Ⅲ 後篇(下)

 

 当然だけど俺の頭は彼女のことでいっぱいになってしまった。そうなるだろ、普通。

 エリーゼ・ルサージュ。

 エリーゼの耀く笑顔と白い首筋と小さな足。甘い香り。一晩中、彼女のことを想い出していた。

 天幕を張って遊んだこのあいだの森の中でも、人間も魔法使いも関係なく若い男全員でそうだそうだと頷き合って異論なんか一つも出ないままこっそりくすねてきた酒で乾杯して合意に至ったことなんだけど、男からみたら、女の子なんてみんなウサギちゃんだよ。可愛い。なんで服着てるのかな?

 翌朝、ホテルの室に届けられた新聞を開くと、昨夜の試合で円形闘技場に花を添えていたヘタイラたちの姿が載っていた。エリーゼ・ルサージュ。間違いない。

 俺はその新聞からエリーゼが写っている写真を切り抜いた。今頃ホテルでなにをしているんだろう。もう起きたかな。脚の怪我は大丈夫かな。また逢いたい。

 逢えるじゃないか。

 俺はすぐに気が付いた。俺も箒競技に出るようになったら、ヘタイラたちとお近づきになれる。聴いたところによると選手と付き合うヘタイラは多いらしい。いける。

 シーナ?

 シーナだってブラシウスとまんざらでもなさそうだった。それでなくてもシーナは男から常に声を掛けられている。俺だって女の子と付き合いたいよ。

 朝食を片付けに来たホテルの人が出て行くと、俺は寝台に仰向けに転がった。寝台の天蓋には何かの花の絵が描かれてある。

 アルフォンシーナ。

 きょうだいみたいに育ったから、本音のところ今さらどうすればいいのか分からない。俺が好きだと伝えたとしても、「そうなのテオ」と冷静に返されて終わる絵面がありありと浮かぶ。シーナは今どき珍しいほどの古典的魔女の資質と性格をもってるからな。

 そうなのテオ。それで?

 今頃は朝露の降りた森の中でシーナは薬草を籠に摘んでいるのだろう。人間と付き合わない代わりに、森の中の鹿や小鳥と魔女は仲良しだ。シーナ聴いてくれ、昨夜とても可愛い女の子と知り合ったんだ。俺よりも年上だけど彼女はヘタイラで魔法使いの男たちの羨望と垂涎の的なんだ。滅多に口も利けない高嶺の花なのに箒で二人乗りまでしたんだよ。


 そう、良かったわね。


 素っ気なく返される台詞まで正確に脳裏に浮かぶ。

 シーナならヘタイラの中に入ってもまったく見劣りしないだろう。シーナ、袖なしの白い衣を着てりんごの花の冠をつけてみて。きっと一番きれいだよ。そして箒競技の選手になった俺のところに天から降りて来て。ヘタイラ・アスパシア・ディオティマ・アルフォンシーナ。舞い上がる花びらと光の中に箒で降臨してくる俺の女神。

 シーナがヘタイラになったらブラシウスと付き合うんだろうな。俺とじゃなくて。

 そういえば、昨日のあの少年はあれからどうなったんだろう。

「俺が送るよ。せっかくこっちに出て来たのだから、テオはゆっくり魔都を観光していけよ」

 親切にもパキケファロ・デュ・ルッジェーロがそう申し出てくれて、あの少年をベルナルディの許に連れて行ってくれることになったけど。

 ごろごろと寝台の上で転がりながら、俺は昨夜のことを想い返した。

 今すぐ箒でエリーゼの泊まっているホテルまで行き、下から順番に窓の前を飛んで彼女の姿を探したい。

 そしてまた、あのことも想い出した。

 昔、シーナが水晶珠で映し出した像。冷たい雨の中でマキシムが抱きしめていたあの女の人。頭巾に隠れて魔女の顔はよく見えなかったけど、その手に持っていたのは、雨に濡れたヘタイラの花冠だ。

 室の扉が叩かれた。

「起きてるか、テオ」

 友だちが迎えに来たのだ。人間界で育った俺に圧倒的に不足しているのは魔界の知識と常識だ。マキシムが折に触れて教えてくれはしたけれど、自分に関係のないことだからと俺は真面目に聴いていなかったのだ。

