◎2

「ただいまですじゃ」

「遅かったな、竜爺りゅうじい


 キンタロウに竜爺と呼ばれた人物は蒼い竜の仮面を被ったおじいさんのようだった。住所不定者のようなボロ布のローブを纏い長靴を履いている。片手に所持した紙製の手提げ箱を向けて竜爺は言い訳っぽく言う。


「ちょっとした野暮用ですじゃ」

「そうか。待ちきれなくて先に夕飯食べちまったぜ」

「構いやせんですじゃ」


 竜爺は長靴を脱ぎながら見慣れない白いブーツに気づき、そのまま顔を上げるとアルコと目が合った。


「お邪魔してます」


 わざわざ立ち上がって育ちのよい挨拶をするアルコを見て竜爺は竜面の下で笑う。


「キンタロウもすみにおけんですじゃ」

「勘違いすんな。そういうんじゃねェよ」

 というわけで新たに囲炉裏仲間に竜爺が加わった。竜爺はなめ回すようにアルコの全身を視姦した。

「金色の髪に青い瞳。まるでお人形さんのようなおなごですじゃ。目を合わせるには首が痛くなりそうじゃが」

「……無理して見上げなくていいですよ。竜お爺さま」


 アルコは苦笑してから気遣うように座り直した。


「お褒めくださりありがとうございます。ドールといえば清潔の代名詞ですからね」

「……んーなんかズレてんだよなァ」


 キンタロウは首をひねってから双方に紹介する。


「こっちの珍奇な面を被ったのが竜爺でそっちの潔癖症が王女だ」

「潔癖症ではありませんけれど……」


 アルコは即否定してから改めて肩書きとともに自己紹介した。


「私はこのディカリア王国王女のアルコ・ドラゴンハートです」

「じゃじゃっ?」

「竜お爺さまもどうかお見知りおきを」


 竜爺は目を丸めてからあわてたように頭を下げる。


「こ、これは王女様とはつゆ知らず……。うちのキンタロウが無礼な態度をとったとは思いますがどうか許してやってくださいですじゃ」


 これが当然の反応なのだろう。キンタロウが変わっているだけで。

 アルコはなんだか威厳を取り戻したような気になって余裕を見せる。


「竜お爺さま、どうかお顔を上げてください」

「そんな滅相もない」


 竜爺はかしこまったままアルコに尋ねる。


「そもそもどうして王女様がこんなみすぼらしい団地くんだりまで来たんですじゃ?」

「そ、それはですね。王女みずから実地調査というかモルドの人たちと触れ合いたいと思いまして……」


 まあ実際はアルコは触れ合うどころかタコ殴りにしたあげく酔っ払って倒れたところをキンタロウに介抱されたのだが……。そんな事実は恥ずかしくてとても言えなかった。

 首をかしげてピンときていない竜爺に深く聞かれる前にアルコは尋ね返す。


「そういえば、キンタロウのお父様とお母様はまだお帰りになられないのですか?」

「ああ。もう帰ってこねェな」

「え?」


 おざなりに答えるキンタロウにアルコは嫌な予感がするとそれは見事に的中した。


「俺の両親は俺がガキの頃に病気で他界したからな」

「……す、すみません、私」

「気にするな」


 よくあることだという風にキンタロウは続けた。


「そして行く当てもなく彷徨っていた俺と生まれたばかりの妹は竜爺に拾われてから一緒に暮らし始めた。血縁関係はねェが俺は本当のじっちゃんだと思ってる。命の恩人だよ」

「懐かしい話ですじゃ。キンタロウがまだ細菌みたいにちっこい頃ですじゃ」

「そんな小さかねェよ?」


 竜爺は蒼い竜面を外さず照れくさそうに位置をずらすとキンタロウがお酌したお酒をグイッと煽った。

 どうしても竜面は外さないつもりらしい。何かしら事情があるのだろうと、アルコールマンの顔も持ち合わせるアルコはあえて聞かずにおじいさんと孫の酔態を微笑ましく眺めていた。


