第32話 エリアスの物として書き直される

 表情が固まっているアガーテを見て、エリアスはその耳元に囁いた。


 「……どうしてつらそうな顔をしているの? 全世界が君の敵に回ったみたいな顔をしているね」

「……許して」

「許して、ってどうしたの。少なくとも私は君の敵じゃないよ? とりあえずお茶の時間にしよう。——にゆっくり話そうか」


 ——夜。


 アガーテの心の奥底は歓喜の声をあげた。ようやく心底から望んだことが、——エリアスに目一杯抱きしめてもらうことが、できる。だが、アガーテそのものは、大きく首を横に振った。罪に塗れた自分が彼に抱かれて良いはずがない。

  

「何故? 月の障りではないよね? 私の記憶が正しければ、先週くらいに終わっているはずだけれど」


 アガーテは頷いた。

 無事に月の障りは来た。王子の子を身ごもることはなかった。自分に月の障りが来るのが当然だと考えている夫の思考が胸を締め付ける。そして、覚えたくもなかっただろうに、自分の月の障りの周期を夫に知悉させてしまっていたことにも。

 ごめんなさい、と大粒の涙を浮かべる。エリアスも何故か、泣きそうな表情になっていた。

 

「……そうだよね。辛いよね。訳がわからないよね。泣き叫びたいよね。疑問だらけだよね。本当は。君の反応がとても正しい。それが出来ない私はおかしい。だから、まだ私たちは私たちでいるかどうか、確認させてくれないかなあ——」


 夫の大きく温かい手が、彼女の腰を滑り、きつく抱きしめてきた。

 耳朶を噛まれ、夫の唇がアガーテの頬を吸い、ついに唇を貪られた。首筋やむき出しの鎖骨に、唇が落とされていく。

 気づけば使用人は誰もおらず、二人っきりになっていた。

 無限に抱擁されているような時間が過ぎていく。


「……ぁ」


 夫の整えられた眉に、睫毛の長いアーモンド型の二重の瞳に、涼しげな目元に、通った鼻筋に、官能的な唇に、——端整な顔立ちと優雅な仕草に、脳髄が痺れ、身体が熱された飴のようにとろとろと溶けていく。

 アガーテはやはりエリアスの奴隷だった。王子のものではない。足の力が抜け、姿勢が崩れていく。

 夫は完全に蕩けた顔をしているアガーテを抱き止めると、ふふ、と微笑んだ。


「本当におかえり、アガーテ。私は少し君を放置し過ぎたね。閨をずっと共にしていなかったけれど、愛さなくなってしまったわけではないんだよ」


 恍惚としたまま、蕩けきっている女は素直に頷いた。立っていられずに足がもつれ、夫の太腿と絡まる。毒を流し込まれたかのように小刻みに彼女は震えだす。

 夫に優しく囁かれた。

 

「未だ乳臭さの抜けぬ子供に君を完全に渡すつもりはない。君は私の妻で、アガーテ・フォン・レーヴェンタールだ。私の、貞淑な最愛の妻」


 アガーテはまだ惚けた顔をしながら息を荒げ、エリアスの首に手を伸ばし、彼のスカーフを解こうとした。そのふしだらな手が優雅にぱしりと叩かれる。


「アガーテ。まったく躾のなっていない。続きは今日の夜。今はお茶の時間だよ」

「……あ、……おちゃの、じかん?」


 情炎に濡れていた女のみどりの瞳が、正気を取り戻していく。エリアスはアガーテの肩を引き寄せて、ぽんぽんと背中を叩いた。


「今日はグリューンガウで手に入れた加密列茶カモミール・ティーと、君の実家が送ってきたアプリコットでパイを作るそうだよ。君の実家は野菜や果樹やハーブの栽培が得意だよね。楽しみだね」

「……ええ。そうね。お父様とお母様のところに久しぶりに挨拶に行かないと」


 王子の出現により乱れきっていた脳内が、ちゃんとエリアスの物として書き直されたアガーテは微笑んだ。夫の肩に頭をもたせかける。


 夫婦二人で腕を組んで居間にやってきた姿に、使用人達は、相変わらず仲がよろしいことで、と微笑みあった。

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