◎3

 一方、アルコは噴水広場から二キロほど離れた町外れの教会で簡易的な野戦病院を設置した。それは口伝えに広まり医療従事者をはじめ、傷ついた人々が続々とアルコの野戦病院に来院する。教会内の礼拝堂には所狭しと傷病者がヒヨコの雌雄鑑別のように仕分けられて寝そべっており、足の踏み場もないほどだった。その患者たちの腕にはそれぞれ緑、黄、赤、黒のタグが留められている。アルコは人手が足りないため無傷タグなしの一般人の大きな胸が特徴的な少女に協力を仰いだ。


「そこのあなた」

「わたしですか?」

「そうです。手を貸してください」


 アルコの真剣な眼差しにその少女は気後れしたように戸惑う。


「でもわたし医療の知識なんてこれっぽっちもありませんよ」

「安心してください。あなたは今生きています。そして生きている人にしか救えない命があります」


 これは私の敬愛していた医師の言葉です。

 一瞬だけ回顧してからアルコは切り替えて問う。


「あなた名前は?」

「スイカ……スイカ・メロンウォーターです。父を探してたんですけどどうやらこの教会にはいないみたいですね」

「そうですか。きっと見つかりますよ」


 気休めだと受け取られるかもしれないという考えなど目の前の人の中には微塵もないようだとスイカは感じた。真っ白な心の持ち主なのだろうと思いながらスイカは尋ねる。


「えっとあなたは……」

「名乗り遅れました。私はアルコ・ドラゴンハート。医者です」


 そして手短にアルコは自己紹介すると、続けてこの野戦病院のルールをスイカに説明した。


「ここではトリアージ方式を採用しています」

「ドラゴンハート先生――」

「アルコでいいですよ」

「……ア、アルコ先生」


 スイカは言い直してから、改めて言葉を紡ぐ。


「トリアージって何ですか?」

「トリアージとは患者の重症度に応じて色分けを行い、選別する方法です。緑タグは歩行可能で緊急性が少ないのでひとまず待機。黄色タグはバイタルサインは安定しているものの早期に治療が必要な者。赤タグは生命に関わるほど重篤な状態であり即刻処置が必要不可欠な者です」


 アルコは医療用マスクの四隅から四方に伸びる紐を後頭部で結わえながら答えた。それを見よう見まねで紐マスクを結ぼうとするがなかなかうまく結べないスイカを見かねてアルコは手を貸す。その最中スイカは横たわる人々を見つめて質問を重ねた。


「ですとアルコ先生、黒タグの患者さんはどうすればいいんですか?」


 スイカの質問にアルコはマスクの紐をギュッと絞ってから無情に答えた。


遺体安置所モルグに安置してください」

「え?」

「その人はもうすでに死んでいます」


 どこか感情を押し殺すようなアルコだった。

 死屍累々、死山血河の上層部にいる者しかここでは生き残れないのだ。いや、こんな状況でなくとも世界とはそういうものなのだろう。スイカは見ないようにしてきたものをはじめて理解した。どこかで線引きし選別しなければ助かる命も助からないということだ。

 とそこでスイカの足にすりすりと温かな感触が伝わった。それはカラフルな毛玉に四足の生えた世にも奇妙な生き物である。その生物はスイカの匂いをクンクンと嗅ぎながら何かを強く訴えるように「ニャー」と鳴いた。


「まったくどこ行ってたんですか、カビル」


 アルコは腰に手を当てて小言を言った。

 それから教会の扉が開け放たれるとズリズリと何やら引きずるような音が聞こえる。そこにはなんとアルコたちの砂漠越えを手伝ってくれたラクダのラックがいた。ラックは足を怪我しているようで血を流しており足を引きずっている。そしてその背中のこぶの間には雪の降り積もったとある人物が担がれていた。アルコの顔を見て安心したのかラックは体力の限界を迎えたようにぐったりと座り込んでしまう。


