第四章◆彼は偉大な魔法使い

Ⅳ 前篇(上)

 

 大柄な騎手の操るその赤い箒は大外から廻って来た。中央集団から赤い箒は独り飛び出すと、先頭と中央の合間にこぼれていた騎手を追い越し、水たまりを跳び越える赤い蛙のように先頭集団の末尾に迫っていった。

 赤い悪魔。

 シュワイツ・バロンが来た。

 高速で疾走する箒と箒はわずかに接触するだけでも片方、もしくは両者が弾き飛ばされる。それをものともせずに接近してくる者がいるとしたら、重量があり速さがあり、技巧に自信のある押し敗けない騎手だ。

 赤い箒を操る大柄な騎手は、その視界に先頭集団を塊として捉えた。しかし彼の目指す獲物はそこにはいない。先頭集団を引き離してさらに独りだけその先を行く、独走態勢の『冠』騎手が彼の獲物だ。

 『カシニ間隙勲章杯』は数ある障害物競技の中でも、最も殺人的と云われている。あれに出走するくらいならば『気狂い箒』に乗せられる方がましだという騎手もいるほどだ。狭隘に大小さまざまな隕石が飛び交い、両脇には当たれば確実に骨まで砕ける岩崖が控え、その出っ張りや引っ込みを利用しながら順位を上げていこうとしても、次の曲がり角では隕石と衝突するかもしれないのだ。

 野獣の群れに追われながら銃弾をかいくぐって狭い崖路を抜けるようなものだった。騎手たちは飛来する隕石を避けながら高速でそこを飛ぶ。

 先頭集団は速度と間隔を調整していた。背後から迫りくる赤い箒の騎手シュワイツ・バロンのことを、騎手たちは十分に意識していた。

 赤い箒に乗った大柄な騎手シュワイツはにたりと笑った。

 何をする気だ。

 先頭集団の末尾にいる選手が赤い箒を振り返った。背後にぴたりとシュワイツがつけている。

 右に左にと箒の尾を振って先頭集団に入れさせまいとする前の騎手の動きを、じりじりと迫るシュワイツは愉しそうに眺めた。

 ここだ。

 シュワイツが動いた。

 末尾の騎手は信じられない想いで真横にせり上がってきたシュワイツを見た。罵声を浴びせる。シュワイツ、死にたいのか。

 両脇の崖が極端に狭まり、複雑な隙間を縫う狭路だった。並んでは飛ぶのは危険が伴う。追い抜かすにせよ、並走するにせよ、僅かな乱れがあれば大事故に繋がりかねない。  

 末尾の騎手は赤い箒との勝負を早々に棄てた。速やかに赤い箒の下側に降下する。赤い箒に道を譲ったのだ。上を越して先に行け。

 シュワイツの評判を聴いて知っているからだ。

 あんな狂人と競り合う気などない。

 シュワイツの箒が前に出たことを確認して、再び上昇して流れに戻ろうとした末尾の騎手は、赤い箒が増えていることに気が付いた。後方からさらに二騎手、揃いの赤い箒が追い上げてきたのだ。

 振り返ったシュワイツは大声を出した。

「遅いぜ、お前ら」

 追いかけてきた二つの赤い箒はシュワイツがたった今追い抜かした後続の箒の真上に位置をとった。流れに戻るために上昇しようとしていた箒がまた高度を下げる。何でもいいから先に行け。しかし二つの赤い箒は、さらに高度を下げた。

 上に並ぶことで上空を閉ざし、蓋をするように箒を昇らせず、逆に下に下にと押し付けてくる。逃れようにも両脇には崖が迫りその隙がまったくない。

 シュワイツめ。三位一体で妨害工作をかけてきたか。

 騎手は競技の棄権を決めた。無法者が入ってきた限りは、命を優先するべきだ。次の旗が視えたらそこで競技を降りよう。

 そこへ隕石が低空飛行で飛んできた。上空の赤い箒は動かない。

 谷間に絶叫が響いた。

 逃げ場を失くした箒は隕石を避けきれずに接触し、騎手ごと斜めに傾いて地面にぶつかると、谷底を削りながら激しく滑り、最期は大岩に追突した。

「ざまあみやがれ」

 シュワイツは哄笑した。先頭集団はすでに迫りくる三騎の赤い箒の存在に気付いていた。彼らに狙われた不運な箒が激突する音も彼らの聴覚は捉えていた。動揺がはしる。先頭集団の速度が上がる。シュワイツから逃げ切れるか。

