をされない空の上でやり直しをしましょう」

「帰ります」

「侯爵から聴いていないのか」

「何をでしょう」

「君とわたしは結婚することになる。君はわたしの花嫁だ。今夜のうちにも」

 こら、こら、こらぁ。

 俺は唖然としていた。あまりの無礼にシーナの顔色も蒼白だった。

「さあ箒へどうぞ、見習いのアスパシア」

 バルトロメウスは硬直しているシーナの様子を愉快そうに見ていた。

「膝に抱き上げてお好きな処に運んであげよう。眠いのならば寝ても構わないよ」

 シーナは無言で背中を向けて帰ろうとした。そのシーナの前に箒に乗ったバルトロメウスが回って行く手を塞いだ。冬の宮殿の外壁を照らす松明が彼の金と黒の衣裳をぎらりと光らせた。

「膝の上が嫌なら、向い合せで箒に乗る方法もある」

 下劣な正体をあらわした男は、笑いながらシーナに近づいていった。

「その時は、はだかがいい。しっかり抱きついていて欲しいものだ」

 死ね、汚らわしい。

 シーナの片手が持ち上がっていた。扇に隠して魔法杖を握り締めている。消え失せろ、変態。

 やれ、シーナ。

 もはや隠れている必要もなくなった俺は繁みから出て行った。

 その無礼者を懲らしめてやれ!

「テオ、そこを退け」

「令嬢から離れろ」

 鋭い声がした。手すりから跳び下りてこちらに走ってくる二つの影。片方はブラシウスだ。そしてもう一人はバルトロメウスだった。金と黒のこちらのバルトロメウスとは違い、あちらは青い上着を羽織っている。バルトロメウスが二人。

「伏せなさい」

 青バルトロメウスが一声叫んで魔法杖を鞭のように揮った。その前に噴水の裏から飛び出した俺はシーナを抱えて、シーナごと地面に伏せていた。青ブラシウスが放った魔法は強烈だった。あまりの威力に俺とシーナまで地面から浮き上がり、背後の花壇まで転がっていったほどだ。

 現場に飛び込んで来るなり青ブラシウスがいきなり放った強襲型の魔法は瀑布となって迸り、その光は周囲を真昼のように明るく変えた。やっぱりバルトロメウスは師匠と同じ過激派だ。

 弟のブラシウスも魔法杖を振り下ろしていた。一瞬の躊躇もないツォレルン兄弟の猛攻撃を立て続けに浴びた偽物のバルトロメウスは箒に乗ったまま背後の庭園に大きく退いた。

 偽物のバルトロメウスは笑っていた。その顔かたちが徐々にバルトロメウスから遠い者に変わっていく。より美しく、より酷薄な何かに。

「騎士が増えた」

 偽物のバルトロメウスはまったくの無傷だった。余裕をみせて笑いながら箒で夜空に逃れた。追いすがるツォレルン兄弟の足許に、一度だけ偽物は空中から魔法杖を揮った。正確には揮う真似だけをした。それを見るなり、兄は弟を連れて大きく後退した。