「子爵家の養子になった以上はそのままは良くないぞ」

「まずは見学だ。遠足に行こう」

 魔法使いたちが、今日は俺を魔界観光に連れて行ってくれるのだ。

「僻地の暮らしを人間界でしていたわりには、一応の礼儀作法がよく身に付いたな」

 選帝侯にお恥をかかせてはなりませぬ。

 礼儀作法の教師だったティアティアーナ伯爵未亡人の口真似を俺がやってみせると、ばか受けだった。

「気になるのは、テオの姉弟子の魔女だよ」

「そうだよ、紹介してくれよ」

「邑に遊びに行った時も、ちらっとも姿を見せてくれなかったからな」

 それについては、ブラシウスがうまいこと云ってみんなの好奇心を止めたのだ。駄目だ、アルフォンシーナ嬢は誘拐事件からまだ心身が回復していない。だから無理に彼女に逢おうなんてするな。

「ブラシウスめ。独り占めして彼女を男の眼から隠したいんだろう」

「あいつの魂胆は分かるけど、アルフォンシーナ嬢だって、年頃になった令嬢が一堂に会する舞踏会には出てくるだろ」

 なにそれ。

「出れないよ多分」

 舞踏会のあらましを教えてもらった俺は少し哀しい気持ちになりながら首をふった。シーナには舞踏会の招待状は届かないよ。シーナは貴族の娘じゃない。

 すると何故か、魔法使いたちは盛り上がり始めた。

「簡単なことだ。選定侯とティアティアーナ伯爵未亡人とホーエンツォレアン家が、彼女の身元引受人になればいい」

「姉上に話を聴いたことがあるが、すごい人数が来るから、ひとりくらい紛れ込んでいても分かりっこないぞ。貴族の娘たちは順番に呼ばれて皇后と謁見するんだが、名が呼ばれなくとも知らん顔して控室に混じっておけばいいだけだ。こっそりテオの姉弟子を舞踏会に入れてしまおう」

 舞踏会なんてシーナは興味がないだろうな。でも、そういえばティアティアーナさんがいつか何かの折に、舞踏会について何か云っていた気がする。伯爵未亡人は声を高くして師匠に詰め寄っていた。

 まあ、そんな、貴方さまのお手許であんなに美しく育った乙女が、魔都の舞踏会で皇后と接見ができないなんて、そんなことがあり得ましょうか。


「嫁がせるですって。そんな、今想い付いたようなことを苦し紛れに仰って。テオフラストゥスさまならばお独りでもどうにでもなりましょうが、アルフォンシーナさまはどうなりますの。貴族階級に嫁ぐのならば猶更のこと、『冬の宮殿』で開かれる淑女のお披露目会に出ておかなければ、後々そのことで何を云われるかはご想像がつくのではありませんか。侯爵さまならばそんなことは気にもなさらないことは承知です、しかし他の方々はいかがでしょう。それはアルフォンシーナさまのお為になることでしょうか。

 そのお顔。騙されませんわ。考えているようなふりをしているだけですわよね。

 失礼ながら、こういう際に殿方が上の空でやり過ごしているのはお見通しなのですわ。

 わたくし昔から皇帝のご祖母さまの皇太后からは、お話相手として過分な寵愛をいただいておりますの。皇太后はご親切なお人柄でいらせられます。選帝侯の許にいる若い魔女のことをお耳に入れれば、きっとよろしいように取り図って下さいます。わたくし必ず、アルフォンシーナさまを舞踏会にお連れして、皇后謁見までこぎつけてみせますわ」


 シーナ贔屓のティアティアーナ伯爵未亡人は、本当にそうした。

 そのお蔭で、想わぬかたちでアルフォンシーナの運命は転がり始めるのだ。


「伝書鴉だ」

「あれはパキケファロの鴉だ。子爵領から飛ばしたんだな」

「手紙はテオ宛てだ」

 魔都観光で、俺たちは郊外の博物館に居た。

 鴉の足首に巻き付けられた薄い紙を開く。パキケファロからの短い文言にはこう書いてあった。ヘタイラ発見。ブジ。

 ルクレツィアさんが見つかったのだ。


 

 行方不明になっていたルクレツィアさんは愕くほど遥か遠くに行っていた。居場所を突き止めたベルナルディはすぐに少年に伝言を託して迎えに遣らせた。ルクレツィアさんは差し向けられたホーエンツォレアン家の空中馬車で戻って来た。

