第17話 この一杯のために生きてる
「今日は飲むかぁ」
歩く牙人の影が、長く伸びている。住宅街には、おいしそうな香りが漂っていた。
——冷蔵庫には、何が残っていただろうか。
ひさしぶりの戦闘のせいか重さの残る足を動かしながら、食材の備蓄に思いをはせる。
味のあるレモンの絵がデザインされた、紺色の五百ミリリットル缶がいくつかと、マヨネーズにプロテイン。朝食に食べる好物のサラダチキンは、この前ストックを買ったので問題なし。それに……。
「ただいまー」
後ろ手にドアを閉めながら、真っ暗な部屋に言葉を投げる。当然、返事はない。気楽な一人暮らしだ。
最寄り駅から少し歩いたところにある、二階建て安アパート。その一〇三号室が、牙人の憩いの住処である。
とりあえず、靴下を脱いで洗濯機にぶち込む。手を洗ってから向かったのは、前の住居のときから愛用している小さめの冷蔵庫。
しゃがみこんで冷蔵庫の扉を開け放てば、そこには予想通りの光景。漏れ出る冷気の中に手を突っ込む。取り出した左手には、紺色のレモンサワーの缶が握られていた。
プルタブに人差し指の爪をかけ、親指を支点にカシュ、と引く。
口をつけて、缶を一息に煽った。よく冷えた液体が喉を滑り落ちていく。少し遅れて、刺激的な炭酸の中に溶け込んだ、レモンの爽やかな香りが、ふわりと口に広がった。
「あぁ~……」
苦みが混じりつつもすっきりとした余韻を楽しみながら、上の段から大きめのタッパーを取り出す。立ち上がるついでに、膝を使って冷蔵庫の扉を閉めた。
小さな楕円形の木製テーブルの上に缶とタッパーと箸を置くと、牙人はゆっくりとソファに腰を下ろした。
右手を伸ばして、リモコンを確保。斜め上に向けてボタンを押すと、小さな電子音とともにエアコンが稼働する。設定温度は二十三度。
「とりあえずこのくらいでいいだろ……っと」
呟きながら、牙人は体を背もたれに預けた。
間もなく涼しくなってきた空気を心地よく感じながら、再度レモンサワーを流し込む。
——結局、英司はやはり大した情報を持っておらず。
わかったのは、英司がコンビニを出るときに
友人と談笑しながらであったため、軽く謝っただけで相手の姿は覚えていないそうで、残念ながら「有力情報」とは言えなかった。そのぶつかった相手が荷物に“異能力暴走剤”を仕込んだ可能性は高いが、特定は難しいだろう。“局”の捜査網ならあるいは……とも思うが、実行するにしても、それは上の仕事である。
そんなわけで、英司はしばらく安静にさせた後、りこが付き添って家に帰した。高校生という身分もあり、さすがに日をまたいで拘束するというわけにはいかないのだ。
しかし、本当に面倒くさいことをしてくれたものだ。
あの黒い飴——“異能力暴走剤”を作った、“宵闇”とかいう組織。今まで特に気に留めてはいなかったが、今回のことで個人的な恨みができた。聞けば、栞に絡んでいたあの黒ずくめたちも“宵闇”だったとか。牙人がこの異能力界隈に足を踏み入れる羽目になったのも、もとはといえば彼らのせいである。
「うん、そう考えたら腹立ってきたな」
次にあの組織の連中に会ったら、もう少し強めに殴っておこう。
そんなひそかな決意もそこそこに、牙人は缶を置き、長い息を吐いた。
ゆっくりと体の奥が温まってきた。顔に火照りを感じ、エアコンの設置温度を少しだけ下げる。
続いてスマホを取り出し、動画配信サービスのアプリを起動。最近ハマっている異世界もののアニメを再生し、卓上のティッシュ箱にスマホを立てかける。
「……さて」
タッパーの中身は、トマトと卵と豚肉のオイスターソース炒め。少し前に料理レシピのサイトで見つけてから、宅飲みのお供の定番となった。ちなみに、本来のレシピよりも豚肉の量は多めだ。
「いただきます」
手を合わせて、箸を持つ。
