第2話 王妃の密命(2)

 アガーテは微笑み、穏やかに首をかしげる。


「まあ、なんでございましょう」


 しっかりした気質の王妃から頼みごとをされるのは、誇らしくなる。

 王妃は目を伏せた。どこか憂鬱そうに。


「そなたは夫と仲睦まじいと聞く。まことか?」

「あ、え!? ……あ、まあ、他の夫婦の実情を知りませんので、よくはわかりませんが、夫は子のできないわたくしに非常に優しくしてくださいます」


 仲睦まじい夫婦の大半がそうであるように、夫婦仲を聞かれるとどうも心のどこかがむず痒くなって気恥ずかしい。曖昧な笑みを浮かべたアガーテに、王妃は哀しげな顔をした。


「さようか。長年子ができなかった故、もしや実は疎遠なのではないかと思っていたが……。では、離婚する気もないな?」

「は、はい。夫の親族はどう思っているかわかりませんが……」


 王妃は何か考え込むように庭園のほうを見た。


「夫は外国へ赴任するとか。しばらく留守になるだろう。その間、淋しいこともあるだろう?」

「まぁ、淋しくはなります……」


 あらやだわ、王妃さまったら、国王陛下と喧嘩でもされたのかしら、だからこんな奇妙なことをお伺いに、とやはりこのときのアガーテはあまりにことを考えていた。


「実は」と王妃は静かにいった。


「王子のになってほしいのだ」

「……王妃陛下?」


 庭園のさわさわとした葉ずれの音と、小鳥のさえずりと、どこかから響く噴水の水音しか聞こえなくなる。

 話し相手、というのが、単に王子にご機嫌伺いにいって、しゃべって帰ってくる、というのではないことは、アガーテにもわかった。

 とたんに、薔薇茶ローズ・ティーの赤が、血のようにおぞましい赤に見えてくる。


「王子はを知らぬ。やってほしい」


 理解不能の申し付けに体が恐怖で慄いた。


「あの、王妃陛下、わたくしではなく、それをするのは他のそういったことに慣れた女官——」

「どうしても、お前がいいと言うのだ。わたくしの次男、第二王子のゴットフリートが」


 アガーテは唖然とした。だが、と同時に安心して婉然えんぜんとした笑い声を立てた。


「王妃陛下、まあ、そういうことでしたの……!」


 ゴットフリート王子は非常に真面目な性格と評判でまだ十代半ばほど。まだ本当にいとけない少年だ。道に外れたことを要求するわけがなかった。


 アガーテは真面目という以外は第二王子の人となりを知らないが、王妃の側に参じる途中、遠くから見たことはある。王妃によく似た金糸のごとき髪の持ち主で、よく、難しい政治や軍事の本を片手に歩いていた。


「まあ、殿下にも縁談の相手ができましたのね。それで、わたくしがその恋の仲立ちをすればよいのですね。お相手の姫君はどちらです? 殿下とはご縁が薄うございますが、がんばってみます」


 なんだ、もったいぶらずにそうおっしゃってくださいませ、いくらでも恋のキューピットになりますわ、とアガーテは微笑む。


 だが、王妃はすべての表情を押しこめて告げた。


「そなたは美しい。性格も温厚で貞淑と評判だ。だが、人の妻である」

「……王妃陛下?」

「……ゴットフリートが、お前を見初めた」


 王妃の言葉がまるで遠い異国の言葉であるかのように理解ができない。


「あの、おっしゃっていることが、よく……」

「わたくしのところに出入りするそなたに目を奪われた、と。そなたの後をつけていって、人となりを知るたびにもっと慕わしくなった、と。十二も年上だぞ、といったら、政略結婚ではそういうことはよくあるようですが、と笑って返された。だが……、わたくしが軽率だったのだ——」


 憔悴しょうすいしてすでに涙がまなじりに溜まっている王妃は、額を指で押さえて大きくため息を吐いた。何かあったのだろうか。


「息子の浮ついた恋をとめるために、レーヴェンタール伯爵夫人にはもうすでに夫がいる、と告げたら、——あれは思いつめやすい気質ゆえ、自ら命を断とうとした。それから全く笑ってくれぬ」


 どんな顔をすべきなのかわからない。緊張の糸が張り詰めていく。


「……お願いがある。ゴットフリートのねやに侍ってほしい。そうすれば息子は笑うだろう」

「あ……の……」

「ゴットフリートはまだ女をらぬゆえ、ちょうど閨の指導という形でいいだろう。貴族の女には……よくあることだ。一晩でいい。あとはわたくしがあれに言って聞かせる」


 思わず、身体中の力が抜けた。息の仕方がわからなくなり、肩を上下させた。


「すまぬ」

 アガーテは首を大きく横に振った。


「あ、の、……ご冗談でしょう?」

「冗談ではない」

「おっしゃられたとおり、わ、わたくしは殿下より十二も年上にございます。殿下がお生まれになった頃、もう社交界に出るか出ないかという話をしておりました……が」

「それも伝えた。それでもかまわないとゴットフリートは聞かぬと申したであろう」

「おっしゃられたとおり、わたくしには夫がおります!」

「だから!」


 王妃は声を荒げたあと、あっ、と周囲を見回した。急いで声を低くする。


「だからこれほどまでに悩んでおるのだろうが」


 アガーテは涙を浮かべて懸命に抵抗する。


「殿下は少々勘違いなさっておいでです、もう少し若くてお年の近い、独身の淑女をお相手になさるべきかと」


 王妃はいらついたようにこめかみを押さえた。息子の心を弄ぶアガーテを忌々しげに見ながらも声を太く、威厳あるものにしてきた。


「そなたは王子の望みに逆らう気か。この王国で最も尊きもののひとりの意志に逆らう気か? すこぅし昔であれば、すぐに夫ともども命はなかったはずだがの」


 ひ、とアガーテの心に冷たいさざ波が立った。心臓が凍りついていく。

 この国で最も高貴な女のサファイアのような瞳だけが、今のアガーテの心を縛り付ける。


「のう? レーヴェンタール伯爵夫人。夫がまさか、などということがないよう、よくよく考えられよ」

「お許しを……!」


 アガーテは急いで地面に降り、王妃のつま先の前にうずくまった。王妃の威厳ある唇が弧を描く。


「まあ、夫がそばにいるうちから殿下に侍ってもらうというのも酷なので、夫が赴任先に行ってから殿下にお目見えを許そう」


 頷くことしかできなかった。

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