「ラック!」


 アルコが駆け寄ろうとするよりも早く真隣の人物が走っていた。


「お父さん!」


 スイカは涙をちょちょぎらせながらラックの担いだ男性に近づいた。そのスイカの父親らしい男性の顔を見てアルコはさらに驚くことになる。


「……八百屋のおじさま」

「アルコ先生、うちの父を知っているんですか?」

「え、ええ。私の命の恩人です」


 言いながらアルコは八百屋のおじさんをラックから降ろすと仰臥位のまま、呼びかけて意識と呼吸を確認する。それから胸に聴診器を当てるが無音の静けさだった。


「息をしていません。それに心臓も止まっています」

「え?」

「すぐさま心肺蘇生を試みます」


 そう言うとアルコは八百屋のおじさんの胸に両手を重ねて置くと、何度も胸骨圧迫して心臓マッサージを始めた。胸が深く沈み込みボキボキッとあばらの折れる音が教会の礼拝堂内の悲鳴と相まって賛美歌のように響いた。アルコは心臓マッサージを続けながらラックを見つめる。どうやら足が折れているようだ。しかし非情な決断を下さねばならない。ラック、ごめんなさい。もうちょっとだけ頑張って。命の重さは平等だとわかっているが、平等ゆえにすべては救えない。どうしても動物は後回しになってしまう。

 スイカは涙目でアルコに懇願する。


「わたし人工呼吸でも何でもしますから父を助けてください」


 すると本当に人工呼吸しようとするスイカにカビルが肉球パンチを食らわせた。


「なにしゅるんですかぁ~」


 鼻を押さえながら言うスイカ。しかしこればっかりはカビルが正しいとアルコは思った。竜痘が蔓延るなか粘膜接触をするなど自殺行為だ。そしてカビルは近くに置いてあったアタッシュケースを起用に丸い背中に担いで運んできた。そのアタッシュケースをアルコは受け取ると中から用手換気バギングを取り出す。ちなみにバギングとはバルブマスクと自己膨張換気バッグが結合された医療道具である。バルブマスクで患者の口と鼻を覆い、空気の溜まったバッグを手で押し潰すことによって肺に空気を送り込むのだ。


「なのでキスなどという汚らわしい行為はしなくていいんですよ」

「アルコ先生……過去に何かあったんですか?」

「いいえ。なんにもありませんよ」

「……さらに怖さが増した」


 怯えるスイカをよそにアルコはバルブマスクを八百屋のおじさんに装着する。スイカに空気バッグを両手で握らせてアルコ自らも手を重ねて空気を送り込む。八百屋のおじさんの肺は膨らみ、そしてもう一度バギングで空気を送り込んだ。アルコはまたすぐに一分間120回の心臓マッサージに戻る。


「バギングは30秒間に一秒かけて二度空気入れを行ってください。私も合図を出しますのでスイカさんはバギングをお願いします。はい、今!」

「はい。こうですね」


 スイカはバギングを二回押し潰してアルコは八百屋のおじさんの肺の動きと呼吸に注視する。


「さあ帰ってきなさい。あなたのかわいい娘さんが待っています」

「お父さん、死んじゃ嫌だよ」


 アルコとスイカが口々に言ったところで八百屋のおじさんは「カハッ」と咳き込み、息を吹き返した。八百屋のおじさんの胸にアルコは聴診器を当てている間もスイカは父親に声をかけていた。


「お父さん、聞こえる? わたし! スイカだよ!」

「あ、ああ……スイカか。どうしてこんなところに……」


 まだ意識混濁の見られる八百屋のおじさんの心肺はひとまず無事回復した。娘の前で黒タグをつけずに済んだとアルコが安堵していると、スイカは感謝の気持ちを述べる。


「アルコ先生、うちの父を救っていただき本当にありがとうございました」

「いいえ。あなたのお父さんを救ったのはスイカさん、あなたですよ」


 アルコは微笑みながら泣きじゃくるスイカを勇気づけるように答えた。


「スイカさん、あなたはもっと多くの人を救えますよ」

「は、はい。アルコ先生!」


 それからついでに腕に裂傷を負った八百屋のおじさんを麻酔なしで縫合する。傷口にアルコは手を当ててアルコール菌でこれでもかというくらいにビチャビチャにした。それから医療用の針と糸でパックリと裂けた患部を縫い付ける。