 お助け下さい。

 円形闘技場から、パキケファロに付き添われてベルナルディの許に連れて行かれた少年は子爵に逢うなり懇願した。

 どうかお助け下さい。ルクレツィアが死にかけています。

 ホーエンツォレアンの屋敷で待っている俺たちの許に戻って来たルクレツィアさんは、やせ細り、歩くのもやっとという様子だった。

 馬車に同乗してルクレツィアを迎えに行った少年は先に降り、御者が用意する前に、ルクレツィアが降りて来る馬車の扉の前に足置き台を出した。

「ルクレツィア」

 馬車が到着するなりベルナルディは馬車に駈け寄った。飛びつくようにして扉を開き、中をのぞく。

 馬車の中でルクレツィアさんは生まれたての赤子を胸に抱いていた。誰の子なのか分からないという。妊娠が分かった魔女は人知れず姿を消して、遠方の寒村で秘かに出産していたのだ。

 母の腕の中で赤子は弱々しい泣き声を上げ始めた。

「ルクレツィア……」

 ホーエンツォレアン子爵は絶句した。弟の立場の俺としてはベルナルディにかける言葉もなかった。何か役に立つことがあるかと屋敷に来ていた師匠とシーナも立ち尽くした。

「ベルナルディ」

 やがて師匠が声をかけた。ベルナルディは最初の衝撃からすぐに立ち直った。

「誰の子であろうと、母はルクレツィアだ。わたしが面倒をみてやろう」

 ベルナルディは戻ってきた恋人の為に屋敷の離れの瀟洒な館をいそぎ整え、そこに母子と少年を住まわせ、医師と乳母も手配した。難産だったのかルクレツィアさんは一回りも痩せており、何度もよろめいて、歩く時には少年の手を借りていた。そしてそのまま床に伏してしまった。

 赤子は男児だった。

「父親の名を頑としてルクレツィアは打ち明けない」

 複雑な内心と動揺に揺さぶられながらも、その感情を立派に押し殺してベルナルディは「まずは赤子と母体の健康が優先だ。ひどく弱っている」と駈けずり回っていた。

「あの赤子の父親はベルナルディよ」

 シーナが俺に囁いた。その顔が厳しかった。

「赤子は彼とルクレツィアの子だわ。これは、テオのせいよ」

「なんで俺のせい?」

 厳しい顔をしているのはシーナだけではなかった。マキシムまで怖い顔をしていた。師匠は身を屈めて女の手を取り、しばしの沈黙の後、寝台にいる魔女に呼び掛けた。

 ルクレツィア。

 他の者には分からぬくらいの囁き声で師匠は魔女に身を寄せて何かを訊いていた。ルクレツィアさんはマキシムを見詰めて、一度だけはっきり首を振った。

 シーナは俺に云った。

「彼女が懐妊を知ったのは、時期的にあなたが養子になることに決まった前後よ。ルクレツィアが赤子のことを秘密にしていた理由はそれよ。だってもし懐妊のことがベルナルディに明らかになったら、それが男児なら、その子がホーエンツォレアン家の正当な跡取りになるのだもの。ルクレツィアさんは嗣子になるテオの心情を考えて遠慮したのよ。誰にもばれないように、人知れず遠方で赤子を生み落としたのはそのせいよ」

「養子縁組を解消するよ」

 愕いて俺はとび上がった。

「二人の赤子が子爵家を継げばいいよ。元から俺にはそんなつもりもなかったんだから。俺は弟分だし、ベルナルディの子が直系であることは最初から承知の上だよ」

「それだけじゃないわ。あの少年を見て」

 ルクレツィアさんが連れてきた少年は背筋を伸ばして目立たぬ窓辺に立っていた。命の助かった母と赤子をまだ何かから護るように、魔女の寝台と揺りかごの傍から離れようとはしなかった。屋敷の柱にからみつく蔦の葉がその端正な顔に薄い影をつけており、少し幽霊のようにも見えた。

 人間に育てられた少年は自分が魔法使いであることすら、最近まで知らなかったと云った。

 ルクレツィアさんが弱っていくのを見た少年はあり合わせの箒を手に取ると、独りで未知の航路を辿り、ベルナルディに助けを求めて魔界に飛び込んで来たのだ。

「あの少年をよく見て、テオ」

 やがて俺もそれに気が付いた。心臓がぎゅっと縮んだ。

「わたしもそう想うわ」

 シーナの顔は険しく、その華奢な全身からは何かの焔が揺らめいているようだった。

 母と赤子に寄り添っている少年。航海士の勇気を持ったその少年には、師匠マキシムの面影があったのだ。


 

[Ⅲ・了]


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*次章からの内容の予告*

四)冒険は北へ

五)舞踏会

六)最終章

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