 先頭集団を構成する七、八騎が次のシュワイツの獲物だった。シュワイツは眼をほそめた。さらにその前にいるそいつ。先頭集団を牽引している若い騎手。

 事故が起きた瞬間、一瞬だけそいつがこちらを振り返ったのをシュワイツの両眼は見逃してはいなかった。

「貴族どもめ。お前らのお行儀の良さなんかクソくらえだ」

 加速した赤い箒が風と擦れ合い重い音を立てる。

「今から俺さまがまくっていくから見てやがれ」

 シュワイツの生まれは下層階級だ。下級魔法使いの親は荒れた生活をしており、シュワイツは狭くて汚い小屋のような家で生まれ、狭くて汚い鉱山の町で育った。

 子どもの頃からシュワイツは鉱山の中の坑道を蝙蝠のように飛んでいた。迷路のように張り巡らされた狭い坑道が遊び場だった。

 少し大きくなると、今度は複雑な大型機械や設備が立ち並ぶ製錬所の合間を飛ばすようになった。

 箒競技に眼がない準男爵家と養子縁組をして地方の競技大会に潜り込んで来るまで、シュワイツは地元の腕自慢たちを蹴散らしながら箒乗りの腕を磨いてきた。

 いざ競技に出てみると、貴族たちは、養子縁組で準男爵になったシュワイツに対しても垣根なく話しかけ、握手を求めてきた。

「凄いじゃないか。君は今年の新人賞の有望株だ」

 胸に詰まっていた熱い鉱石のようなものがその時、氷のように冷えていくのをシュワイツは覚えた。そしてすぐにそれは前よりももっと熱く、どろどろになってどす黒く燃え始めた。

 貴族ども。

 苦労知らずの甘ちゃんどもめ。

 見下された方がまだましだった。

 なにが『君』だ。お上品ぶりやがって。

 その粗暴さと、手下の二人を連れた計画的な騎手潰しが知れ渡るにつれてシュワイツ・バロンは嫌われていったが、シュワイツにとってはかえって快感だった。鉱山で働く前科者たちの荒れた顔と比べ、シュワイツの眼に映る貴族たちは皆、紙で折った人形のようにみえた。

「これは男の闘いだ。澄ました腰抜けどもには用がない」

 シャッという音は、風と箒が擦れる音だ。赤い箒は先頭集団を次々と追い抜かした。飛んでくる隕石を赤い箒は小気味よく、ひゅっひゅっと避けていく。シュワイツは抜きんでて大柄だったが、箒の技巧は繊細ともいえるほどだった。 

 先頭集団を突破した。追い抜かしたというよりは、誰もがシュワイツを避けてうまくその牙を避けた結果だった。

「奴らに囲まれるな」

 飛んでくる隕石も利用して赤い箒の仕掛ける罠から巧みに逃れ出ると、先頭集団の騎手たちは後方に下がっていった。

 その先には一騎だけが飛んでいる。

 前を飛ぶ単騎を睨み据えて、シュワイツは奥歯を噛みしめた。

 『冠』マキシム・フォン・ザヴィエン。


 シュワイツの獲物、マキシムは首位を飛んでいた。金の紋章入りの漆黒の箒。あの箒一本の値段で鉱山に暮らす下層魔法使いは何か月もの間、飯が喰えるはずだ。

 シュワイツの手下の赤い箒が追いついて来た。後方からマキシムを包むように三騎の赤い箒が追いすがる。

「よう、『冠』」

「お姫さま、お供はいりませんか」

 左右の箒がマキシムを煽った。他の競技ならば速さで引き離すところだが、この競走においては飛来してくる隕石がそれを阻む。三騎の赤い箒はマキシムに迫った。

 赤い箒が左右からマキシムの箒の動きを抑えるように接近する。二人掛かりで挟んで曲がり角を外側に引きずっていく。崖を折れた。その間にシュワイツの箒が上方に飛んでいた。

