第31話 夫との再会

 アガーテは——レーヴェンタール伯爵夫人は、荷物をまとめると、翌朝すぐに首都へ戻る馬車に飛び乗った。

 ゴットフリートはそれを見送ることもできず、まるで故無き死罪を宣告されたかのように、自室の寝台にうずくまって呆然としていた。


 しばらくしてアガーテにあてがっていた部屋へふらふら赴くと、マルタが下働きたちに「消してちょうだい」とため息をついていた。問い質すと、壁紙に女官たちが記した卑猥な落書きのあとがあった。アガーテはそれを美しく刺繍した布で覆い隠していた。

 そういえば、アガーテは刺繍をよくやっていた気がする。ゴットフリートは蒼白になった。


 ——僕はあの夫より、あのひとを苦しめていたのだろうか?


 女官を全員呼び出し、彼女らを詰問しても、心は晴れなかった。



 ***


 首都の中央より少しずれたところにある王宮、その西門より歩いて十五分程の近辺に、レーヴェンタール伯爵邸の本邸がある。大公や公爵や侯爵、自分たちと同じ伯爵、そんな貴族達の住む館が軒を並べるその地区は、瀟洒で静謐だった。

 普段は王宮から遠い、上流の市民達の住むやや騒がし目の地区にある別邸に住んでいるが、夫は珍しくも本邸に帰還したらしい。


 馬車の中でアガーテは倒れ伏していた。少年との情愛に後ろ髪を引かれて、死ぬこともできなかった。夫を裏切り尽くした。『伯爵夫人』のままで良いのだろうか。

 瀟洒で静謐な通りを馬車が進むたびに、ここに住まう全員が自分と第二王子のふしだらな関係を知悉しているような気がして、叫んでしまいそうになった。


 それを押し留めているのは、もう一度夫に会いたい、という感情だけなのかもしれなかった。


 伯爵という身分にふさわしからぬ、別邸の方がどちらかというと広い、こじんまりした屋敷の木の扉を開けると、夫が踊り場の階段に本を積み重ねていた。——ああ。なるほど、とアガーテは本邸に帰還した理由に得心がいった。読書家らしい理由だ。

 罪悪感を紛らわすための糸口を見つけたような気分になって、口を動かす。


「……嫁いで来た時からずうっと疑問だったのだけれど、あなたはどうして陛下の蔵書を自由に借りられるの?」


 グリューンガウから戻ってきてすぐ、王宮へ参じ、王室の図書室へ赴いて本を借りてきたらしい。それで帰るのが面倒くさくなって、ああそういえば本邸の方が近いから、そちらに帰ろうと考えたのだろう。

 夫はその美しい灰色の瞳を凍らせて数秒黙った後、肩を竦めて微笑んだ。


「……あんまりに貧乏な幼少期を送っていたら、ある非常に知的で優しい高貴なお方が憐れんでくれたから。——おかえり、アガーテ」

「ただいま戻りました。あなたもおかえりなさい、エリアス。親切な方……だったの?」

「——さあ。知らない。先程も帰還のご挨拶に伺ったのだけど、その方は聖人か天使で、自分は恩寵を受けているのだと誇らしく思っている」


 夫はまるで契約書類でも読むかのように無機質に返答した。それ以上何も聞かれたくないようだった。

 まるで薄氷の上を歩いているような気分だ。夫はアガーテが離宮に逗留していることを知らない——はずなのに、知っているかのようだった。

 怯える彼女を見ずに、夫は限りなく優しく微笑みながら事実を詰めていく。


「聞きたいことがあるんだけれど」

「——何」

「使用人達は、君が友人のオストヴァルト侯爵夫人に誘われて、保養先の離宮で催された演奏会に行ったときから調子を崩したと言っていた」

「……」

「それで離宮から全く動けないくらい大変だったと」

「……」

「どうして教えてくれなかったの? それで、どうして——」


 エリアスは吹き出しながら懐から手紙を出した。手紙の封筒には、アガーテの筆跡で、殿と宛名が記されていた。


「手紙は、必ず本家の伯父上か伯母上経由で私のところへ来るの?」


 夫からの手紙は、王子の傅役のマルタが密かに届けてくれた。だが、こちらが夫に手紙を書くとゴットフリートがひどく拗ねた。まだ年若く幼い王子の目をかいくぐって便箋に文字を連ね、本家に手紙を送ると偽っていた。

 アガーテの舌はこわばり、声帯が締まる。今すぐ殺して、と叫びたいのに。


 明朗な笑い声を立てて、夫はアガーテの方を向いて、階段の踊り場からこつこつと足音を立ててこちらに向かって降りてきた。


 「あははっ、私に心配をかけさせたくなかったし、郵便事情がよくなかったんだね。私は呑気な男だったわけだ。妻が目をぐるぐるさせて恐れ多くも離宮で動けなくなっていたというのに、手紙で自分の話ばっかり書き送っていた訳だから」


 踊り場にある大窓の光が反射し、逆光になっていて、彼の表情が見えなかった。栗色の巻き毛だけが、光に照らされて輝いて見えた。

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