「その妹さんはどこにいらっしゃるんですか?」

「奥で寝てるよ」


 素っ気なくキンタロウは答えた。

 すると突如、前触れもなく竜爺の仮面の奥の瞳が光ると竜のような眼光がアルコの胸を貫き、アルコは一瞬怯んだ。


「おぬし、その笛は……」

「あ、あーよく笛ってわかりましたね。これをひと目見て笛だとわかる人は稀ですのに」


 アルコは首から黒紐で提げた歯車のような青い笛を手に取った。ラピスラズリでできた放射状に十二個の吹き込み口のある奇妙な形の笛である。


「これはディカリア王国建国以来、王位継承者に受け継がれる『竜呼びの笛』なのです」


 そう説明してからアルコは笛の中心の丸い銀蓋をパカッと開くと、そのなかではミニチュアの心臓を貫いた長針が短針を追いかけて回っていた。背景には内部品であるいくつもの歯車が噛み合い回っているのが見て取れる。そんな懐中時計の尖った秒針の先端をカビルは必死に目で追っていた。


「なにもこの竜呼びの笛は世界竜の喉仏の骨で作られているとか。私のお母様から聞いた言い伝えによれば笛の中心の時計の針が止まったとき、すなわち世界の終わりにしか鳴らないそうです」

「……世界の終わりにしか鳴らない」


 キンタロウが口の中で繰り返す横で竜爺はポツリと漏らす。


「混沌の空に救世主出ずるとき、青き太陽が昇る」

「やはり竜お爺さまはご存知なのですか? この笛のこと?」


 実はアルコ自身もこの笛について深くは知らない。

 すると竜爺はふと我に返り誤魔化すように笑った。


「がっはっは。王女様が知りたいようなことはワシは知らんですじゃ。じゃが、その竜呼びの笛はいずれ世界を救うはずですじゃ」

「こんな酔っ払いが救世主じゃ救われる世界もたかが知れてんな」

「誰が酔っ払いですか」


 アルコはキンタロウに白い目を向ける。

 それに本当はこの笛を受け取るべき人は別にいたのだ。

 口惜しくもアルコは立ちあがる。


「どこ行くんだ?」

「……」

「もしかして怒ったのか?」

「お花摘みです」


 アルコは若干頬を赤らめた。


「言っとくが、うちはボットン便所だからな」

「ボットン便所って不衛生の極みじゃないですか」

「意外と便利なんだぜ。肥料に使えるしな」


 前向きなキンタロウにドン引きしつつアルコは奥まった部屋の襖に手を掛けた。


「おい、そっちの部屋は……!」


 慌てた様子でキンタロウは腰を浮かせたが時すでに遅し。

 その開かずの間は開け放たれた――刹那。


「入るな!」


 と、キンタロウは鬼の形相でアルコを制止した。

 その部屋でアルコが見たもの、それは敷き布団に横たわる少女だった。薄桃色の髪は生まれてから一度も切ったことがないのではないかと思わせるほどに長く、その少女は口元にガーゼマスクを着用している。


「おにぃ?」


 少女は呟いてから半身を起こそうとするが激しく咳き込んでしまい身を起こすことすらままならない。そしてガーゼマスクには血が付着していた。

 すぐさまキンタロウが駆け寄り少女の肩を支えた。


「セツ、無理すんな」


 セツと呼ばれた少女の瞳は充血しておりこめかみには青紫の血管が浮き上がっていた。それに加えて右側頭部から額にかけて水ぶくれが乾いて竜の鱗のようなカサブタとなり、それは竜痘の症状と合致する。呼吸器や消化器にも同じような病状が出ているはずである。

 アルコはつい癖で病気の進行具合を視診する。

 そしてこの竜鱗の大きさから見て。


「ステージⅣ――末期の世界竜痘せかいりゅうとう患者」


 竜痘は死刑宣告も同義。

 末期ともなれば長くて一週間生きればいいほうだ。

 この竜痘は空気感染、飛沫感染、血液感染、接触感染と感染経路に隙はなく不活化がほぼ不可能なレベルなので今日までワクチン開発は成功していない。低温と乾燥に強くエーテル、抗生物質ペニシリン、アルコール、ホルマリン、紫外線、放射線に晒しても不活化どころか弱毒化にも到らないのだ。それほどまでに竜痘菌は破滅的な生命力を誇るのである。現段階では竜痘ワクチンなど夢のまた夢の産物といえる。


