第37話 お前など、王子であるこの自分に敵うべくもない

 姉と、その夫であるラインフェルデン公爵との茶会はそれなりには楽しめたが、ゴットフリートの心には気鬱が残った。

 兄との関係にひびが入る恐怖に竦んでしまっていた。


「殿下?」


 その鈴を転がしたような声が聞こえるまでは。


 ここが王宮の自分の部屋で、自分は愛らしい従妹姫、ジークマリンゲン大公女から話があるとかで聞いていたのだ。

 自分は安楽椅子に座り、ジークマリンゲン大公女のヘンリエッテはその近くのソファに座っていた。


「——ん?」

「上の空でございますのね! まったく、さきごろお約束致しましたのに」


 ヘンリエッテは、頬を膨らませていた。ゴットフリートと最も親しい姫君と言われる所以ゆえんだ。これほどまでに彼に感情をあらわにする女性は、他にいない。アガーテとも、胸襟きょうきんを開いて語り合えたかどうか。


「ああ、悪かったね」


 ゴットフリートは優美に笑う。ヘンリエッテは、世話になったアガーテに贈り物をしたいのだ。


「用意はしているんだ」


 そういって、彼は机の上に小箱を置いた。その箱の中には指輪が入っていた。紫水晶アメジストの。

 ヘンリエッテはふんわりと微笑む。


「良いお品ですわ。アメジスト。殿下とわたくしの目のお色のよう」

「そう。いつでも見守っているよ、という意味で」


 アガーテの心のグラスの水を受け取れるような存在になりたい。


「うふふ、これをレーヴェンタール伯爵夫人がおつけになって、あの玲瓏れいろうたる伯が優美な伯夫人をリードなさってワルツなどを踊るさまはどれだけ素敵でしょう……。美男美女夫婦とはあのようなご夫妻のことを言うのですね……」

「何を考えているのかな……?」


 うっとりするヘンリエッテに、ゴットフリートは紫水晶の目を揺らす。


 ヘンリエッテは、ゴットフリートの誕生祝賀のおりに、ちらりと出席したレーヴェンタール伯爵の端整な面差しに、すっかりご満悦のようであった。

 本当に最後のほうにちらりと顔を見せただけだったらしく、ゴットフリートも伯爵と言葉を交わす機会はなかった。交わしたくもなかったが。


 だが、あれがアガーテの夫か、という思いはあった。

 アガーテの夫はゴットフリートの父と密やかかつ親しげに言葉を交わしていた。

 一瞬だけ、我を忘れて茫然とした。それほどまでに玲瓏れいろうとした顔立ちと、怜悧な目許だったのだ。

 彼女の夫はすらりとした体つきに、薄い灰色の洒脱で上質なコートを身にまとい、やはりこれまた上品にしゃれた靴をはいていた。しかも、男性から見ても気障っぽい、嫌な感じがしなかった。アガーテが隣にいれば、芸術家がこぞって一幅の絵にしたがるだろう。


 アガーテの夫の人物は聞き及んでいる。明朗で有能。


 明朗で有能、なおかつ玲瓏とした美貌、貴公子然とした身嗜みだしなみ。

 茫然と見惚れたあと、強烈な惨めさが心を襲った。


 ——こんな夫がいて、アガーテが僕を見てくれるはずがない。当たり前ではないか。


 ゴットフリートは身嗜みなど気を使ったことはなかった。全部傅役のマルタに任せっぱなしで、威儀いぎを損なわない程度に上品であれば良いと考えていた。しかもまだ人として何もわからない。勉学しかしていない。


 だからアガーテの心を完全には掴めなかったのだ。


 そう気づいて、突然、不愉快になった。


 ——そうだ、アガーテはきっとあの男の表面に騙されているのだ。


 明朗で有能という評判、玲瓏とした美貌、貴公子然とした身嗜みは素晴らしい。だが、中身はどうだろう。


 妻のアガーテが流産したことなど表情一つ変えぬように見える男だ。しかも、妻と自分の関係を知ってかしらずか、自分の誕生祝賀に顔を見せた。知っていて顔を見せたならこれほど不愉快なことはない。


 お前など、と玲瓏たる端整な顔立ちの男の幻影に向かって毒吐どくづく。お前など、王子である責務を背負い謹厳に生きてきたこの自分にかなうべくもない、と。


 はあ、と内心の激情を抑えるために溜息ためいきをついていると、ヘンリエッテが顔を覗き込んできた。


「殿下、ご存知ですか? しかもあのような美貌の持ち主でありながら、レーヴェンタール伯爵はだそうですのよ。お友達たちが皆で申しておりました」

「……」


 愛妻家などと、とゴットフリートは一瞬だけ眉根を寄せた。


「殿下にはくだらないお話でございましたか?」

「いや、……びっくりしただけで。そんなにエッテにとっては、他の女性の夫が愛妻家かどうか気になるものなの?」

「まあ! 伯夫人がお幸せかどうかの、最も重要なことでしてよ」

「——」

「呆然としたお顔をなさって。そうそう、でも、普通の愛妻家と違って堅苦しくなく、他のご婦人たちとも気安くお話なさるとか。もちろん、奥様第一の伯からお声掛けすることはないそうですけれど」


 ヘンリエッテはまたもやうっとりした顔になり、ぼうっとした。ゴットフリートは薄く笑んで、ヘンリエッテの細い肩を叩く。


「レーヴェンタール伯爵と話したいの?」

「まさか。あれだけお話ししてくださった伯夫人のご夫君が、ひどい殿方だったらどうしようと——」


 酷い殿方、というところでゴットフリートは心臓に剣が刺さるように苦しくなった。

 自分は、アガーテにとって酷い男ではなかっただろうか。勝手に誘って、勝手にことを進めて。勝手に——。


「……エッテ、下品な物言いになっているよ」


 涙が出そうになるのをこらえながら、従妹をたしなめる。


「まあ! そうでしたわ」


 女官が扉を叩いた。どうぞというと、恐縮いたしますが、と返事が来た。


「大公女殿下、大公殿下がお呼びでございます」

「わかりました。失礼いたします」

「ああ」


 従妹は素直にゴットフリートの部屋から去っていった。

 ゴットフリートは机に置かれた小箱を見る。小箱の中身を開けて、アメジストの指輪にくちづけた。——酷い男であったとしても。後ろめたくとも。


「マルタ」


 マルタが顔を見せた。微笑みながら、小箱を丁寧に彼女に渡す。


「これを、——レーヴェンタール伯爵夫人に差し上げてくれ。絶対だ」

「殿下、伯夫人の穏やかな暮らしを……」

「絶対だ」


 傅役の女は、固くうなずいた。

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