 マキシムの顔がわずかに歪んだ。

「その顔が見たかったぜ、大貴族のお坊ちゃん」

 赤い蛙のようにマキシムを飛び越し、シュワイツは嗤った。

「いつも涼しい顔をしやがって。先頭を奪われて悔しいか」

 はるか上空を医療団の箒が過ぎる。シュワイツが首位に上がるまでに斃されていった騎手を箒の担架で担送しているのだ。

「お上品なその顔が悔しさで引き歪むのが見れて嬉しいぜ。お前たち、やれ!」

 岩を砕いたような細かな隕石が塊になって飛んできた。二騎の赤い箒は左右から押し出すようにして間合いを詰めると、マキシムの箒をその隕石の流れの中に弾き飛ばした。シュワイツは吼えた。

「分かったかマキシム、てめえなんざは舞踏会で突っ立っているのがお似合いなんだ。これに懲りたら男の競技に出てくるんじゃねえ」

 しかし、マキシムは悔しかったのではなかった。赤い悪魔に向けてわずかにゆがめたその顔は怒っていた。箒競技を私怨の発散の場所と見做し、筋違いの復讐の場と見做し、危険行為を重ねて選手を潰していく者がいるならば、それがたとえ皇帝であろうとも、まっとうな箒競技者ならば怒りを覚えるだろう。マキシムの怒りはその怒りだった。

 シュワイツは振り仰いだ。飛び交う隕石の中でマキシムの箒が回っている。弾かれたように見えたマキシムは上空で一回転して体勢を戻すと、一瞬にして三騎の赤い箒を猛追してきた。

「ははははは!」

 谷間にシュワイツの笑いがこだました。

「追いついてきやがるか。さすがは最年少の『冠』だ」

 その哄笑はすぐに止んだ。マキシムはただ追うのではなかった。先程マキシムを押し包んだ赤い箒の一騎に狙いを定め、崖際に追い込んでいる。

 仲間が崖にぶつかる音をシュワイツは聴いた。マキシムは崖側に箒を寄せていき、赤い箒を追いやり、張り出した岩に衝突するまで、シュワイツの手下を逃がすことなく追い詰めていったのだ。

 高速で岩崖にのめりこんだ騎手が霧のような血を散らす。

 怒りで赤いのはマキシムだった。

 沈められた騎手たちの復讐をここで果たすと決めたかのように、マキシムは追撃の手を緩めなかった。箒を傾け反対側に飛ぶと、瞬く間に次の赤い箒を同じように崖に接触させて大破させていた。返り血が飛んだ。シュワイツ・バロンは口笛を吹いた。

「随分とご機嫌斜めみたいだな」

 笑いこそ引っ込めたが、シュワイツのその眼は燃え上がっていた。

「来いよ、大貴族のお坊ちゃん」

 仲間の死にシュワイツは昂奮していた。吹く風には野蛮な血の匂いが立ち込めた。金属を含有する隕石の破片を跳ね飛ばし、マキシムの乗る黒い箒がキィインと音を立ててシュワイツの背後に迫る。

「いつもスカしている野郎がどうした。貴族がその残虐な本性をむき出しにしたか。お前らから見たら俺たちは虫けらってことだな。上等じゃねえか」

 赤い箒が隕石を避けた。背後で黒い箒も同じようにやり過ごす。ばらばらと飛んでくる隕石にもし当たれば、それも死だ。流れる汗は恐怖ではない。喰い詰めて鉱山に流れ込んでくる凶悪な男たちと命をはって生きてきたシュワイツは動じない。赤い箒も主に応えて常よりも昂っている。

「追いついて来いよ鮮血の王子さま。血化粧が足りねえだろう。今から俺さまが真っ赤なぼろ雑巾みたいに摺り下ろしてやるぜ」

 二騎が狭隘を縫って飛ぶ。追いつ追われつしている二人の箒のはるか前方に、巨大な屏風岩が見えてきた。行き止まりに見えた。



 屏風のような岩山がぐんぐんと迫る。その壁面の中腹には一か所だけ細い隙間が空いていた。『カシニ間隙勲章杯』最大の難所、『間隙』だ。

「俺に云わせりゃ女のあそこだけどな」

 シュワイツは笑ったものだ。女は先に頂くぜ。

 岩山に貫通した細い孔。

 そこを通り抜けることが出来るのは一騎だけであり、二騎で入ろうとすれば二人とも崖に激突する。

 先に行かせるか後ろに下がるか、順番が前後するこの『間隙』で勝負を賭ける者もいれば、ここは先を譲っておいて後方から通過し、次の展開に勝機を求める者もいる。分かっていることは、岩山に穿たれたその隙間は一騎だけしか通り抜けることが出来ないということだけだ。