「ぐおっ!」


 八百屋のおじさんはたまらず呻いた。


「じっとして。我慢してください」

「気を失っているうちに縫っててくれればいいものを……」

「そんなことしているうちにあなた死んでいましたよ?」


 しかし恨み言を言うのは元気がある証拠だとアルコは感心しながら治療を続ける。


「それに痛いってことは神経も機能してるってことじゃないですか」

「ふん。悪いこたー言わねえ、はやく終わらせてくれ。じゃないと死んじまう」


 八百屋のおじさんはふて腐れたように言うと、アルコとスイカは顔を見合わせて、それから同時に笑った。無事治療も終わったのちアルコは今回の功労者を称える。


「カビルとラックのお手柄ですね」


 アルコが教会の入り口付近に目を向けると、四本足を畳み横たわるラックの傍でカビルが悲しげに鳴いていた。ラックの長いまつげが雪で白く染まっており綺麗なものだった。しかしそのくりくりした瞳が開くことはもう永久にないとアルコは悟った。アルコは医療用手袋を外して世界中の誰よりも清潔な素手でラックのふさふさの頭をやさしく撫でる。


「ごめんなさい。ありがとう、ラック。お疲れさまでした」


 そこでようやっとアルコはラックとの旅が終わった気がした。プトラプテスに入国前の砂漠越えもラックがいなければ野垂れ死んでいた。スイカは泣きながらラックの亡骸にお礼を言ってそれを八百屋のおじさんはなんとも言えない表情で見つめていた。


「悪いこたー言わねえ、この命大切にするからよ」


 八百屋のおじさんは仰向けのまま教会の天井画に描かれた楽園の天使たちに誓った。

 すると突如、教会の外が天国のようにパッと明るく光り輝いた。教会のステンドグラスからまばゆい光線が差し込んだ。周辺の列強諸国から新型特殊爆弾でも落とされたかとアルコは嫌な想像を膨らませたがどうやら時期尚早らしい。しかしたしかあっちはキンタロウが戦っている方向だとアルコは焦燥感を募らせるばかりだった。


「私が見てきます。みなさんは落ち着いて待っていてください」


 アルコは内心の不安を伝染させないように気を付けつつ、スイカ親子と他の患者を置いて一旦教会の外に走り出た。そこでアルコは噴水広場上空に燃え盛る神宮寺が建立されているのを発見した。夕焼けのように空が燃えており炎の不死鳥が出現すると、神宮寺にダイブして焼き払った直後、お風呂場の栓を抜いたように不死鳥とともに神宮寺はとぐろを巻いて消えた。ただ事ではないことは火を見るよりも明らかだった。アルコは一歩二歩と戦禍に吸い寄せられるように歩を進めて気づけば叫んでいた。


「キンタロウ――!」


 アルコが名前を呼んだ――刹那、呼応するがごとく超巨大キノコ雲から青い炎が火柱となってアルコの背後の教会に貫き立った。アルコは戦慄した。目を丸めながら呆然として振り向くと、教会は一瞬にして消し炭となった。凄惨な悲鳴が次々と上がったが、それもすぐに収まった。そしてまるでレントゲン写真のようにその青い炎の中でひとつの親子の生命が儚く途絶えた。アルコはそのときの、この世のものとは思えない綺麗な親子の顔を一生忘れることはないだろう。

 アルコはその場に膝を突いて慟哭どうこくした。


「あ、あっあぁあああああああああああああああああああああああああああ!」


 大粒の涙を流しながら過呼吸を起こしてしまうほどにアルコは嗚咽を漏らした。隠しようもない感情が溢れて止まらない。その啼泣ていきゅうを浴びながら、カビルはアルコにすり寄って慰める。