うまみと塩気をふんだんに含んだソースに絡められた豚バラ肉。その香ばしい味わいを、スクランブル状に散りばめられた卵が、包むようにふんわりと和らげる。トマトの酸味はほのかな甘さを伴って、味にさらなる深みを与えていた。
冷めても色褪せないうまみが消えないうちに、空いた左手で缶を鷲掴んで、乱暴に口づける。塩気を洗い流し、それでいて調和するように、冷えた爽やかな酒が喉を駆け下りていく。
「ふぃ~……。この一杯のために生きてるな」
満足げに定型文を吐き出した牙人は、空きっ腹に流すように食べ進めていく。もちろん、間に挟むレモンサワーも忘れない。
アニメの中では、主人公が新天地での力試しをしている。魔法を派手にぶっ放して、爆発が起きた。
やはり、魔法というのはテンションが上がる。いつか異世界に行く機会があったら、ぜひとも使ってみたいものである。
——タッパーを持ち上げて、ラストスパートと言わんばかりに箸で掻き込んだときには、卓上の缶は三本になっていた。
今、飲み干した缶を叩きつけるようにテーブルに置き、四本目が生まれたところだ。ちょうどいいタイミングで、アニメのエンディングが流れ始める。
顔はだいぶ熱い。自然と少し大きくなった声で「ごちそうさまー」と手を合わせる。
「あー……飲んじゃったし筋トレは明日の朝やろう」
ぼーっとする頭を心地よく感じながら天井を見つめていると、『ピンポーン』という音が牙人の鼓膜を震わせた。
「ん……宅配便頼んでたっけな……」
頭を掻きながら面倒くさそうに立ち上がった牙人は、片手を腰に当てながら扉の前まで行く。サンダルを突っかけて、ドアノブを捻った。
「こんばんは」
——そこにいたのは、銀色だった。
いや、より正確に言うならば、銀色そのものと見紛うほどに美しい髪を持った少女、である。腰まで伸ばした艶のある細い髪が、月明かりにきらきらと輝く。儚げな美貌に埋め込まれた
触れたら消えてしまいそうな、ガラス細工のような雰囲気をたたえて、少女はじっとこちらを見ていた。
口を開けて間抜け面をさらしていた牙人は、我に返って「あ、ああ……」と漏らす。一気に酔いが醒めた気がする。
海外の人だろうか。どこからどう見ても、極東の島国出身ではない。
「あいきゃんのっとすぴーくいんぐりっしゅ」
「日本語で大丈夫」
早口で言い放った牙人に、透明な水が流れるような声で、銀髪の少女が淡々と言葉を紡ぐ。
「条件反射でつい……」
「今日からあなたの隣に住む。よろしく」
「はあ……」
「? 地球では引っ越し先の近所の人間に挨拶すると聞いていたけど」
可愛らしく首を傾げた少女は、不思議そうにそう呟いた。
「地球では」だなんて、まるで宇宙から来たとでも言うかのようだ。
天然発言に苦笑して、牙人は口を開いた。
「いや、合ってますよ。狼谷牙人です。隣ってことは……一〇二号室か」
一〇四号室の方には、すでに先住民がいる。
無言でうなずく少女。
「ワタシは
なぜか「女子高生」の部分を強調して、少女——すてらは名乗った。
どうやら敬語は使わないタイプだ。
「佐藤? 日本人なんですか」
「いや、ワタシは……何でもない。海外で育った日本人だけど、日本の学校に編入することになった」
何か言いかけたようにも見えたが、お隣さんとはいえ赤の他人。踏み込んで聞くほどのことではないだろう。
「引っ越しの挨拶にはそばがいいと聞いた」
言いながら、すてらが包みを差し出す。毛筆風のロゴで「そば」の文字。
「おお、こりゃどうも。……じゃあ、よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
軽く会釈をして、牙人はドアを閉めた。
もらった引っ越しそばを、丸テーブルの上に投げ出す。
「まさに、美少女って感じだったな……」
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