 シュワイツは不敵な笑みを浮かべた。狭く暗い坑道で箒の技術を身につけて育った男は『間隙』に対しても自信は崩れない。先頭集団を引っ張っていたマキシムもおそらく一番通過を狙っていたはずだ。真後ろから猛烈な速さで迫ってくるのも屏風岩に到達する前にシュワイツを追い抜かすつもりだからだろう。

 『間隙』の先頭通過。それを狙うのはお前だけじゃない。

 豪速で赤い箒を走らせながらシュワイツ・バロンは心臓の高鳴りを覚えた。岩山が近づいてくる。貫通した穴は下から上へと斜めに抜けて、反対側の円形闘技場に繋がっている。この先は隕石の来襲もない。度胸と速度のみの勝負だ。

「お前のその細っこい身体が崖にぶち当たって砕け散るか、俺がそうなるか。やろうぜ、お坊ちゃん」



 『間隙』を越した。屏風岩の反対側に箒が突き抜ける。マキシムの箒が天高く舞い上がった。天馬だ。マキシムの箒は空高く駈け上がり風と太陽の光を浴びた。円形闘技場に集まっていた大観衆はその背に翼を見た。

 青空を斬ったマキシムの箒は美しい弧を描き、降下し、そこからさらに一本の神の矢のように加速していく。黒い箒は神話の天馬のように観客の待つ円形闘技場に戻ってきた。

 後方集団の騎手が『間隙』を通り抜けた時には、マキシムの完全勝利を告げる鐘が晴れがましい音で円形闘技場に鳴り響いていた。

 遅れて円形闘技場に帰ってきたシュワイツはマキシムの姿を探した。マキシムは箒の勢いを落としながら観客の歓呼に応えて闘技場をゆるやかに一周しているところだった。

「なんだあいつ……」

 シュワイツの赤い箒は、すでに観客からも忘れられていた。悔し紛れにその顔に唾を吐いてやろうとシュワイツは勝者を待ち構えていた。出来なかった。

 マキシムはシュワイツとすれ違った。

 大貴族の甘やかされたお坊ちゃん。そう揶揄していた若者は、余力で流している箒の上でまったく何も見ていなかった。

 わずかな笑顔も得意も、高揚も充足も、疲労すらもそこには浮かんでいなかった。その両眼は今起こされたばかりのような不快感を漂わせ、シュワイツだけでなく熱狂して立ち上がっている観客も視界に入れておらず、冬の湖底に沈むようにして昏く閉じていた。

「なんだその眼は……」

 振り返ってマキシムの後ろ姿を見送りながら、赤い箒に乗ったシュワイツ・バロンは箒から降りることも忘れていた。どんな時にも挑戦的に生きてきた赤い悪魔はこの時、悪寒を覚えた。

 迫りくる風穴。黒い箒は赤い箒に並んだ。不敵に嗤いながら赤い悪魔シュワイツは追いついたマキシムの様子を探るために横を見た。

 血を浴びたマキシムは自死を決めた者の眼をしていた。壁に衝突していくつもりのようだった。前方に向けて速度を徐々に加速していた。

 一息に死ぬのではなく、命の鎖をその手で絞めるかのように、徐々に。

 直前で獣のような咆哮を放ち、シュワイツは直角に折れて風穴を回避した。その隣りでマキシムの箒は屏風岩の隙間に消えていった。

 祝福の花びらに包まれた闘技場では競技を終えた者が続々と集まってマキシムに祝いを述べていた。最年少の『冠』は軽く頷いて応えていたが、鮮血を浴びたままのその顔はやはり、虚ろな闇に吸い込まれていた。

 赤い箒に関心を寄せる者は誰もいなかった。最終走者が闘技場に戻ってきた合図のの鐘が鳴る。シュワイツは口腔にため込んでいた唾を大地に吐き棄てた。

 


》前篇(下)

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