「おにぃ、そっちのお客さんは誰ね?」


 セツは苦しげに尋ねるとキンタロウは妹にしか見せない顔でやさしく答える。


「こいつは酔っ払いのアルコだ」

「誰が酔っ払いですか」

「へえ、アルコさんっちゅうとね」


 セツはマイペースに自己紹介する。


「初めまして、セツの名前は雪菜姫せつなひめっていうと。セツって呼んでよかけん」

「よろしくね、セツちゃん」


 アルコに笑顔を返すセツのガーゼマスクをキンタロウは取り替えながら言う。


「あっ、そうだ。セツに誕生日プレゼントがあるんだぜ」

「ほんなて?」

「ああ」


 どうやら今日がセツの誕生日のようだ。アルコは瞬時に理解するとともにおそらくキンタロウはセツの竜痘のことを隠したかったのではないだろうかと思った。そこに初めてキンタロウの人間味をアルコは感じた。いやむしろこの男は人間臭すぎるのだ。


「セツの好きな苺のショートケーキもあるぞ。竜爺が貰ってきたんだ」

「これくらいしかワシにはできやせんですじゃ」


 竜爺の持っていた箱にはどうやらショートケーキが入っていたらしい。アルコも気にはなっていたがあまり初対面でずけずけ訊くのは悪いかと遠慮していたのだ。


「でもまあケーキは明日食べような、セツ」

「うん。いま食べたらイチゴ味か血の味かわからんけんね」

「…………」


 なかなかにブラックジョークを飛ばす妹である。この妹にしてこの兄ありだとアルコは思った。

 するとセツもお返しとばかりに布団の下でもぞもぞとする。


「実はセツからもおにぃにプレゼントがあるとよ」

「マジか」

「うん。おにぃみたいにはうまく編めとらんやろうばってん、サイズは合うとるはずよ」


 セツは布団の下から青い手編みの手袋を取り出してキンタロウに差しだすと、さっそくキンタロウはその手袋を嵌めてみる。サイズはすこし大きかったが五本の指は収まったので上出来だった。大は小を兼ねるのである。


「あったかいな」

「そうやろうもん」


 セツは自慢げに言った。

 キンタロウは手袋を嵌めたまま灰色のつなぎのポケットに手を突っ込むと、今度はお返しにセツにとある物を手渡した。


「ほら。これやるよ」

「うわぁ、きれいかぁ」


 それはプリンスノー製のスノードームだった。その名のとおりプリンの入ったスノードームである。


「セツ、誕生日おめでとう」

「ありがとう。おにぃ」


 しみじみと二人は微笑みあった。そこへカビルが寄ってきて一緒にスノードームをのぞき込むと魚眼レンズに閉じ込められたように歪んで囲炉裏の炎がちらちらと見えた。

 するとそんな温かな雰囲気とは裏腹にセツは切なそうな表情に変わる。


「なして……おにぃはセツと一緒にいてくれると?」

「そんなもん……」


 キンタロウはそこで初めて言葉に詰まった。

 それからセツは続ける。


「どうせ死んじゃうとに……セツ」

「そんなこと言うなよ。あの世で母ちゃん泣くぜ?」


 キンタロウは暗くならないように努めて言う。


「セツ、俺はな、おまえが生まれてきてくれて感謝してる。セツの兄で本当によかった」

「おにぃ」

「それに安心しろよ。この世に死んじゃわない奴なんていねェから」


 キンタロウはセツの頭をポンポンと撫でる。


「な? だから、もう休め」

「うん」


 そう頷いてセツは布団に横になりながらも話し続ける。


「ねえ、おにぃ」

「なんだ?」

「セツの生まれた日に本物の雪が降ったとやろ?」

「ああ。母ちゃんが言ってたからな」


 キンタロウは回顧するように言った。


「うん。だけんね、セツはもう一度だけ本物の雪が降ったら病気が完治するとやなかかなぁ。また生まれ直せるとやなかかなぁって、思っとっと」

「……セツ」

「長い間看病されて、これ以上おにぃの負担になりとうなかとよ。おにぃはもっと高く飛び立つべきたいね」

「ばかいえ。負担なんかじゃねェよ」


 悔しげにキンタロウは言い返した。

 それは兄の意地だったのかもしれない。


「たった五年じゃねェか。そしてこれから俺は何十年でも付き合うぞ」

「……五年?」


 ンン?