 しかし落ち込んでいる時間もなかった。アルコは突如咳き込み、口元を押さえた手を見やると大量に血が付着していた。こめかみに竜のあばたが浮きはじめ、どうやら世界竜に体が反応して竜痘が急速に進行しているようだった。さらに追い打ちをかけるように青い火柱が次々と大黒柱のごとく屹立すると、アルコを中心に円状に取り囲んだ。青い火柱の牢獄に幽閉されてしまったアルコは自分の人生の終わりを悟った。


「ここまでのようですね」

 

アルコが最後に思い出すのはお母様とお父様をはじめ、救えなかった人々の顔だった。そして今や顔も思い出の中でしか思い出すことのできないあの人。最後に会いたかったなぁ。話したかったなぁ。どうして私を置いて行かれたのか。聞きたかったなぁ。

 そこでシャランシャランと思い出の奥から音が聞こえた。その音はまだ諦めるのは早いと言っているようにアルコには聞こえた。そしてアルコは自身の首に掛かった鎖をたぐり寄せると青い歯車の笛を握手するようにがっしりと掴んだ。


「竜呼びの笛」


 お母様から聞いた言い伝えが蘇る。


――『この竜呼びの笛は時計の針が止まったとき、すなわち世界の終わりにしか鳴らない』


 アルコは恐る恐る青い歯車の中心の銀時計を見やると時計の針は絶対零度のようにローマ数字の1010分を指して止まっていた。


「止まっ……てる」


 アルコは驚きのあまり固まってしまった――その次の瞬間、アルコの真上から火柱が霹靂のごとく落ちる直前に辺りを骨が透けるほど青く染め上げた。アルコは口元の色を失った血を拭ってから竜呼びの笛の十二個の吹き込み口のうちのひとつを口に含む。そしてゆっくり目を閉じた。鼻から息を吸って肺を膨らませて口腔内にハムスターのように空気をいっぱいに溜めてから一気に吹いた。

 それと同時にアルコは青い炎に包まれ、その身を任せた。しかし不思議と体は熱くはなかった。むしろ浮遊感を覚えるようでいてまるで水中にいるようだった。アルコは昔、アルコール菌で無菌城を冠水させたときのことを思い出した。さらにはもっと昔、お母様のおなかの中にいたときのような妙な安心感もあった。このまま溶けてしまいたい。


 そう思いながらアルコが目を静かに開けて上に視線を滑らせると、そこには透明な竜がいた。丸い透明なリングの水の翼の間には虹が架かっており、蛙のような手足と丸い尻尾が生えている。顔はイルカのように流麗で体表を絶えず水が流れ、降り注ぐ青い炎を受け流している。シースルーの体内の中心には青いマーブル模様の球体がドックンドックンと鼓動していた。アルコはその透明な竜の前足の間に隠れるように守られていた。


「あなた……カビル?」


 アルコは確信しながらも尋ねた。猫にしてはなんかおかしいなと思ってはいたが、まさか竜の子とは……ツチノコ並みの大発見だった。これではカビルではなく黴竜カビリューである。

 しかしその透明な竜は黴というにはあまりにも相応しくないほど澄んだ瞳でアルコを一瞥したのみだった。ウォーターリングの翼を広げると虹の輪が地面に対して平行に広がり周囲を取り囲む青い火柱と折衝したのち鎮火させた。というよりは消し飛ばした。

 呆気にとられて言葉も出ないアルコにカビルはしゃがみ込んでぴちゃぴちゃと体を寄せた。


「私に背中に乗れってことですか?」


 アルコが尋ねるとカビルの体表の水が大きく二回波打った。

 アルコが決心してからカビルの体に手をつくと、カビルの体表の水が昇りアルコは滝昇りするようにカビルの体を遡上する。直後、カビルは透明な翼を羽ばたかせる。雫の水鱗をまき散らしながら飛び立った。リングの翼を掴んで周りの風景とともに水が後ろへと流れていく中でアルコは必死に振り落とされないようにして枯れた噴水広場へと向かった。

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