第36話 兄の薄闇

 兄である王太子は、ゴットフリートに背を抜かされたが、すらりとした長身の、気品のある優雅な美青年だった。しかも聡明で文武に優れる。当然、女性たちが放っておく訳が無い。

 二十一という若さもあいまって、社交界で浮名をほしいままにしている。


 だというのに、いつも優雅に整えている亜麻色の髪をぼさぼさにしていた。目は充血して、いつもと様子が違っている。

 兄は呆然としながらゴットフリートに手を差し伸べてきた。


「兄上?」

「……ゴットフリート」

「……」


 ゴットフリートが不審げに眉根を寄せると、兄はいてきた。


「ドロテアは?」


 やはり兄上は姉上を探していた、とゴットフリートは、しれっとした表情で首を横に振る。


「さあ……」


 だが、聡明な兄はそんな弟の嘘を見抜いた。弟の白い顎に指先を当てながら。


「嘘だね。話し声が聞こえた。そなたと、ドロテアの」


 兄の奇妙につややかで追い込まれた表情に息ができなくなる。


「……兄上?」


 ふっ、と兄は美貌を歪ませた。ゴットフリートは肩を掴まれた。


「そなたの誕生祝賀が終わってから、ほとんど一ヶ月もドロテアが王宮にいるというのに、彼女とまるで会えないのはどういうことだ。ドロテアは私のものだ。そなたには決して渡さない。常々疑っていた、——そなたは私のものを全て……」


 どういう意味ですか、と兄に問いの声を漏らす。痛みに喘ぎながら。

 だが、突如、肩が解放された。兄は大きく溜息をついた。


「——なんでもない。私は少しおかしかったね」


 そして、兄は端整な笑みを唇に浮かべる。


「すまない。肩を掴んでしまって。痛くはなかった? いろいろと勘違いをしてしまって……。そう。そなたもドロテアの居所を知らないのか。彼女と仲の良いそなたなら知っていると思っていたのに」


 なんども背中を優しくさすられた。逆にその方が恐ろしかった。


 ——兄上の、今のは、何だ。


 兄は弟である自分のほうが見ていて目を回すほど忙しく、あまり弟妹に構う余裕はない。姉は例外として兄ととても親しかったが。そのせいか、兄は弟妹に常に寛容に、穏和に接していた。

 だが、今のは怪物が牙をむいたようで恐ろしかった。


 何か自分は兄にとって良くないことをしてしまったのだろうか。兄を傷つけてしまったのだろうか。


「あ、兄上、申し訳ございません——」

「あははっ、おおかた、夫とのんびり過ごしているのだろうね。私は邪魔者というわけだ」

「あの——」

「冗談だ」


 兄は愛嬌ある笑みを浮かべた。全ての女性の心を捉えて離さないだろう、という。


「では戻るね。政務があるから。そなたもそろそろ本格的に政務に参加するのだから、こんな庭でほっつき歩いていてはいけない」


 ゴットフリートは憮然ぶぜんたる面持ちで、足早に去っていく兄を見送った。

 肩をさする。この握力の強さはなんなのだろう。そして、自分に向けられた悪意は。

 一瞬だけ、アガーテの優しい手が、いたわるように肩をさすって来たように感じた。


 ——ゴットフリートさま。お怪我などは。


 だが、「大丈夫だ」と答えそうになって、愛おしい人は自分の側におらず、自分が傷つけて離れていってしまったことに気づく。


 ——アガーテに会いたい。


 胸が締め付けられるように苦しい。

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