第2章 庭園での密会

第3話 庭園での密会(1)

 目を覚ますと、そこには変わらぬ自分の部屋の風景が広がっていた。大きな窓。花柄の壁紙。本棚。本棚の上にある小さな夫の肖像画。その横にある、王妃から下賜された宝石を入れている贅美を極めた箱。

 何も変わることはない。春の晴れ。


 昨日のことは単なる悪夢だったのだろう。だいたい、敬慕する王妃と二人きりで茶会をするなど、いかにも自分向けの都合の良い夢だ。


 扉が叩かれた。

 返事をすると、夫のエリアスだった。家族にもおおやけにできない仕事をしている夫とは、寝室を分けている。


「大丈夫? 昨日は随分と王妃陛下のところから疲れて帰ってきて、ぐるぐると目を回しながら気絶してしまっていたけど……」


 現実に引き戻される。びくり、とアガーテの身体が震えた。夫は寝台に腰掛けて彼女の顔をうかがってきた。何かにすがるように、夫の手を握りしめてしまっていた。


「……どうしたの」


 夫の普段は明るい表情が、少し曇る。


「王妃陛下に何か難しいことでも言われた?」


 あなたを裏切れといわれた、などということもできず、ただアガーテは夫の腕にすがった。


「な、何かしらね。なんだか王妃陛下のところから帰ってきたらいきなり調子が悪くなって——」


 声をうわずらせると、夫が彼女の髪をしっかりした指でかきわけてきた。そっと抱き寄せられる。夫の体温と鼓動を感じる。静かに、彼の胸の上にくちづけを落とす。


「申し訳ない。こんなときに出立するなんて」


 あ、とアガーテは夫の胸のなかで考えついた。


「わたくしも、あなたといっしょに連れて行ってくれる?」


 王子もそうすれば正気に返るだろう。

 よくあるのだ、少年には。通りすがりの見ず知らずの女性を美しいと思って憧れたり、その女性の幻影に焦がれたりすることが。そして、いずれ大人になるとともにその面影は静かに消えていく。

 それと同じ類の泡沫うたかたのような感情を抱かれて、夫との結婚生活を台無しにしたくなかった。


 だが、何も知らない夫は大笑いした。


「淋しがってるの? まったく、アガーテは。ごめんね。今度行く東のグリューンガウは政情が荒れてて君を連れていけないんだ。それに、慣れてるでしょうに」

「違うの」

「何が違うの?」

「……」


 やはり、本当のところは言えなかった。夫の首に腕を絡めて、寝台へ引き倒す。


 ——エリアスの抱擁があれば、少しは覚悟ができて安心するかもしれない。


 自分のどこがそう哀しく叫んでいる。夫の首元のボタンを外し、くちづけを求める。優しくくちづけたそのあと、夫はアガーテを抱き起こす。


「アガーテ。こんなときまで、子供を作ることなんて考えなくていいよ。無理はしないで」


 何度も頭を撫でられた。アガーテは夫の腕のなかで首を大きく横に振る。


「ごめんなさい」


 謝るしかない。夫の灰色の目をまっすぐに見つめる。


「あなたの好きにしていいから。わたくしを離婚してもいいし、修道院に送ってもいい。殴っても叩いてもいい。殺してもいい。だから、わたくしがあなたを愛しているということを忘れないで」


 三秒間、夫は固まった。目を大きく瞬かせ、「アガーテ?」と不審げに眉を寄せる。


「あのね。アガーテ、君はものすーっごく疲れてる、と思うんだよ。私は君と離婚するつもりはないし、これ以上自分を責めないで。寝たほうがいいよ。うん……、もう少し、どこか静かなところで療養させたほうがよかったかなぁ……」


 寝台に押し付けられ、掛け布を丁寧に掛けられた。さらに毛布まで掛けられる。夫のしっかりした手が彼女のまぶたを優しく閉じる。その手の暖かさに、とろんと眠りに落ちた。


 夫は何も知らないまま、その三日後に旅立っていった。急に出立予定が早まったのだという。


 

 夫が旅立った翌々日に、王宮に呼ばれた。

 金襴の縁取りのされた美しい招待状が、王妃の名で来た。


 ——ゴットフリート殿下も参加されるアフタヌーンティー。


 そういうふうに流麗な筆跡で記されていた。招待状は持参し、送り主に返すようにとも書かれていた。

 すぐにねやに参じるのではないことに、ある意味で肩透かしを食った。


 王宮へ着くと、以前王妃との二人きりの茶会の時にいた、謹厳そうな女官が待っていた。招待状を受け取ると、石膏像のように表情なく、「こちらでございます」と案内してくる。

 通る廊下は人が全くおらず、配慮されているのがわかる。王子女たちの住まう王宮の西翼に着く。西翼の庭園に面する吹きさらしの回廊で、謹厳な女官は静かに言った。


「本来であれば、すぐにでも床入りを、と考えておりましたが、殿下の格別のご配慮により、今日の床入りはございません」

「……ご配慮、いたみいります」


 とっさに頭を下げた。女官はこちらを振り向くと、少しだけその青の瞳の奥を揺らす。


「……ですが、いずれにせよ、殿下は貴女さまを強く望んでおいでです」

「あの、……一つお聞きしても」

「なんでしょう」

「わたくしは、殿下にきちんとお会いしたことがないのです。どうして——」


 女官はどこか微笑ましくも悲しいものを思い起こすような顔をした。

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