 アルコは引っかかった。

 兄妹水入らずを邪魔してはいけまいと思い、今まで黙って聞いていたがさすがにこれは聞き流せない。今なんと言った?

 五年ですって?

 ちょっと待て。ここは冷静に。

 竜痘に罹って五年生存しているなんて症例は聞いたことがない。発症から一ヶ月程度で死に至る病のはずだ。

 アルコは訊かずにはいられない。


「ちょっとキンタロウ、ひとつ尋ねてもいいですか?」

「ああ? なんだよ?」

「キンタロウはセツちゃんが竜痘を発症してから五年間も看病しているのですか?」

「だから五年なんて短いっつってんだろうが!」


 いや、いくらなんでも五年は長過ぎる。言葉を選ばないでいいのならこう言ってしまってもいい。

 この少女はなぜ生きている?

 そんな不謹慎なことを思いながらもアルコはいまだかつてないほどに興奮していた。


「確認ですけれど、間違いなく発症から断続的に五年は経過しているんですね?」

「実は一年かもしれねェな」

「嘘をつかないでください」


 まったく、この男は。

 アルコがキンタロウを睨みつけていると、


「うん。セツも五年は経過しとると思うばってん」


 と、セツも同意した。


「セツ、毎日日記ば付けよるけん」


 いわゆる闘病日記。それも五年分をセツは書き留めているらしい。

 アルコは目の前の少女に敬服しつつお願いする。


「セツちゃん、その日記を読ませてもらうことって可能ですか?」

「悪趣味なヤローだな」

「キンタロウには聞いていません」


 アルコは即座にたしなめた。

 どうか黙っててほしい。

 いま歴史が動きそうな予感がするのだ。


「別によかばってん。セツ、字は上手じゃなかよ?」

「ぜんっぜん一向に構いません」


 というわけで、了承を得てからアルコはセツのピンクのかわいらしい日記帳を読み漁る。そこにはたしかに竜痘と思われる症状が書き連ねてあった。高熱や嘔吐、肺の機能が低下して息苦しくて寝られない夜をいくつも乗り越えてきたのだ。心が折れそうになったことは一度や二度ではなかった。それはひとりの少女が自分の人生と真剣に向き合ってきた証だった。


「ありがとうございました」


 アルコはお礼を言って日記を返却する際に「それから」と、セツの手首をガッと掴んだ。


「ひぃ……アルコさん、怖か顔してどがんしたと?」

「セツちゃん、もしよかったらですけれど……唾液、血液、竜鱗カサブタ、髪の毛、爪、耳垢を採取させてもらってもいいですか?」

「この変態が!」


 とうとう我慢できずにキンタロウは叫んだ。


「キンタロウ、あなたも同様に採取させてください」

「このド変態が!」


 キンタロウは繰り返したが、アルコも引けなかった。獲得者も貴重なサンプルであることに変わりはない。これも医学の進歩のためには必要なことだ。

 セツは困惑したように問う。


「アルコさん、あなたはいったい……」


 そんなセツをまっすぐに見つめてからアルコは答える。


「私は医者です」


 正確には医者志望だけれど。しかしアルコはそんな細かいことはどうだってよかった。国難なのだから医師免許の有無など些末な問題だ。とにかく時間がないのだ。


「私が必ずセツちゃんを治してみせますからどうか力を貸してください。お願いします」


 そんな切迫したアルコの切実な思いが届いたのか、セツは寝そべった体勢のまま軽く頭を下げた。


「わかったとよ。こちらこそお願いしますけん」


 そんなわけで、アルコは自前のアタッシュケースを開くとメスや注射器や聴診器が収納されていた。その中から検査キットを二式取り出す。


「おい待て。まずは俺からだ。この条件以外は呑めねェ」


 そう言うとキンタロウはさっそく挑発するようにベェーッと舌を出した。

 妹思いの兄である。アルコはクスッと笑ってしまう。

 では、遠慮なく採取開始だ。

 綿棒をキンタロウの鼻孔に挿入してぬぐうとたまらず嗚咽を漏らした。それから血液を採取するためにアルコはキンタロウの腕をゴムチューブで縛ってから注射器を取り出してセッティングしたところでキンタロウの顔が青ざめる。