 箒で空に浮かぶ偽物バルトロメウスは高みに昇りながらシーナに呼び掛けた。

「また逢おうアルフォンシーナ。気の強い魔女は手応えがあってたいへんよろしい。この次に逢う時は二人きりだ」

「テオ、箒だ。あいつを追うぞ」ブラシウスが叫んだ。

「やめろ」

 本物のバルトロメウスが厳しい声で俺たちを制止した。青い上着のバルトロメウスは厳しい顔をして手許の魔法杖を睨んでいた。

「完全にあたっていた」

「兄上」

「魔力は確かにあの男にあたっていた。しばらくは何者にも化けることは叶うまいが。それでも」

「早くシーナを」

 俺たちはアルフォンシーナを囲んで、宮殿の中に走りこんだ。安全な場所は何処だ。

「舞踏会場に戻ろう」ブラシウスが云った。

「あそこなら大勢の魔法使いが集まっている。防御陣を張れる」

「駄目だ。それではひと目についてしまう。アルフォンシーナ嬢の風評に差し障る」

 年長者の配慮をみせてバルトロメウスがそれを止めた。

 その時「こちらへ」と回廊の奥から女官が手招いた。

「舞踏会の広間にお姿がないのでお探ししておりました。テオさまでいらっしゃいますね」

 ツォレルン兄弟が同時に俺を見た。俺にはまったく心当たりがない。

「どうぞこちらへ。皆さまでご一緒に。あら皇女さま」

「早く。急いで」

「皇女さま。テオさまをお呼びしてまいりますから皇女さまは室でお待ち下さるようにとお願いしてありましたのに」

「そんなことを云っている場合ではないわ。何かあったのよ」

 廊下の奥から走って来て俺たちを宮殿の奥の間に追い立てたのは、エリーゼ・ルサージュだった。



 皇女さま。女官は確かにそう云った。通された冬の宮殿の奥の一室で、ツォレルン家の兄の方がすぐに状況を理解した。バルトロメウスはその場に片膝をついた。弟ブラシウスも兄に倣う。

「皇女さま。エリーゼさま」

 床に片膝をついているツォレルン兄弟の横で、俺とシーナはまだ突っ立っていた。俺の上着の裾を下からブラシウスが必死で引っ張っていたが、わけが分からない。エリーゼが皇女。

「この室では礼儀は必要ありません」

 静かな物云いだったが、云い慣れた感じがあった。そこに居るのは確かに皇女だった。

「君は皇女さまだったの? 正体を隠してヘタイラに?」

 愕きのあまりに無遠慮な声を上げてしまった。シーナとブラシウスが「テオ」と小声で叱咤したが、皇女はそれも止めさせた。

 エリーゼは俺たちに椅子をすすめた。

「お掛けになって」

「皇女エリーゼさま」

「皇女といっても、沢山いるうちの一人です。ほぼ忘れられているような七番目です。わたしは病弱な姉姫の遊び相手として母皇后の実家近くの湖畔の城で育ち、魔都ではほとんど顔を知られていないのです。父帝はわたしに結婚するまでの間の自由を許して下さっています。ヘタイラでいる時はエリーゼ・ルサージュのままでいさせて下さい。ブラシウス」

「はい」

 ブラシウスはまだ床に膝をついていたが、皇女に名を呼ばれて顔を上げた。

「『流星群』は見事でした。冠を授ける場にはわたしもおりました」

「憶えております。皇女さま」

「さて」

 エリーゼは熱いお茶をはこばせると、椅子に座った俺たちの顔を眺めまわした。

「何があったのか教えてもらえますか」



 俺たちの話を聴いたエリーゼはすぐに侍女を呼んだ。侍女がさらに冬の宮殿の警護長を呼んで来て、エリーゼの言葉を受けた警護長は素早く室を出て行った。

「皇女さま」

 それまで黙っていたバルトロメウスが口を開いた。

「冬の宮殿を閉鎖されますか」

「はい」

 エリーゼは頷いた。

「舞踏会は中止にします」

「わたしの姿に化けてアルフォンシーナ嬢に近づいたとあらば、賊の狙いはアルフォンシーナ嬢ではないのでしょうか」

「分かっています」

 エリーゼはアルフォンシーナの方を向いた。

「大丈夫ですか」

「はい。皇女さま」シーナはしっかりと応えた。

「魔都での滞在先であるティアティアーナ伯爵未亡人にはわたしから説明します。あなたには護衛をつけます。すぐに滞在先の伯爵家にお帰りになるように」

「はい。ありがとうございます」

「おそれながら」

 バルトロメウスは異論を唱えた。

「朝になるまでは、こちらから動かぬ方がよいのでは」

「宮殿を閉鎖することでアルフォンシーナ嬢はまだこちらに居ると想わせるのです。大勢の見知らぬ者が集っているこの冬の宮殿は立て籠るのには向きません。先刻、皇太后と皇后にも速やかな避難をお願いし、そちらにも警固の人員を割いております」

 エリーゼは可愛い顔を引き締めていた。

「この宮殿では皆さまを護れません。アルフォンシーナ嬢の滞在先である伯爵家はここからそう遠くない。道中の護衛だけでなく、そちらにも急ぎ、区画の警備兵を一帯に派遣しております。彼らが護ってくれるでしょう」

 エリーゼ・ルサージュがいつも忙しそうだったのは、ヘタイラであるだけでなく、皇女だったからなのだ。



》中篇(上)

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