「おいおいまさかそんなもんを俺のゴムチューブで縛った腕の浮き上がった静脈に刺すつもりじゃねえだろうな?」

「まったくその通りです」

「おいおい勘弁してくれや」


 キンタロウはかぶりを振った。

 アルコはからかうように言う。


「まさかキンタロウ注射が怖いんですか?」

「当たり前だろ。意外と針も太ェしよ」

「まあワクチン接種とかの針と違って採血用21Gですからね。ある程度の太さがないと血液中の血球成分が壊れてしまいますので」

「そんなもん知らねえよ。どうにかしろ」

「どうにもできません」


 なおも渋るキンタロウにアルコはとどめの一撃を刺す。


「妹の前で情けないですよ」


 しかしそれが決め手となったようでキンタロウは観念したようにアルコに血管の浮いた腕を差し出した。


「わかったよ。今夜は出血大サービスだ。この吸血鬼ヤロー」

「医者を吸血鬼呼ばわりですか」


 アルコはため息を吐きながらキンタロウの腕にブスッと注射針を挿入した。


「ばっかおまえ、急にはやめろよ。……や、やばい、力が抜ける」


 血を抜かれたキンタロウは骨抜きになってしまった。

 そんなキンタロウの検体採取は無事終わった。


「なんだが犯された気分だぜ」


 そのキンタロウの感想にアルコは少なからず心外だった。

 そして今度はセツの番だった。


「おにぃのがんばったけん、セツもがんばる」


 意気込んだセツの体温を測ってからスムーズに検体採取も無事に終わりセツは疲れたのだろう眠ってしまった。アルコはセツに感謝して襖を閉めると居間に戻った。帰り支度を整えながらアルコは開かずの襖に背を向けてポロッとこぼす。


「セツちゃんも無菌城で最高の医療を受けることができれば一番いいのですが……」


 これはレアケースの症例だ。何かしらの竜痘に対する解決策の糸口が見つかる可能性はけして低くはないとアルコは考えていた。


「綺麗事抜かすな」


 キンタロウは吐き捨てるように言った。


「竜痘患者を通すわけがねえ。無菌城前で門前払いされるのがオチだろうさ」

「わかっています。でも綺麗事は必要だと思うんです」

「なに?」

「だってそれがみんなの基準になるから」


 現実とは違っても理想は掲げ続けなければならない。


「不当な当たり前が当たり前になっちゃったら駄目なんです。声を上げることに意義があるんです」

「そうは言っても、今モルドに住んでる連中が無菌城の病院に雪崩れ込んだらどうなると思う? たちまち医療崩壊を起こすのが関の山だ」

「…………」

「それが現実だろ」


 アルコもわかっていた。曲がりなりにもこの国の王女なのだから。

 そんなふうに顔を伏せるアルコを見つめて、キンタロウは気まずそうに頭を掻いたのち腰に巻いた灰色のつなぎをほどいて上半身に着込む。


「団地の外まで送る」

「いえ、いいですよ」

「この団地内には侵入者用のトラップが盛りだくさん仕掛けてある」

「トラップ……?」

「たとえば落とし穴、トラバサミ、圧殺の壁、無限階段、洪水の部屋、丸焼きのベランダ、レーザートラップ、飛び降り滑り台、ニンゲンホイホイ――」

「……も、もういいです」


 なんちゅう殺人団地だ。

 忍者屋敷でももっとやさしいだろう。

 肌寒さを感じるアルコにキンタロウはあっけらかんと述べた。


「この団地は本来素人じゃ立ち入ることも生きて出ることもできないんだよ」

「で、ではキンタロウがそこまでおっしゃるのでしたらお願いしましょうかね」

「それが賢明だ」


 というわけで竜爺とカビルに火の番を任せてアルコたちは火山灰宅を出る。


「さようならですじゃ」

「お邪魔しました。竜お爺さまもどうかお元気で」


 アルコは別れの挨拶を済ませると吸収缶の三つ搭載された白いガスマスクを被りアルコールマンに変身した。その横でキンタロウは黒い外套を羽織ってから提灯片手に錆びついて軋む鉄扉を開いた。


「タダ飯ぐらいのとんだ酔っ払いだったぜ」

「言っときますけどキンタロウを助けたから私は酔っ払っちゃったんですからね」

「別に助けてなんて頼んでねェ」

「へえそんなこと言っちゃうんですか」


 アルコは助けて損したと思っているとキンタロウは言う。


「それにゴリオだって俺のことを本気でどうこうするつもりはねェよ」

「強がってますよね? それ?」

「ちげェよ。毎回あーいう通過儀礼があんだよ」

「へ、変態プレイじゃないですか!」

「ようはここにも独自のルールがあるってこった。無菌城の人間にはわからねェよ」

「ええ……私が悪いんですか。あんな道の真ん中でそんな紛らわしいことしないでくださいよ」


 アルコが理解不能だと思いげんなりしていると突如キンタロウが今まさに踏み下ろそうとしたアルコの右足下を指さした。


「あっ、そこの階段の十三段目踏むと足なくなるぞ?」

「ひ、ひぃい!」


 こんな感じで生きた心地がしない殺人団地を脱出するアルコであった。しばらくするとキンタロウは歩を止め、そこからすこししたところには大きな鳥籠のような無菌城が見える。


「俺はここまでだ」

「そうですか」


 アルコは俯いてから一転元気な声を出す。


「今日は庶民の暮らしぶりが知れてよかったです。本当にありがとうございました」

「たいしたことしてねェけどな」

「まさかあんな臭い飯ばかりしか食べられていなかったとは……」

「いや、俺は好きで食ってんだけどな?」


 キンタロウはリアクションに困っていた。


「今度来るときは私も手土産を持ってきますし、団地まるごとピッカピッカに清掃して差し上げます」

「もう来るんじゃねェよ」

「そういうわけにはいきません。そうだ、であれば今度は無菌城にお招きしますよ」

「かはは。あんたはもっと自分の綺麗さに気づいたほうがいいな」

「そんな褒めてもアルコールしか出ませんよ」

場末ばすえのバーのママかよ」


 キンタロウは苦笑した。

 絶妙にふたりの会話は噛み合っていなかった。

 それから厳重なフェンスに囲われた検疫除染所に流し目を送る。


「住む世界が違うだろ。検疫証明書イエローカードも持ってねえ俺みたいなが無菌城に入れるわけがねェよ」

「そんな……」

「わかったな」

「わかりませんよ」

「だいたいあんたみたいな人がこんな貧民窟ひんみんくつに足を踏み入れている時点でおかしいんだよ」


 同じ国であるはずなのに……おかしいなんておかしいではないか。たった紙切れ一枚で人生が決まってしまうのか。これは疫病のせいなのかそれとも社会のせいなのか、はたまた人間という種の業という名の病なのだろうか。

 アルコはいろいろ言いたい言葉をグッと我慢してのみ込んでから一言だけ言った。


「無菌城は息苦しいです」

「王女様がなに言ってんだ」

「それに比べてここはどんな人でも菌でも受け入れてくれる大変いい場所です」

「ものは言いようだが、本当のモルドは息苦しいなんてもじゃねェぞ。まるでこの世の生き地獄だ」


 そう言って、キンタロウはつなぎのポケットから丸い小包みを取り出したのちアルコに差し出した。


「ほら、やるよ」

「そ、そんな……今日会ったばかりでプロポーズとか困ります」

「おめでたい勘違いをするな。単なるプレゼントだ」


 キンタロウに冷静に訂正されてアルコは拍子抜けを食らった。


「ですが今日は私の誕生日ではありませんけれど?」

「今日はクリスマス、だろう?」

「あー」


 アルコは一拍おいてから誤魔化すように言った。


「ま、まあ本当はわかっていましたけどね!」

「嘘こけ」


 ともあれ、アルコは頬を染めながら丸い小包みを受け取る。


「ところでなんですか? これ?」

「味噌だ」

「クリスマスプレゼントに味噌って……」

「まあせいぜいかわいがってやってくれ」


 それからキンタロウは背を向けて軽く手を振った。そのまま別れの挨拶を口にする。


「じゃあな。もう二度と会うこともねェだろうが」

「いいえ、また会えますよ」


 光と闇。

 明暗分かれた道をふたりは互いに背を向けて歩きはじめる。


「だってどんなに曲がりくねった道もきっとどこかに繋がっているのですから」


 そう言って、アルコ扮するアルコールマンは聖夜の灯に誘われた羽虫を狙うコウモリのようにマントを翻した。無菌城への入城を目指した。

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